東村アキコ『きせかえユカちゃん』1〜6巻


 ソフマップ(&サポートセンター)の対応の悪さを、帰り道、かみしめながら歩いていたら、だんだん妄想がふくらんできてしまって、架空の店員の対応に、はらわたが煮えくり返るほどの憤りを感じてしまった(←バカ)。しかし、家に帰って、『きせかえユカちゃん』を読んで、笑い転げるうちに、すっかり脳内は平和に。「あれ? 俺、何で怒っていたんだっけ?」。世界平和に役立つ一冊。


きせかえユカちゃん 1 (1)

 小学6年生のくせにまるで大人のモデルのようにみえる湯川ユカは、スタイリッシュで、ちょっと(だいぶ)生意気。ユカを「台風の目」として、そのまわりの大人たちが右往左往するというお話。
 ユカがトラブルメーカーというわけではなく(そういうときもあるが)、ユカは物語の中心にいるだけ。むしろ問題をひきおこしているのは、大人たちといえるかもしれない。

 というか、この物語は、はっきりと「大人」たちのために描かれている。
 主人公のユカたちの年代(小学生)のための漫画ではない(いや、読者がいるとは思うが)。
 「りぼんマスコットコミックス」だが、連載は「クッキー」誌。むかしの「ぶ〜け」をやや幼い層もターゲットにした女性漫画誌だと思うのだが、対象は中高生〜若いOLくらいが想定されている。
 また、マーガレットコミックスの、たとえば『ラブ☆コン』や『ハツカレ』などよりも、ずっと大人のための漫画で、笑い一つひとつに、十分な毒がある。

 そうなのだ。

 東村は、ユカという子どもを使って、登場する大人たちを笑い者にする
 東村の批評精神は容赦がない。

 子どもを使って、大人社会にたいし「王様は裸だ」といいうる漫画といえば、思い出すのは当然、榛野なな恵『Papa told me』であろう。主人公・的場知世が、賢しらに、大人社会のいびつな常識を衝く。
 その場合、知世の武器は〈言葉〉である。
 言葉に信頼をおくぼくとしては、応援したいところではあるが、しかし、冷徹にながめてみれば、〈言葉〉では、敵対者や批評すべき相手には届かないということもある。
 榛野の漫画がしばしば「癒し」「ヒーリング」などと称されるのは、それが批評された〈敵〉にとって「癒し」だからではなく、その〈敵〉によって、日常攻撃されている人たちにとって「癒し」だからである。いわば的場知世は、それらの人々のイデオローグである。ぼくも以前に指摘したことではあるが、榛野はしばしば、自分たちの守るべき小世界をしばしば「国」や「領土」にたとえる。
 最新号(2004.12)の「ヤングユー」誌でも、榛野(「君と会う朝の広場」)は「それでもいつかはお姫さまになろう 小さな王冠を自分で頭に載せて 私だけの夢の領土を治めるの」と結ぶ。
 国や領土のメタファーを使いたがるのは、榛野的王国と他国・他領との間には、超え難い国境があるからだ。榛野は、〈言葉〉という武器によって、その国境を厳しい表情で防衛し続けているのであって、おそらく、〈いびつなオトナ社会の常識〉と〈榛野=的場知世的世界〉の両者が理解し、和解しあう日は遠い。

 しかし、東村が『きせかえユカちゃん』でくり出している〈笑い〉という武器は、常識で鎧われた精神を爆破し、解放してしまう。それは、生半可な言葉よりも、はるかに強烈な武器となる。敵も味方も笑ってしまうことで、垣根をこえてしまえるのだ。

 笑いというものがもっている破壊力である。

 わがつれあいが、「こまっしゃくれたガキ」などと悪態をついたように、的場知世の姿はしばしば特権的である。真理を独占した者がたつ高みが垣間見えることがある。それこそが「癒し」を求める人々にとっては、拝跪すべき根拠なのかもしれないが。

 しかし、ユカは、徹底して無垢、身もフタもなくいえばアホである。

 バブルを述懐する定岡先生の後ろで「先生何の話してんの?」「ぜんぜんわかんない」とまじめに疑問をぶつけるユカ(とその友だち・みどり)。『きせかえユカちゃん』にはこのテのシーンが多い。的場知世とちがって、ユカたちには、何の「知恵」もない。ナイーブそのものである。
東村アキコ『きせかえユカちゃん』集英社より(左:1巻p.140、右:5巻p.81より)


 食い意地のはった美少女という設定も超古典的かもしれないが、1巻のお花見のエピソードで、「ほら ユカも少しは上見なさいよ お花見なんだから」「ムリだよ…… ユカちゃんってごちそう目の前にすると動物になるから……」というやりとりの後で「今自分がどこにいるかも分かんないと思うよ」という手書きが示すものは、暴力的なまでのアホさである。
 一番大笑いしたのは、6巻の年の瀬で「宝くじがあたった」というエピソードで、5000万円当ったというくじをもったユカやみどり、美少年の真澄がふるえながらコンビニ入るシーンだ。ハーゲンダッツとおぼしき「高いアイス」を震えながら手にするユカ。「だめだよ!! そんな高いアイス…」と、やはり激しく動揺しながら、とめるみどり。「へっ いいじゃねエか…… もうオレ達ここまで のぼりつめたんだ……」と蒼白で震えながら答えるユカ。このセリフの「ねエか」の「エ」のカタカナっぷりと、口の端の歪めぶり、チープ感爆発の芝居に、尋常でない東村のセンスを感じる。この安芝居を演じさせられているユカ、みどり、真澄は徹底してアホなのである。

 そこには的場知世と対極の世界がある。
 子どもとはアホである。
 しかし、大人も負けず劣らずアホなのである。

 宝くじのエピソードで、神社のテレビ中継カメラにわりこんで大声で叫ぶユカに、とんちんかんな対応をしながらその画面をみている大人たちは、実はユカ以上にアホではないかと確信させてくれる。

 そのようにして、アホの破壊力ともいうべきもので、東村は〈批評〉をする。

 全編これ、笑いの批評であると思うのだが、たとえば4巻の「うえでぃんぐどれす スペシャル編」では、高校時代のファッションで恋人に「ダサ星人」といわれたことがトラウマとなった女性が、そのリベンジを果たすことで回復される物語なのだが、それはおしゃれな服を見つけたり、それを着て恋にときめいたときの気持ちを回復する物語であり、その喪失にたいする厳しい批判となっている。
 


 東村のこのパワーは、初期(「ハッピーマニア」のころ)の安野モヨコを彷佛とさせるが、むしろ笑いという点では、それを凌駕する。
 これだけすべての人が笑い者にされながら、誰一人として高みにいない。悪者も出ない。
 東村の笑いは、毒をもっているくせに、健全な民主性を備えているのだ。

 1〜2巻も十分おもしろいが、それでさえまだ本調子ではない。
 少なくとも6巻までは、尻上がりに面白くなっていく。
 購読されるみなさんには、6巻までお買いになることを強くおすすめする。


 それにしても三白眼フェチっていいよなあ。
 爾来、喪服の女性が気になるアホな私……。



集英社 りぼんマスコットコミックス クッキー
1〜6巻(以後続刊)
2004.11.19感想記
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