小川彌生『きみはペット』


きみはペット (1)

 すでに小雪と松本潤主演のドラマにもなったので、ご存じのかたは多いとおもう。

 大手新聞社につとめるキャリアウーマンの主人公・巌谷スミレが体験する、会社の先輩(蓮實)との「正規」の交際と、恋人ではなくペットとして家にころがりこんできたモモという美少年のダンサーとの癒しの生活という、奇妙な二重生活の話である(くわしいストーリーはテレビドラマが比較的忠実になぞっており、TBSのホームページを参考にされたい)。

 仕事でさまざまなトラブルをかかえ、なおかつ「あこがれ」の先輩である蓮實との恋愛では、ついイイカッコをして「本当の自分」を抑え込んでしまう。これにたいして、「ペット」であるモモにたいしては、自分を解放できる――という設定になっている。
 たとえば、第5巻をとりだしてみよう。
 仕事で疲れた帰り道に「先輩」から電話。「家でモモとゲーム&おしるこ」か、「蓮實先輩と慣れないタメ語トーク」かという選択をせまられ、スミレは「ごめんなさい まだ…仕事終わんなくて」と蓮實にうそをついて行くのを断ってしまう。(だってだって疲れてるし あしたまた会う予定だし)と心のなかで自己弁解しながら。
 あるいは、蓮實とデートをしたとき、慣れない靴をはいて靴ずれをおこしてしまったが、蓮實に遠慮してナニも言えずそのまま歩き続けるハメになり、マメがつぶれて血まみれになってします。そして家に帰ってそのことをモモには話すのである。

均等法以後の女性――高ストレス社会で「仕事」を選んだ女性たち

 男女雇用機会均等法以前の息苦しさを柴門ふみは描いた、と前にわたしは述べた。その時代の女性たちは、社会進出の先を閉ざされ、知性的な部分には、諦念が支配していた。そして、ようやく女性たちの運動や努力もあって、均等法がつくられて以後、女性たちは狭き門ではあるが管理職・総合職への道をようやく開くことができたのである。
 しかし、それは女性がそのまま男性化するということを意味した。社会を人間らしく変えることで女性に道を開くのではなく、男性並みの過酷な資本の搾取を、低劣な労働条件を、受け入れる女性のみに、狭き門を開放したのである。母性を保護するような法制を甘えだといって切り捨て、男性並みに深夜まで働き、「人並み」の家庭生活を放棄することによってしか成り立ちえないようにキャリアをめざす女性は変質しなければならなかった。
 それは女性が、ある意味で男性とは比較にならないほどの高ストレスの社会で生きなければならないということだった。巌谷スミレはセクハラをした上司を殴らねばならなかったし、彼氏よりも高い学歴や身長が彼氏を疲れさせてしまい、ノンキャリアの女性たちからは「これだからちょっといい大学を出てる人は…」「女の幸せにキャリアはいらないってコトね」と陰口をいわれる。

分裂する人格――公的な自己と私的な自己

 そのなかで、女性の人格は分裂する。
 武装された公的な自己と、解放され癒されている私的な自己に。

 働く女性が「抑圧された自分」と「解放された自分」に、人格的に分裂をしてしまうということは、昨今女性マンガに多く見受けられるテーマである。槙村さとる「恋のたまご」(下記参照)や、KISS誌上に連載されている柴門ふみ「みんな君に恋してる」(下記参照)の主人公たちがそうである。

『恋のたまご』集英社より

 「恋のたまご」の主人公・眞子は、「自立系MAKO」と「依存系MAKO」が登場し、眞子の内面で論争をする。
 自立系MAKO 「人からどう見られるかより自分がどうしたいかじゃないの?」
 依存系MAKO 「なに夢みたいなこと言ってるの?」
といった具合である。そして作者は、男性や世間体にたいして抑圧的な眞子にたいして、それを嘲笑し、彼女のややこしい思考回路をときほぐす役割をはたす「まっちゃん」という女性をすぐ横に配置するのである。
『みんな君に恋してる』講談社より

 柴門ふみの「みんな君に恋してる」では、母親によって言いたいことを言えないように躾されてきた主人公・芽衣は、その抑圧の強さがじんましんとなって体の表面に出てしまう。マスコミ業界で働くようになってからも「できないこともいつもついできるふりをして引き受けてしまうあたし いい子ぶるあたし 優等生ぶるあたし そうやっていつも自分を追いつめる」ということをくり返す。そこに、欲望に忠実で奔放な昔の友人「笑美子」が登場する。笑美子は自己の顔を整形し、金持ちの男性に近づくことをまったく躊躇しない。
 「まっちゃん」も「笑美子」も、それは主人公を逆に映し出す鏡のような存在である。
 「きみはペット」では、「相方」になる2人の男性――蓮貫とモモ――が、スミレの分裂した人格の投影として現われている。

 一昔前は「恋か仕事か」「家庭か仕事か」という選択肢として、女性の側(だけ)につきつけられた。それは柴門の「女ともだち」の後期の作品にもしばしば登場するモチーフである。
 90年代以降、「仕事」を選んだ女性たちは、ずっと「公的な武装」をしたままだ。あらゆる私的な欲望は封印され、抑圧されつづけている。それをとりだす回路はいまのことろ「人格の分裂」しかない。「解放され、癒され、欲望に忠実な私的なもうひとりの自分」をつくり出す以外にないのである。

結末を予測する

 槙村さとるは、「依存系の自己」を仮想敵だとみなす。ただし、「自立系の自己」が、あまりにも杓子定規で柔らかさがないことをよく知っており、そのままでは、つまり、私的な論理を忘れ抑圧をかかえて公的な武装をしたままでは、不幸であるとも考えている。槙村は、「依存系の自己」がくり出す攻撃への耐性をつくりだした、真に強力な「自立系の自己」が、「依存系の自己」を打倒することによって、この分裂を終わらせようとする。
 他方で、小川彌生は、公的な自己が私的な自己に最終的に統一されていくこと――蓮實に会う時もモモに会う時のような癒しと解放感を感じられるようになること――によって、この分裂を終わらせようとする。
 『きみはペット』第2巻のRule10「正しい甘え方」では、スミレの内面は、他人に甘えて依存するプリセンス・スミレと、自立し武装し戦うファイター・スミレとに引き裂かれる。蓮實に仕事の疲れを打ち明けようとするたびにファイター・スミレが現われ、「頼ってどうするの? 彼がどうにかしてくれるとでも思ってんの? 心配されたいの? 哀れんでほしいの? あんたって案外つまんない女ね!」とささやくのである。スミレは「タスケテ ダレカ」と心のなかで悲鳴をあげるのだが、武装を解くことはできず、「なんでもないですよ」とにっこり笑う。
 けっきょくスミレは、家に帰ってモモにやさしくされることで、心の武装を解除することができる。「あのさ 『ひとりぼっち』より『ひとりといっぴき』のが全然いいと思わない? ふたりに数えなくてもいいからさ ひとりだなんて言わないでよ」というモモのコトバに、スミレは涙が止まらなくなるのである。
 スミレはこの話の最後に気づく。「毎日口にする食事はいろんな人の手を経ている だれかが建てた家に住みだれかが作った服を着て だれかが動かす電車に乗って仕事に行く わたしちゃんと甘えているじゃない」と。社会性を再建することが「依存と自立」という二項対立を克服する道なのだという解答をスミレは見い出すのだ。

 「自分探し」「自分らしさ」が、社会との関係を忘れた形で叫ばれるなかで、スミレのこの結論はある意味でかなり冒険であるといっていい。しかし、人間は社会の関係のなかで、人間の協同のなかでしか発展も、いや生活さえもできない。そのことが多くの女性誌のマンガのなかでは忘れ去られているのだ。槙村さとるのマンガが、自己啓発セミナーにしか見えないのは、そこを忘却しているせいである。小川彌生は、よくぞその罠に陥らなかったと思う。大正解だ。


 おそらく『きみはペット』は、蓮實の前でも解放されるスミレというものが出現し(分裂の解消/統一)、モモという存在が不要になることによってスミレはモモを捨て、蓮實とゴールインするという結末をむかえるにちがいない。と大胆に予測しておこう。

 それにしても、この均等法以後でさえこのような生き方をせざるをえない女性をとりまく環境の息苦しさはどうであろうか。見事に描き切った小川彌生に拍手。
 
 


※14巻の短評はこちら




2003年4月感想記(2005.12補足)
参考:槙村さとる「恋のたまご」 集英社ヤングユーコミックス
   柴門ふみ「みんな君に恋してる」講談社kissコミックス

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