斎藤貴男『国家に隷従せず』より
「『禁煙ファシズム』の狂気」



国家に隷従せず

 本書(『国家に隷従せず』)はエッセイ風の小論と、中編のルポ、対談などを集めた論集で、タイトルにあるように国家が個人の私生活、思想、行動パターンにまで容喙してくるという問題が全編をつらぬいている。

 これを買って読もうと思ったのは、「『禁煙ファシズム』の狂気」という章タイトルが目にとまったから。

 と、こう書くと、斎藤がバリバリの愛煙家で、それを禁じようとするヒステリックな市民運動家たちをヤリ玉にあげようとしているハナシで、それを愛煙家のぼくが手を叩いてよろこぶという話だろーなー、とか想像するひとも多いだろう。

 さにあらず

 斎藤は冒頭にこう宣言する。
「本章の読者には、あらかじめ断っておかなければならないことがある。私はタバコを吸わないし、はっきり言って嫌いだ」
 また、こうも述べる。
「他人を顧みない喫煙者のマナーには閉口するし、彼らが集団になった時の傲慢な態度は大嫌いである。運動家たちの主張するように、タバコなどこの世から消え失せてくれれば、個人的にはむしろありがたい」

 そして、かくいうぼくもタバコは大嫌いである。実家では祖父も父もヘヴィースモーカー(いまはやめている)でそのときは何ともなかったが、長じてタバコと無縁な環境にいる時間がふえ、ときたまけむりをプカプカとなりでやられると、もう「いい加減にしろ」と怒鳴りたくなるほどだ。


 斎藤がここで問題にするのは、国家(あるいは超国家機構)が個人の健康や嗜好を管理したり方向づけようとすることへの批判である。
 個人の健康を害するというのはわかるけど、それをどれくらいまで嗜むかは個人が選択することで、国家がそれを「健康増進」の名の下に方向付けることではないではないか。タバコによる健康被害、それにたいする医療費は××億円、タバコのために中年期で死ぬやつは年金保険料も払わずに早く死ぬ、などと世界銀行のパンフにはあるが、そういうのを読むと、「人間は何のために生きているのかと、否応なく考えさせられる。ならば肝機能障害に直結する飲酒はもちろん、ケガの原因となるスポーツ、目を悪くする読書、およそ人間のあらゆる営みに同じことが言え、“予防”の対象になりうる。/長生きし過ぎた老人や身体障害者、治る見込のない重病人、働かない貧乏人、余計なことを言って社会全体の生産性を低下させるジャーナリストや評論家など、皆とっとと死んでくれることが、財政にとっては一番ありがたいことになる」――と斎藤はいうのだ。斎藤は、そこにひそむ「予防医学」の思想を批判している。


 そうすると、とっさに反論がくるだろう。
 「あんたがタバコを吸い過ぎて死ぬのは勝手だが、副流煙は周りの人まで巻き込むんだよ! しかもそっちのほうがヒドいっていうじゃない! 自分よりも他人の健康を悪くしといてそんなことが言えるのか!」

 斎藤は、このルポの後半で、この「副流煙」問題、すなわち受動喫煙問題を書く。
 欧米の禁煙運動と異なって、日本では「副流煙」の問題が中心をしめ、その問題を解明したとされるのが、平山雄(たけし)の研究である。平山博士の研究は、26万人を長期間にわたって追跡したという「世界最大級」のコホート研究(何らかの共通特性を持った集団を追跡し、どのような疫病・志望が起こるかを観察して、要因との関連を明らかにしようとする研究)であり、この研究が平山を国際的な受動喫煙の第一人者に押し上げた。

 斎藤は、こうのべる。

「日本でアメリカとは異なる流れが形成されたのは、平山博士の存在も大きい。彼の説が誇張抜きで客観的に立証されるなら、事は自己責任や趣味嗜好の問題ではなくなる。本稿を含めた禁煙ファシズム論など許されまい。分煙どころか禁煙の強制も当然だと私も考える」

 この断わり書きにつづけ、斎藤は「しかし、そうはならなかった」と書く。
 斎藤はここで、平山の研究に批判的な医事評論家の生天目(なばため)昭一、平山博士周辺の関係者(匿名)などの証言を紹介する。
 その中身は、一部だけ紹介すると、
  • 大気中での希釈を無視
  • 「英国雑誌掲載で反響殺到」とは反論殺到ということ
  • 夫の煙にさらされたという妻のくわしい条件が何もわからない
  • 女性の肺ガンは腺ガンが多く、タバコとの相関は低い
  • 10年ほど前まで日本男性の喫煙率は先進国中最高だったのに肺ガンは最低だった

 という具合である。
 平山研究についての叙述のところではないが、斎藤はこうした「疫学」という手法にそもそも疑問を呈している。斎藤は『疫学』という日本疫学会の基礎テキストから、「明確に規定された人間集団の中で出現する健康関連のいろいろな事象の頻度と分布およびそれらに影響を与える要因を明らかにして、健康関連の諸問題に対する有効な対策樹立に役立てるための科学」という定義を抜粋し、「一種の統計学」だと斎藤はコメントする。

 つまり、ガンなどの長期にわたるライフスタイルが関係してくる病気では、「単一の病因をとりあげることは困難」(『疫学』)であり、「一般的には、多くの研究成績を総合的に評価して、一定のルールにしたがって因果関係の程度を推定せざるをえない」(同)もので、「単に相関関係があるからといってただちに因果関係に結びつけることはできない」(同)という限界をもった学問である。

 平山研究はまさに疫学である

 そして、平山研究は、本人以外、厚生省は一度も主体的に扱ったことがないし、アメリカではついに裁判の証拠として採用されることもなかった、と斎藤は指摘する。


 斎藤が予防医学、ひいては国家が個人の選択を管理することに警戒していることは、ぼくは心情的に理解できなくはない。
 しかし、正直、この問題からアプローチするのは、ぼくは、どうも「やりすぎ」という感をいなめなかった。

 第一に、平山研究そのものはどうもさまざまな問題をかかえていることがわかるけど、かといって、その批判に説得的なものがあるとは必ずしも思えない。一市民の素朴な感想としては、危険な見通しがありそうなものであれば、とりあえず規制をかけておくという姿勢は悪くないように思える。

 第二に、平山研究を研究者たちがかばい続けておく動機や条件の叙述が希薄で、「アメリカ式の禁煙ファシズムに呑み込まれつつある現状下で、自律できなくなってしまった日本の嫌煙運動の、それはアイデンティティを取り戻そうとする断末魔のように見える」と斎藤が記しているのは、根拠や説明として弱い。

 第三に、国家が国民の健康について介入することへの斎藤の忌諱の度合いが、やはり度外れている、という思いである。ぼくは反国家主義者ではなく、むしろ国家を国民に奉仕させるためのコントロールを積極的に考える人間だから、斎藤のこの態度はあまりにもうがちすぎであるという印象をもった。早い話、健康のために、国家(政治)がイニシアチブをとることもあるだろうよ、というのがぼくのスタンスだ。


 面白くは読んだが、結論にはあまり同意できなかった、という一論であった。





ちくま文庫
2005.4.26感想記
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