返田満「木の実の音」

東京電力。日本屈指の大企業です。

その東京電力は、従業員に、思想調査をおこない、
共産党員とそのシンパをみつけ、考え方をかえるようせまりました。
それをこばんだ人々は、何十年と差別されつづけてきました。
そんな会社の体質が、原発の事故の風景とダブります。

以下は、ある共産党員が詠んだ詩です。



木の実の音

                   返田満

 ブナ・カエデの巨木が茂る谷底にいて
 木の実の落ちる音をきいた
 ぼくは一人だったのか
 静かな時間が流れていたのは
 深い秋の日をぼくは一人だったのかもしれない
 木の実はじつにかすかな音をたてて落ちる
 木の実がその生涯に一度だけたてる音をきいて
 木の実よとぼくは思う
 木の実の本当の生活は
 谷間の空に木の実であったときか
 ぼくに木の実のこころはわからない
 わかるのはぼく自身の生活のありさまである
 日々ぼくと共にあるぼくのさまざまな思いである
 断続するぼくの思いのなかでもいまも
 オニグルミの実が笹の葉を打つ
 かすかな音は不意にひびいて
 それだけである
 しかしあれはオニグルミの実がうつたしかな音だ
 たしかな実をつけたオニグルミにぼくは感動する
 渓流沿いの樹林を出てカヤの野に見えていて
 近寄れば一株ずつのカヤのくさむらだ
 一株のカヤはどれだけの苦悩を持つのだろう
 植物だからカヤは苦悩など持たず
 二米のくさむらとなる
 ヤマメ竿を持って立つぼくの前方にひろがるのは
 一面のカヤ野とその向こうの赤松のはう岩山である
 昇仙峡の渓谷にひろがり充満して光るのは自由である
 渓流にそってはしる道路や木々の梢を
 のびのびとつつむ空気の向こうには
 赤石山脈や御坂山脈や富士があって
 あふれるさび色は自由である
 カヤ野のカヤの穂に触れて行きながら
 ぼくはその言葉を考える
 屈従という言葉を考える
 自由という言葉を考える
 昇仙峡の谷や野にある自由でなく
 人間の社会の
 職場の自由についてである
 そこに満ちている屈従についてである
 それは例えば八月のある日の午後
 課長が小声で管理職会議を招集して
 ぼくより十五歳も若い副主任まで出て行って
 職場にはぼく一人が残る
 ぼくだけを除く会議が別室でひらかれて職場の方法について話している
 立秋から二日目で曇っていて
 もう肌寒いといって妻が出かけたその日である
 職場にはクーラーがかすかな送風音をたてている
 ふと風音はぼくの屈折するこころの断層面を吹いている
 ぼくは屈辱という言葉について考える
 言葉でなくここに屈辱そのものがある
 ぼくという人間の形をしてある
 ぼくのように見えても
 これはそんな形をした屈辱だ
 はずかしめられて面目を失って
 不平も晴れずにいる
 ぼくは服を着た屈辱だろうか
 ぼくは東京電力で三十年働いて
 会社がしいる屈従を拒否しつづけた労働者だ
 そのために電話番をさせられて
 資格が低いから会議へ参加できずにいる
 だからぼくが屈辱の色をしていても
 それがぼくの色ではない
 ぼくはいつか屈辱の色をすすぐ
 屈辱の色を洗って
 ぼくは本当のぼくになる
 本当のぼくになって品質のよい実をつける
 それがぼくの生涯に一度だけ音をたてる
 ぼくの実だ
 いまは胸の谷間から
 かすかにひびく木の実の音をきいている

(『文化評論』 1978年8月号)


仕事をすべてとりあげられ、冠婚葬祭からも排除される。
まるで大昔の村八分、子どもの「いじめ」です。
いや、それではすまされない。賃金格差は年200万円。
家族の人生さえ破壊します。

「このままおれの一生は終わっていくのか」

夢や技能をもって入ったはずの会社。しかし、仕事なし。
後悔の念がくり返し頭をもたげ、
辞めれば楽になる、信念を捨てれば楽になる、という誘惑が、
たえず心に押し寄せます。

それでも。

自分の人生は一回きり。
裁判や闘争で切り開いた成果は、憲法のうたう人権の新しい地平となり、
きっと次の世代に大きく実ると確信するのです。

一度だけ音をたてて落ち、次の世代を準備する、
オニグルミの実のように。

この裁判は、1995年、差別されてきた人たちの
「勝利」という結論をえました(和解)。20年ちかくの歳月をへて。

ぼくはマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」をひいて、
「自分探し」を批判しました。
自分の中に真実の、ピュアな「自分」というものがあるのだ、
という妄想について。

この詩では、
「本当の自分とは、自分のなかに所与のものとしてあるのではなく、
 自分をとりまく世界の諸関係と諸条件を
 変革することによってのみ、もたらされるのだ」
という明確な思想が展開されています。
それは、昨今流行の「自分探し」へのラジカルな批判でもあります。

“教科書”どおりにいえば、あるいは散文的精神でいえば、
「同僚労働者のなかに連帯の芽」を見い出すような
一節がほしいところです。
しかし、そんなものはこの詩には一切ありません。
自分の恥ずかしさと悔しさで頭がいっぱいだという、
余裕のなさが、みなぎっています。

だからこそ、この詩は、美しく、また、リアルさを持っています。

「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
 たたかれることによって弾ねかえる歌を
 恥辱の底から勇気を汲みくる歌を
 それらの歌々を
 咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ」

(中野重治「歌」より)