化粧品パッケージ、柴門ふみ起用の失敗


 漫画家に漫画をかかせて商品のパッケージにするというのは、どうなのだろう。
 以前、柴門ふみに化粧品かなにかのパッケージを描かせていたのをみたことがある。

 柴門ふみという漫画家は、お世辞にも絵がうまいとはいえない。
 しかし、評論家の関川夏央が「視覚的には筆づかいが大まか」とのべたうえで、「その特徴はダイアローグにある」「ダイアローグの緻密さ」と柴門を規定し、「考えぬかれた等倍のダイアローグと、それらが組みあげた等倍のドラマを持っている。それは現代日本の知識的都市生活者あるいは知識的大衆の意識や現実と等倍ということであって、すなわち彼女のドラマにはわたしたち自身が登場するのである」とのべているように、会話とドラマがあって、彼女の漫画ははじめて生命を吹き込まれる。
 どれほど粗略な絵として出発しようとも、いったん彼女のドラマに引き込まれるなら、主人公が悩ましげにあるいは苛立たしげに髪をかきあげるしぐさにすら、ぼくはドキリとする。

 だが、会話やドラマと切り離された柴門の絵は、逆に無力であり、根無し草であり、ただの描き殴りである。

 そこに、柴門ふみに化粧品パッケージの絵をまかせた担当者のまぬけさがある。

 石ノ森章太郎が描いたライターの箱の絵も見たことがあるが、見た瞬間に、1970年代間末のアイドルが水商売に流れていったような、違和感をおぼえた。

 担当者「石ノ森先生が描いてくれるそうです!」
 部長 「そうか! でかした!」

 そんなヨロコビもつかの間、出来上がった絵をみて、泡を吹いたにちがいない。巨匠だから、描き直させるわけにもいかんし。ぼくには、そのような光景が見える。いや、知らないけど。

 絵の絶大な訴求力に比して内容がスカスカなのは、昨今のライトノベルズだ。
 大塚英志が「『スニーカー文庫のような小説』はまんがやアニメのカバーイラストに頼っているから駄目なのだ」といったように(『キャラクター小説の作り方』)、ぼくは、これらの絵にどれだけだまされたかしれない。

 さて、そういうなかで、最近「ビューティーン」という10代女性むけの毛染め(表現が古くてすいません)を偶然ドラッグストアで見たのだが、この商品には矢沢あいのイラストが使われていた。
 七尾藍佳が矢沢あいの進化する絵柄を評して「矢沢あいは非常に詩的な漫画家だった。そこからの変化は、絵で言えば、フワフワしたタッチがよりはっきりとし、全体的にポップでキャッチーでストレートになった。言ってみれば、矢沢あいはその時の流行にとにかく敏感なのである」とのべているが、この絵柄は商品に見事にハマっていると素人目にも思われた。

 ある年代層にウケている漫画家をそのままその世代の商品のパッケージの絵柄づくりに起用することはできない。柴門が失格し、矢沢が合格したのは、その典型で、漫画への愛がなければ失敗する。

 わたしが、20〜30才むけの化粧品のパッケージに起用できると思える漫画家は、●桜沢エリカ●西村しのぶ●吉田秋生●いくえみ綾●槙村さとる●南Q太●青木光恵●岡崎京子●冬目景、であろう。
 吉野朔実や逢坂みえこ、くらもちふさこなどは、うっかり採用してしまいそうだが、その幻想性や、実は流行に鈍感などの理由で、危険である。

 起用したら、その化粧品会社が破滅すると思われるのは、●青木雄二●どおくまん●水島新司●深見じゅん●ジョージ秋山●北見けんいち……


 まあ、これくらいにしておこう。