鴨居まさね『金魚のうろこ』



※2つの短編についてネタバレがあります

金魚のうろこ―田辺聖子原作シリーズ  こちらが何か言うと、「じゃなくて、……」という言葉を冠してしゃべり始めるクセのある知り合いの女性がいる。しかも「じゃなくて、……」以後は別にぼくの言ったことを否定する内容ではないことが多い。
 「『じゃなくて、……』をつけると、こちらが一瞬否定された気になるのでどきりとする」とぼくが言うと相手は笑っていた。ぼくは「『そうですね。○○っていうのはよくわかりますよ』というふうに一度受容したことを相手に伝えるといいんじゃないか」などとおせっかいなアドバイスをつけた。

 その口癖のあるのは、ぼくと同世代の女性であった。
 別に否定する必要はないのに、まずは否定を意味する接続の言葉をわざわざつけて相手の言ったことを受け取るというしぐさに、ちょっと大げさに言えば、相手の世界をそのまま受容せずに、いったん自分の世界観のフィルターを通し、再解釈しようとする意思を感じた。
 ある種の独立心といえば聞こえはいいが、自分の世界を浸食されまいとする闘争心、あるいは世界に対する頑なさだともいえる。

 それを三十代前後の働く女性の「つっぱり」と見るのは、女性にたいする拡大解釈、単純化だろうか。


 本作のなかの短編のひとつ、「夢笛」に出てくる女性主人公「上野サン」(上野まりも)は、「――っていうよりも……」と前置きして相手の言葉をひきとるクセがある。
 最近再会した男性・吉村に、そのクセについて指摘される。

「その『――っていうよりも』って口ぐせもやめんかい」
「エ?」
「いきなり相手を否定すンなって」

 上野が「じゃどういうのよ」と訊くと、吉村は「『そうやねぇ』と一応相手をたてといて『けど こうかもしれないわ』といわんかい」とアドバイスする。
 もともとこの話題は、二人が「デート」らしきしているものをしている最中に、吉村がまわりの草花の名前をあげていくたびに、上野が「ちがうっ」と次々に否定したことからだった。両者とも40才前後である。
 「キャリアウーマンと断定癖はセットなんやろか」と吉村がぼんやりとたずねると、

「っていうよりも きっぱりしなきゃ男社会で生きていかれないところがあるのよ」

と上野が返し、上述のようなやりとりになっていくわけである。
 この二人は昔の同僚で、以前デートらしきものをしたけども進展せずに終わってしまったという過去をもっている。再会をきっかけに、なんとなくユルユルとしたつきあいが始まるのだ。そのユルユルとしたつきあいが二十代とはちがう、いかにも三十代後半から四十前後の「自然さ」で、ぼくには好感がもてた。おそらく鴨居まさねという漫画家を愛好している同世代の男女にとっては、この関係は好ましいものに思えるにちがいない。

 しかし、上野は不倫、吉村は見た目だけの美女にひかれて結婚しすぐ破局した過去があり、そのことにお互い深くふれずにこのユルユルダラダラしたつきあいを続けていた。

 二十代のころと違うのは、そういう「ワケあり」な過去が一つや二つはあるということであり、そのことに触れないというのも、いかにも三十代から四十代の「オトナ」の所作のようにも思える。そういうことを一つの「わきまえ」として、ユルユルダラダラの自然体を続けていくのだが、それは本当の意味で「自然体」ではないのだろう。
 ダラダラとつきあう二人は、決して肉体関係におちいらない。「せぇへんよ」「せぇへんせぇへん」と言い合うことが、ふたりの関係をほのぼのとしたものにしているのだが、実はそれはある種のふみこみを許さないバリアのようにも見える。

 「――っていうよりも」の口癖を相変わらず上野が続けるのは、やはりどこかで相手を、あるいは世界を受容しないからかもしれない。
 お互いが好きだという気持ちが高じあうなかで、ついに二人はそれぞれの過去について触れてしまい、ケンカになる。上野の「――っていうよりも」の口癖とともに。吉村は静かに怒りながら出ていってしまう。

 しかし、その直後に、「おれもちょっと悪かったかナー……思て」といって吉村は戻ってくる。上野はそのことがとてもうれしいという顔のコマをひとつはさんで「でも せえへんよ!」と憎まれ口で返して仲直りをするのだ。
 そのまま二人は初詣でにでかけ、ラスト近くでは新年の参道で、吉村が上野に体をよせながら次のように言う。

「『せえへん仲』に飽いたらすぐいうてや するさかい」

 上野は「はは……」と笑おうとするが、じわりと涙がにじんでてきしまう。吉村はびっくりし「笑えっ 笑わんかい いっぺんでも数多く笑たほうが人生は勝ちやねん」と照れたようにうそぶくと、上野はおそらく涙を浮かべたままであろう後ろ姿で「そうね」とだけつぶやく。

「私は『……っていうよりも』といういつものフレーズを とり落としていた」

 さらに表題に結びつくラストが用意されているがそれ以上ここで書くのは野暮というものだろう(すでにこれだけあらすじを紹介してしまえば十分に野暮なのだが)。吉村のふみこみにたいして、上野はもう世界をいったん自分の手前で一時停止させる呪文である「……っていうよりも」という言葉を使わない。吉村と世界を素直に受容する。上野の涙は、ひとつの精神の解放であることを意味している。

 ユルユルダラダラした関係のなかに、辛辣なリアルが隠れているときがあるが、そういうものに向かい合ったあとで、新しい二人の関係がおとずれる――この弁証法を作品にするうえで、鴨居の昨今の作風はまことに適している。
 くり返し書いて恐縮だが、しばしば「癒し系」「脱力系」のように思われてきた鴨居の漫画は、時間がたつにつれて現実のなかにある辛辣な部分を容赦なく描くようになってきた。この作品のなかでも、吉村と上野がコタツで言い合うシーンは、画面に急激に緊張が走る。ユルユルとした雰囲気のままそこに移行していくという離れ業である。

 すでにネット上では言われていることだけども、田辺聖子の原作を漫画化したにもかかわらず、「鴨居まさねの作品」としてまったく違和感なく読めてしまう。実はぼくも田辺の原作は一つも読んでいないので、これが「田辺と鴨居の親和性」によるものなのか、「鴨居のコミカライズ能力の高さ」なのかは判然としない。

 5つ短編のうち3つは、30代から40代にかけての男女を主人公にした短編集で、どの短編も「人生をふりかえって」30〜40代のいち瞬間を回顧するような、妙な諦念、達観が流れている。「今この生きている瞬間」をライブ感にあふれる形できりとるような漫画とは対極にある。

 これが小説を原作にした効果なのかもしれないが、小説の地の文のような状況説明がついていることが一番の原因だろう。それだけでなく、鴨居の漫画のトーンがどことなくコミカルなのも、対象を突き放して観察している感覚をいっそう高めている。
 つまり、鴨居の漫画はもともとこうした調子の原作に非常に親和性が高いのだ。

 「見さかいもなく」という短編は、会社の中にいる自分ともう一人の「唯二」の30代OLとの比較で話が始まる。

 仕事はデキるがフットワークが重く、何事もグチがちな「戸倉サン」(「さちえおねえさま」)と、「腰軽・気軽・舌軽」を心がけ贔屓の男性社員も多い主人公の「ナギ」。戸倉が「昭和時代」にもらった「恋文」を後生大事にとっておき、いわゆる「女っぽくない」部屋に独りで住むわびしさについて、ナギはある憐憫をこめた調子で見ている。

「以前さちえおねえさまが一人暮らしする部屋に呼ばれ ひどく物悲しくなったことがある」「きちんと片付いた部屋も使い勝手の良さげなキッチンも 『独り慣れした女臭』みたいなものがしみついているようで私を悲しくさせた」

 ナギは戸倉を自分とは対照的なイメージとして見立て、「金だけ握って独り年をとる人生なんて味気なさすぎ」と戸倉の人生を総括している。自分はそこに陥らないように、先ほどの「腰軽・気軽・舌軽」の三軽を心がけ、要領よく生きているのだ。
 ナギは「中島ぴろぴろ」と心の中で呼んでいる脂性の同性代男、「児玉ボーダーライン」とまたしても心の中で呼んでいるさわやかな青年、「柳田結構人」とこれも自分の中であだ名にしている枯淡な感じの中年、という3人をキープしている。

 そして、それらの3人をすべておいて、ある大手菓子の老舗のぼんぼんと婚約するのである。

 いまぼくはナギについて「要領よく生きている」と書いたが、イヤミだったり小狡いというふうには描かれていない。戸倉とも仲良くつきあうし、戸倉が怒ってイジメを始めたときでも決して戸倉の悪口もいわず、後輩にけしかけられても「困ったなあ」という顔で返すだけである。
 リアルにそばにいたら、ナギという女性はほとんどストレスを引き起こさない「常識人」であろう。

 気持ちのいい距離感を保てる常識人が、心のなかで誰かをあわれみ、自分はその道にハマるまいと要領よく生きていることを気取られないようにしている。田辺の小説でこれがどんな形象になっているのはかわからないけども、少なくとも鴨居の漫画においてはこの造形は抜群の出来映えだ。
 
 しかし、ナギは、すでに退職してすっかり準備を整えるのに、婚約破棄をされてしまう。
 別にナギに不満があるというのではなく、ぼんぼんのほうが、だんだん気が重くなってきてしまったのだ。そういうクセのある男性だった。

 終わってみれば、ナギは職もオトコも体裁も失っていた。
 小賢しい分別、すなわち「見さかい」をつけて要領よく世間を渡ってきたつもりだったのに、気づけば「金だけ握って独り年をとる人生なんて味気なさすぎ」というところに自分がきていたのだ。そのあと、ナギは久しぶりに3人の男性に会うのだが、その喜劇的な再会を経て、ナギはふりかえる。

「私は 見さかいもなく生きてきた ここ十なん年かを思った
 人は何のために生きるのだろうと 以前に考えたことがあるが
 それは 見さかいもなく 生きるため
 という気も ちらとした」

 「ため」という言葉を使って、まるでそれが人生の目的であるかのように言い表わしているところが、妙である。少々の要領のよさも結局は喜劇的な悲劇に変えられてしまった人生の皮肉を、ナギはある種の諦念をもって受け入れている。ナギがこれからは「三軽」ではなく「三徹」、すなわち三枚目に徹しようと決意するのは、多少の「見さかい」をつけたところで、しょせん人生という喜劇を必死で生きる存在なのだとナギは思ったのだろう。執着をほどいた達観を「見さかいもなく 生きるため」という言葉で表しているように思えた。

 自然さ、辛辣さ、そしてペーソスをあわせた作品ばかりで、この要素を使ってこの水準の漫画を描けるのはやはり鴨居しかいない。





鴨居まさね『田辺聖子原作シリーズ 金魚のうろこ』
集英社
2007.3.22感想記
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