山田昌弘『希望格差社会』


 カバーのカエシについている解説が本書の内容を端的に表している。

「職業・家庭・教育、そのすべてが不安定化しているリスク社会日本。
 『勝ち組』と『負け組』の格差が、いやおうなく拡大するなかで、
 『努力は報われない』と感じた人々から『希望』が消滅していく。
 将来に希望がもてる人と、将来に絶望している人の分裂、
 これが『希望格差社会』である」

 本書の内容は1章「不安定化する社会のなかで」に集約されている。

 「リスク化」(いままで安全、安心と思われていた日常生活が、リスクを伴ったものになる傾向)と、「二極化」(戦後縮小に向かっていた様々な格差が、拡大に向かうこと)というふたつをキーワードとして、希望格差を生み出す過程を描く。すなわち「『量的格差(経済的格差)』は『質的格差(職種やライフスタイルの格差、ステイタスの格差)』を生み、そこから『心理的格差(希望の格差)』につながる」(p.15)ということである。
 山田はこの現象をグローバリゼーションのもとでの「先進資本主義国共通の現象」(p.17)とみなす。この現象が不可逆的なのは「社会が豊かになり、人々の自由度が増したからである」(p.20)だと山田は指摘する。豊かさを維持したいがために、問題を回避する行動がとれなくなるというわけだ。

 この基本概念は2章「リスク化する日本社会――現代のリスクの特徴」と、3章「二極化する日本社会――引き裂かれる社会」で展開される。だいたいここまでを読めば、大ざっぱな流れはわかるようになっている。
 4〜8章はこの過程をさらにくわしく追ったもので、刺激的な部分はむしろこちらの方に含まれている。
 9章「いま何ができるのか、すべきなのか」で、山田なりの対策を論じる。


■刺激的な数多くの論点

 個々の論点は、いくつか興味深いものが多い。
 肯定するかしないかは別にして、まさに「興味深い」といったところだ。

●リスクが一般的になった社会では、弱者がまとまりにくい
 リスクと安全の境界が消失しリスクが普遍化してしまったために、リスクは「特定の人々に集中的に生じるのではなく、確率的に『ふりかかる』」(p.44)。「『弱者に転落するかもしれない』という意識だけでは、連帯することは不可能である。なぜなら、多くの人は『弱者に転落しなくて済む』と思っていて、実際に転落しない人がいるからである」(p.45)。
 ぼくもそう思うのだが、これは、自己責任の強調とあいまって、不幸の「個人化」をもたらす。
 ぼくは『愛すべき娘たち』『ピエタ』の感想文のところでも少しだけ述べたが、現代は貧困や不幸が、屈折して個人を強襲する時代であるとぼくも思う。就職できない若者やリストラされた中高年たちは、ずっと自分だけを責め続ける。

●家族が格差の緩衝帯にならずにその拡大の契機となる
 「強者(職業世界での)が強者を選び(夫婦の場合)、強者が強者を作り出す(親子の場合)、その対極で、弱者は弱者を選ぶ以外に選択肢がなく、弱者は弱者しか作り出せないという事態が生じている。つまり、家族は、格差を緩和するものではなく、むしろ、格差を拡大させるものとして機能し始めるのが、近年の特徴なのである」(p.66)。
 ところで、山田は弱者・弱者連合について、「フリーター同士のできちゃった婚」を連発する。しつこいっつうの

●戦後教育システムはゆるやかな差別・選別制度だった
 社会学者である山田自身がこの本の中で、教育学者たちが語る人間の発達の可能性の称揚などをウザく思っていることを吐露しているのだが、たしかに山田の論調はきわめて冷静――というか冷酷である。
 人がぞっとするようなことを平気でいう。
 その一つが、これだ。
 戦後日本の教育システムとはゆるやかな差別・選別のシステム、パイプラインであり、受験のなかで「過大な希望」をリスクなしにあきらめさせていくのに適した制度だったという。どの学校へいけばどれくらいの人生が歩めるかというモノサシになっていたと山田は主張する。
 ところが、山田によれば、現代ではこのパイプラインが疲労し、漏れが発生している。
 たとえば、工業高校を出れば、昔は大企業の工場勤務という道があったが、今はそこの工場で正社員として働ける者は少数である。短大・女子大を出た女性も、一般職→結婚というコースが見えにくくなり、派遣への置き換えと、結婚相手たる男性正社員の数の激減と不安定化がおきている。――これが山田の指摘する現実だ。

●若者が不良債権化していく
 この言葉もどきりとする言葉だ。
 山田は、若者の不安定就労の原因について、不況説と若者しばられたくない説の二つを経済の構造的変化をみない謬論だとしりぞけたうえで、「九〇年代のニューエコノミーの進展」(p.117〜8)だと述べる。すなわち「労働者が、専門的・中核的労働者と単純労働者へと二極化し、単純労働者部分が、非正規雇用のアルバイト、派遣社員等に置き換えられつつある。その影響が、若者たちに増幅した形で現れた姿が『フリーター』なのである」(p.119)とする。
 これはぼくは正しいと思う。
 フリーターを「夢追い型」「やむを得ず型」などと分類することに、山田が「あまり意味がな」い、とのべるのは、そのような「主観的な差が重要なのではない」(p.124)からだ。「どのケースでも、自分が望む職(立場)に就いていないということが重要なのである」(同)。「いつか、自分の理想的な仕事や立場に就けるはず、と思いながら、単純労働者である自分の姿を心理的に正当化するのが、フリーターの抱く夢の本質ではないだろうか」(p.125)。
 しかし、「門」の大きさが決まっている以上、「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である」(p.127)と山田は冷酷に宣言する。そして冷徹な計算をするのだ。一生大学教員になれない院生が年1万人、一生大企業のホワイトカラーになれない大卒者が年数万人、一生中小企業の正社員になれない高卒者が年10万人、正社員と結婚できない女性が年20万人……こうやって膨大な数の「不良債権化したフリーター」が増えていく、と山田は指摘するのである。

●学力の二極化
 OECDなどの学力テストで日本の子どもたちの学力が低下したのではないかと話題になったが、それを精査してみると、学力が二分化、二極化していたのだという。
 ぼくは果して今の子どもたちは、国連から警告をうけるほど受験漬けなのか、それとも「ゆとり教育」などといって勉強しなくなったのか、よくわからなくなっていた。
 本書では、子どもの学力の二極化が指摘されている。
 そして、「できる子ども」では熾烈な競争が用意されているが、「できない子ども」たちには無気力が広がっていることをデータは示している。そして後者の層の大量発生が、学力をじりじりと押し下げているのである。

 そのほかにも、「刺激的な」箇所はたくさんあって、本書は読み飽きないであろう。
 げんに、ぼくもこの本は、読み始めてからはあっというまであった。
 ただし、それは共感したという意味ではない。
 あちこちに違和感をいだき、それゆえに、刺激的な対話者としてこの本が登場したということである。


■最大の違和感は結論だった

 その違和感をおぼえた最大のものは、結論であった。

 山田は、グローバル化での「自由化」論と、それへの反対論という対立軸をたて、前者の無条件肯定は「マイナスの側面への配慮が足りない」、無条件否定は「無駄な試み」だとするロバート・ライシュの立論を紹介する。

 山田=ライシュの「自由化」論批判には大いにうなずけるものがあるわけだが、それへの反対の動きの捉え方はきわめて狭いと感じる。山田は反対論者を、「高度成長期の安心社会の復活を目指そうとするもの」(p.232)として、「統制」「復古」をのぞむ「ネオ・ラッダイト(機械うちこわし)」だと決めつけ、「アルバイト禁止」「公共事業と規制による保護」「性役割分業」「終身雇用・年功序列」をとなえるものだという。
 そのうえで、山田は対策として「個人的な対処への公共的支援」を求める。
 たとえば、豊かでないから希望がないのではなく、貧乏ではあっても明日がよくなりうるという見通しがないために希望が喪失するのだとして、努力をすればどこまでいけるかという見通しを示すようにする(バイトでもがんばれば店長になって収入は××円になるとか)、というものである。
 あるいは、戦後教育システムは緩慢に自分の能力をみきわめさせ選別をしていくすぐれたシステムであったが、現代はこれが機能していないとみなす山田は、見果てぬ夢を見続ける若者の存在がフリーターの共通する現状であるとする。
 したがって、彼は、能力に不釣り合いな過大な期待を「クールダウンさせる『職業カウンセリング』」のシステムを説く。「分をわきまえろ」というソフトな説教である。
 このほか、結婚のコミュニケーション力をあげるための訓練や、サラリーマン・主婦型の家族以外も想定した年金制度などを提唱している。

 個々には聞くべき意見もあると思うが、けっきょく現在のグローバリゼーションの流れ=「自由化」を前提とした立論になっているとぼくは思う。そのうえで、個人の対処を問題にするやり方だ。
 それは、山田が問題視しているはずの、「自由化」論者が「自己責任」を強調することのヴァリアントでしかないのではないかと思えてくる。
 
 狭く捉えてこれを否定するという方法論上の問題にくわえ、山田の立論には、グローバリゼーション一般と、現在の苛酷なアメリカ的グローバリゼーションの混同があるように思う。もちろん、山田は「アメリカ主導の新しい経済システム」(p.17)とその“特殊性”についてふれてはいるが、全体としてこの過程を普遍的な現象として描きすぎている。したがって、山田の目には、目の前の「ニューエコノミー」(情報産業をリーダーとしたアメリカ主導の新しい経済システム――ライシュ)の現実が、不可逆で抗し難い現実のように過大にみえているのではないか。
 これでは、その動きに抗して、たとえば南米でのアメリカニズムへの拒否をする新政権の誕生や、ヨーロッパやアジアでのそれへの歯止めの動きがおきていることなどが視野に入ってこなくなる。

 また、山田には、この点とならんで、「企業にこれ以上の負担を課すことは不可能である。経済がグローバル化しているので、海外企業との競争に負けてしまう」(p.232〜233)という抜き難い発想がある。

 しかしそうだろうか。

 たとえば、日本の企業を考えたばあい、国民所得にしめる企業の税・社会保障負担は、欧米の50〜70%ていどしかない。企業の社会的責任は果されていないのである。すなわち、欧米と同じ企業責任を果させる=グローバル競争で同じラインに立たせるだけでも、数十兆円の所得移転がおこなわれなければならないはずだ。そのごくごく一部を是正するだけでも相当な財源となりうる。げんに、日本の大企業はヨーロッパにいけば、このレベルの負担をしているのである。
 さらに、国際的な規制自体もけっして夢物語ではないのだし(困難はあっても環境における規制はおこなわれている)、なぜそれを最初から除外するのか疑問がわく。

 丸山俊『フリーター亡国論』(ダイヤモンド社)では、オランダ・モデルが示唆された。
 すなわちパートなどに対して、一定の権利と賃金を保障し、「国民総パート」といわぬまでも、少なくない人がパートとなり、ワークシェアリングによって、一定の生活保障と自由時間を確保しようというものである。
 現実はそれほど単純にいっているわけではないと思うが、発想のひとつのヒントではある。
 フランスの場合、パート労働者は正社員よりも10%賃金が高い。首を切られやすいかわりに、その保障を上乗せしているのだ。日本の非正規雇用の賃金は正社員の半分ほどであることを考えると大きな差がある。個々の正社員の賃金が仮に一定縮小することがあったとしても(ないにこしたことはないが)、マクロのレベルで労働者全体のパイが拡大するような形で「同一労働同一賃金」の原則を貫かせることができるはずである。

 山田がはじめから「日本の企業への負担はこれ以上ムリ」と、その一番肝心な点を回避してしまっている点に、彼の立論の最大の弱点がある。


 しかし、くり返すが、この本は刺激的である。
 これをヒントにして討論をしてみるのも面白いにちがいない。




※有期雇用の場合、更新不可能の契約であれば、雇用契約期間終了の時点で、その間に支払われた給与総額(天引き前)の10%が上乗せされる。さらに有給休暇をまったくとらなかった場合には「休暇手当」として、別に10%が上乗せされる。ただし、労働者側が契約更新を断った場合や、正社員として採用されることを断った場合は、どちらも上乗せされない。(民主青年新聞2005.1.17付より)