けらえいこ『7年目のセキララ結婚生活』


7年目のセキララ結婚生活
 電車で「前衛」を読んでいたら、子どもたちが周りに集まってきて、笑い転げているので、なんだろうとおもっていたら、『あたしンち』のお母さんを人型に切ったしおりを、ぼくがその雑誌にはさんで使っていたからだった。

 いまや、けらえいこは、押しも押されもせぬ大メジャー漫画家になった。

 ぼくはけらえいこの作品は、『まったく、若奥様ってヤツぁ!』のころから、ほとんどすべてを持っているけど、『若奥様ってヤツぁ!』はほとんど注目されなかった。
 けらいえこが、注目をあつめるのは、そのあとの『セキララ結婚生活』以後である。
 『若奥様』は、セキララシリーズとまったく同じ、新婚夫婦の日常マンガなのだが、生々しい性生活や、毒のある笑いがふくまれている。セキララシリーズ以後は、自分を題材にしたエッセイに切り替わったことによって、毒素が消え、自分自身を笑い者にするという謙虚さが前面に出てきた。そして、性生活もバッサリ切り落とすことによって、「だれでも安心して読めるマンガ」に変わった。
 そして、セキララシリーズをへて、ふたたびけらえいこは、虚構の世界に帰ってきた。それが『あたしンち』である。これは、セキララシリーズをはるかにこえる、サザエさん的ナショナルヒットとなった。

 『若奥様』と『あたしンち』を媒介する、けらえいこの本領は、やはりセキララシリーズである。
 このシリーズによって、けらえいこは、エッセイマンガというものを、新しい段階に高めた。
 トゥリビリャリズム、つまり瑣末を書き連ねることがリアリティーだとかんちがいする傾向というものがあるけど、けらえいこは、むしろ瑣末を徹底的にとりだすことによって、見事にリアリティーを獲得してしまった。トゥリビリャリズム批判にたいする、もっとも実践的な反論といっていい。

 まあ、要は、だれもコトバや絵にできなかった、「それって、あるある!」を大量に、そして見事に描き切った最初の漫画家なのである。

 『7年目のセキララ結婚生活』で笑ったのが、
●オット(夫)が本を読んでいるときに、さかむけやくちびるの荒れをむきたがる。
●妻が遠い目をして、ホクロの毛をいじっている。アゴの下の肉をひっぱっている。
●妻が洗濯物をたたみながらボーッとして、靴下に手をいれて、「へび」の真似をしている。
●妻の話が長過ぎて、聞いているオットが、途中でよそ事を考えはじめ、気がつくとまだ同じ話をしている。
●食べるときに、一瞬だけ、ものすごく変な顔になる。
である。
 まさに「それって、あるある!」としかいいようがないのだ。

 この本で、しばしば「オット」の立場から、妻を批評するマンガ形式にしているように、ぼくは、けらのセキララシリーズには、かなり冷徹な客観主義が存在していると思う。

 他の凡百のエッセイマンガが、けらえいこのそれを真似ようとしながら、遠く及ばないのは、文字どおり「随想」になっていて、主観や日常の垂れ流しだからだろう。
 『あずきちゃん』などで有名な木村千歌の『パジャマデート』は、やはりカップルのエッセイマンガだが、それはだらしなく主観を垂れ流しつづけている。木村のマンガの「面白さ」は、この独り善がりなラブラブぶりを暴走させることによって、はからずもうまれるのだが、『パジャマデート』では完全に失敗している。

 この冷徹な客観主義と、根底にもっている毒は、『あたしンち』を高いクオリティで維持している。アニメ『サザエさん』や『ちびまるこちゃん』のたどった退廃――たんなる「ほんわか」で丸め込むのをきびしく拒否している。
 今後、『あたしンち』がますますヒットするにつれて、「ほんわか」度が高まらぬことを祈る。


(メディアファクトリー)


採点83点/100
年配者でも楽しめる度★★★☆☆
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その後、『BSマンガ夜話』によって、「オット」は職をやめて、妻のサポートに専念し、アイデアをふくめて出していることがわかった。ぼくが上述で「オットから見た、けら」を書いていることを客観力の根拠としてあげたのだが、オットが加わることによって担保された客観力であったことが判明した。(2003.11.5記)