東雲太郎『キミキス』1巻



 最初に断っておけば、ぼくは「キミキス」をゲームとして体験したことはない。つまり「ゲーム未体験」の立場から、キャラクターへの感情移入がゼロのスタート地点にたって、純粋に漫画として読んだときにどうなのか、という視点での感想になる。

「キミキス」公式サイト
http://www.enterbrain.co.jp/game_site/kimikiss/index.html



圧倒的なキャラの存在感=高山箕犀のデザイン


キミキス ただ、去年いろんな漫画を買ったなかに、「キミキス」の宣伝チラシが入っていて、高山箕犀のキャラクターデザイン(右図)を見たときにはヤバかった。まだストーリーも何もぼくにインストールされていないのに、キャラの存在感は圧倒的で、もうそこに描かれて存在するというだけで甘酸っぱい気持ちになるというスグレモノだった。

 ぼく的には、グラフィックの存在感、キャラの萌え度は、高山>黒井>東雲、となる。ぼくがたとえば甘詰留太の絵がキラいではないが今一つ思い入れができないように、「シワ」をリアリティの基軸におく東雲の絵には、少しばかり(ほんの微量ながら)抵抗をおぼえてしまうのだ。

 ところが、〈「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの〉(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)である「キャラ」という視点から、〈「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの〉(前掲)としての「キャラクター」へと視点を移したとき、もっとも生き生きと立ち上がってくるのは、東雲の作品なのである(あ、ゲームをしたことがないので高山は単純に比較できないわけだが)。


 「キミキス」は、同公式サイトの「ゲーム紹介」をみればわかるように、主人公は高校2年だがいまだにキスをしたことがなく、これじゃいかんともっと積極的になってキス体験をめざすというもので、クラスメイトや幼馴染みを「選択肢」においてその物語を展開してくのである。相手は誰でもいいのかよ。よく考えるとひどい話だ(笑)


 まあ、正反対にある少女漫画、たとえば河原和音『高校デビュー』にしても最初は高校になって彼氏をつくることを目的として、ナンパされに街角に立つわけだから、少女の側の方も出発点は「誰でもいい」わけである。



物語世界に強引に引き込む力をもっている東雲版


 漫画版は、そのキャラクターの中から一人を選んで、そのキャラクターとの「キスにいたるまでの物語」をそれぞれ描いているのである。
 黒井みめい版は、ゲームではメインというかトップでキャラクター紹介がなされているクラスメイトの「星乃結美」を相手役に選んだが、東雲太郎版では主人公のひとつ年上の幼馴染みである「水澤摩央」との物語になっている。


キミキス~lyrical contact ぼくは、黒井みめい版(右図)について、その驚くべきご都合主義、物語における必然性の完全な欠如をあげつらったわけだが、そもそも萌え系漫画にはこうした構造がある程度存在しているのであって、東雲版もその例外ではない。その外側に立って眺めている者からすれば、おそろしくリアリティのない、ご都合主義満載の漫画にしかみえないだろう。

 しかし、東雲版『キミキス』は、そのようなストーリー体裁であるにもかかわらず、摩央姉よろしく(笑)、強引に読者の手をひっぱって物語世界に巻き込んでしまう強さがある。ただしその「読者」とは現役男子中高生もしくは現役男子中高生限定であるが。

 この「強力」は、いったいどこから生じ来ったのか。黒井版との比較もまじえて考えてみたい。

 テクスト本体に入る前に、前提と設定について。

 まず、摩央と主人公(相原光一)の物語に徹し、一人のヒロインを集中的に描き込んだことによって、強い吸引力が生まれたことがあげられる。
 黒井版は、星乃結美に照準をあわせた物語のはずなのだが、途中からたくさんのキャラクターを登場させすぎて散漫になってしまった。
 黒井は「あとがきのページ」で〈主人公の相原君 彼をとりまく女の子たちの素敵なこと! 知り合っても1度だけしか登場しない…というのは勿体なさすぎるので… みんな星乃さんのお友達ということに〉と書いているのだが、それが敗因である。〈たくさんのキャラがわいわいしているのは描いていてとっても楽しいですね♪〉(前掲)とあり、たしかに「描いていて楽しい」は創作における出発点であるが、それを個人の感性にとどめず普遍化する努力が必要なはずである。

 なお、東雲版には「various heroines」というサブタイトルがあるから、今後の巻でさまざまなヒロインが登場するのであろうが。

 次に「エロ」をテーマにしたことだ。
 といっても、東雲版で別にセックスが出てくるわけではないが。

(ちなみに、ゲームの「キミキス」自体もいわゆるエロゲー、18禁ゲームではない。ぼくがエロゲーのCGの話をしたので「キミキス」を18禁ゲームだと思っている人がいるようだったので、ここで念のために書いておく。)

 黒井版には「lycal contact リリカル コンタクト」というサブタイトルがつけられているように(そして少年誌コミックスだという制約上)、叙情的に描くことをむねとした。「図書館」とか「丘の上の夕日がみえる公園」とかいうベタ設定はそのこととつながっている。(ゲームでも一部でてくるが)
 「エロ」でも「叙情」でも、どちらでも勝機はあるわけで、テーマの選択自体に優劣があるわけではない。
 が、やっぱり短いページのなかで十全な展開ができるのは「エロ」のほうだろう(とはいえ、この立論は、ぼく自身が少年誌の一部にある叙情的な恋愛漫画をまったく理解できずエロに傾斜した漫画にすぐ喝采を叫ぶという、個人的なバイアスが多分にかけられているのだが)。この点については最後にもう一度述べる。

 「勝手にやってろ」といわれないように、十分に叙情を描くためには、やはり十分なページ数と十分な背景設定が必要なのだと思うのだが、残念ながら黒井版にはそれがまったく足りない。展開があわただしすぎるのだ。

 つまり、制約されたページ数において、一人のヒロインにしぼりこみ、「エロ」をテーマにした東雲は、すでに前提においてかなりうまい選択をしたといえる。
 ちなみに東雲自身はエロ漫画家であり、数多くの作品を手がけている。いわば「エロ」は自家薬籠中の物なわけである。



妄想シチュエーションのリアルさ


キミキス-various heroines 1 (1) さて、話を少し前にもどすが、たとえば東雲版を、女性、そうだなあ、ぼくくらいの年齢の女性が読んだら、あまりにリアリティのなさ、必然性の欠如、ご都合主義のために、怒って本を床にたたきつけるかもしれない。
 いずれにせよ、外側から眺めている限り、この物語はどこまでも「むちゃくちゃな話」でしかないのだ。

 ところが、先述のとおり、男子中高生(あるいは元男子中高生)は、違う。ヤラれてしまう危険性があるのだ。東雲版が男どもを強引に物語世界に引きずり込んでしまうことができるのは、少年男子にとって、東雲の描くシチュエーションが、妄想としては非常にリアリティがあるからである。「妄想がリアル」だとは変だが、それこそがまさに虚構世界の論理なのである。

 優柔不断の「ぼく」を、「キスの練習をさせてあげる」などといって「手ほどき」を受けさせるってもうこれがあんた
 しかも、そのシーンを東雲は異様にていねいに描く(もちろんこのページ数で、という程度ではあるが)。
 冒頭、光一が自分のキス未経験を摩央に告白する箇所で、

〈ふーん… 光一 まだキスしたことないんだぁ…〉

と摩央がその事実をかみしめるように言うシーンがある。そのとき、摩央は素っ気のないような口調を装いながら、光一を熱く見ている。やがて〈……知りたい?〉と摩央の顔が大写しになる。

 そして摩央にヒト気のない場所につれだされ、摩央はふりかえりざまに上目遣いにこう言う。

〈言葉で説明するより体験したほうが早くない?〉


 いま紹介したコマの流れにおいて、有名な「同一化技法」()によるものだけでなく、キスを迫る摩央のアップが多用される。まるで読者は光一になったかのような視線を強要され、そしてまんまと光一と同一化を果たさせられるのである
 眼前に展開される「リアル」を実感するうえで、「シワ」を基軸にした東雲の画風は、ここで俄然生きてくる。

 そして、まずはクチじゃなくて、「ヒザならあたりさわりない…………かな?」(摩央)って何だよそれ。ヒザならいいんですか。「あたりさわりない」んですか。

 ここからは視線は光一的なものではなく、この悦楽を味わっている光一と摩央それぞれを外から観察するような描写に力点がおかれるようになる。
 特に摩央は、頬を染め、「ビクッ」「あ…」「ドキ ドキ ドキ」「ぶるっ」「ピクン」と、まるで性的=器質的な刺激を受けたような反応をしめす(いやある意味「性的」なんだが)。

 明らかに上気したような面持ちで、

〈は…… ふふっ…… 子犬みたい…〉

と息があがったように漏らす摩央。ちょっとこれはまずいだろ

 よくよく考えてみれば(考えなくてもだが)これは「女子高生のナマ足にキスをさせる」という目もくらむような欲望的行為である。それを喜国雅彦『月光の囁き』のような退廃的な官能にせず(喜国においては、女子高生の足にキスをするという状況は同じだがもっとアブノーマルな世界にされている)、あるいは、「太腿にキスをさせる」みたいな「単純エロ」に傾斜もさせず、「ヒザ」、「キスの練習としてのヒザ」とした点が絶妙である。「幼馴染み同士がちょっとふざけてやってしまったんだけど、はからずもお互いの気持ちが自然に暴走してしまった」的な感じがよくでている。


 そして、幼馴染みとして「ごく自然に」、家にお泊まりにきて、光一の妹と3人でずっとしゃべっているのだが、その間も、摩央は舌でさくらんぼの枝をむすんで〈こうやって舌で輪っかを作れる子はキスが上手なんだって〉などと、終始光一を低温でエロい気持ちにさせつづけておくのである。

 悶々として光一は床につくのだが、夜中に摩央は妹の部屋をぬけ出してパジャマ姿で光一の部屋にやってくるのだ。

〈やっと二人きりになれた 今日は楽しかったー ね 光一〉

 この、「恋愛感情がないこと」「無邪気で明るいこと」を装いながら、光一のベッドの横に来るっていうのがこれがまた

 ぼくは高校生や大学生のころじゃなくて、もっと小さかったころ、小学生くらいのときに幼馴染みに対してこういう妄想をいだいたことがあるが(どんな小学生だ)、そういう感情を想起させた。ここでも「幼馴染み同士がちょっとふざけてやってしまったんだけど、はからずもお互いの気持ちが自然に暴走してしまった」的シチュエーションが丁寧すぎるほど丁寧に描かれている(このページ数のなかでは、思い切った重点化だ)。

 「恋愛感情がないこと」「無邪気で明るいこと」を装ってはいるものの、実は摩央の気持ちの根底には光一への思いがあるために、やはりここでもベッドのなかでキスをしてしまう。
 舌を入れるディープキスに呆然恍惚となった光一が、そのあまりの気持ちよさに思わず摩央の腰に手をまわしてしまい、股間を押しつけあってしまうという一瞬の描写って……あーもう何書いてんだ俺

 「抑止しきれないほどの少年の快」というのが、実によく描けている。

 ふつうこれでセックスしてしまうだろと思うのだが、しない。
 しない、という「おあずけ」の運びが非常に重要なのである。

 さらに、キスのあとピロウトークをして、光一が摩央のしゃべる顔を見つめているうちに、再び欲望がたかぶってきて、光一が無言に。ついに光一の方から欲望に惚けた表情で、摩央にキスを求めてしまう……という一連の描写もエロすぎる。

〈………… もう… またしたいの?〉


 ちなみに、入浴や水着のシーンもあるのだが、こういうあたりはまったくどうでもよい。いやまったく本当にどうでもいいのである。この作品の流れからは邪魔なページでしかない。
 たとえば、だ。この漫画はネット上で少し前に話題になり、そのとき「指フェラ」がエロいと騒がれたものだが、くだんの「指フェラ」を水着のシーンでおこなっていることによって、逆にエロ度が減退したといってもいいだろう。「生活・日常」臭が消えてしまうのである。「制服」・「校内」において行うことに意味があったのに。お、お、おれは制服のリアル幼馴染みにときめいたことはあっても、水着、なかんずくビキニの幼馴染み、いや幼馴染みに限らず「女性」とプールに行ったことなどない。断じてないッ(泣)

 なお、さっき、視点の交換についてぼくは指摘したのだが、この交換自体はどの漫画作品でもおこなわれていることである。しかし、東雲の場合、それが非常に効果的・自覚的におこなわれているように読めるのだ。

〈まず、最初に、我々がエロ漫画に限らず創作物と向き合う時の視点が最低二つあることを再確認しておこう。/第一の視点は紙の視点であり窃視者の視点である。第三者として作品を見通し、登場人物が気付かないことまで知っている特権的な視点である。/第二の視点は自己投影によってシミュレートされた登場人物の視点である。……〔中略〕……重要なのはこの二つの視点が「読み」という行為において同時に進行するという点である。しかも同一化が登場人物個別に行われるだけではなく、その間を揺れ動き、スイッチングし、濃度の差異を刻々と変えながら複数の登場人物に対して行われるのである。/こんなことを改めて述べるのは、これから語ろうとするロリコン漫画というジャンルが常に「何が描かれているか」のみをあげつらわれ、「どう読まれているか」という側面を恣意的に無視されてきたからである〉

 これは永山薫『エロマンガ・スタディーズ』の一節だが(p.104)、この前提をおいて永山はロリコン漫画における罪の意識や快楽の発動について論じていくのだ。
 そのようにエロ漫画、とりわけロリコン漫画における視点の交換や交錯は快楽を発動させる上で重要な意味をもっている。『Swing Out Sisters』『半熟短髪娘』などいわゆるロリコン漫画ではないが少女を題材としてきた作品を描いてきたこのエロ漫画家にとっては、視点を自覚的に操ることはすでにお手のものなのだろう。



キスとは「叙情」ではなく「性的興奮」である


 このゲーム、というか企画のコンセプトは、想像するに、セックスを経験する前の段階における「キスの興奮」を思いおこしてもらうことに他ならないのではないか。

 キスに「叙情」的な意味をもたせるか、「性的興奮」の意味をもたせるか。「叙情」という点でいえば、「キス」を「叙情」と結びつけることはしばしば見受けられることだ。セックスの経験前はもちろん、セックスを経験したあとだって、キスが「叙情的」な意味をもつことはある。

 しかし、少なくとも男性側にとっては、キスとはセックスを経験する前に通過する「性的興奮の階段」ではないか。興奮をのぼっていく「階段」だ。セックスを経験する以前のキスにおいて、男性の頭を覆うのは「叙情」ではなく「性的興奮」である。この興奮値はセックス経験以後は大きく減退するだろう(※個人差がございます)。だからこそ、この時期のキスを描くことが「貴重」なのだ。

 その性的興奮を東雲は、実に的確に描いた。

 だとすれば、黒井ではなく東雲の方にぼくが軍配をあげるのは、作品の出来以前にあらかじめ決まっていたことだったとさえいえるのだ。


 ところでこれは余談だが、男性主人公の「中性」度の高さ、「優柔不断」性の大きさも、ぼくが東雲版に肩入れした大きな原因だった。黒井版の光一は根底で「マチズモ」である。あるいは意志的にすぎる。
 それから東雲版の「トクン……」という胸の高鳴りのオノマトペは、いわばお約束なのだが、さんざん各方面で茶化されているためか、もはやぼくにとってはギャグとしか思えなくなっている。今後恋愛漫画を描く作家はこの表現をできるだけ回避してほしい。


 

※同一化技法……〈一つのコマにはキャラの「まなざし」が描かれ、もう一つのコマにはその「まなざし」が見たものが描かれるという連続が、その要件である。またこれは、一般に映画理論でいわれる「同一化技法」の意味するところである〉(伊藤『テヅカ・イズ・デッド』p.167)


作画:東雲太郎 原作:エンターブレイン
『キミキス various heroines』vol.1(以後続刊)
白泉社 ジェッツコミックス
2007.4.28感想記
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