柴門ふみ『小早川伸木の恋』




小早川伸木の恋 (1)  三十代後半から四十にかけて危機が訪れるという説をぼくの同僚が強く信じているのは、彼自身のなかで危機が実際にふくらみつつあるということと、それらしい社会的根拠があるようにみえるからだ。

 「それらしい社会的根拠」とは何か。

 学生時代に培った職業観や恋愛観のままで二十代、三十代までは安定飛行を続けることができる。ところが、学生時代の未熟さや世界の狭さが職業選択や結婚につながっており、その形式の器が、自分のなかに勃興しつつある成熟や成長を包容しきれない場合がままある、というわけである。
 もちろん、その矛盾はどの年齢でも起こりうるのだが、結婚と仕事という人生の全線にわたって火の手があがるようにみえるこの時期は、ただの違和感や齟齬にとどまらぬ、「危機」という大げさなカテゴライズにされやすいという話だ。いわば、「アルゲマイネ・クリーゼ(全般的危機)」である(笑)

 実際にこうした根拠があるかどうかはおいておくとしても、それがある程度信じられていることは間違いない。

 この「危機」と「矛盾」は、「仕事でも結婚生活でも、自分が虚偽にとりまかれている」というイデオロギー形態によって粉飾されている。



本作における「虚偽にとりまかれている」イデオロギー


 この物語の主人公、小早川伸木は、ぼくと同じくらいの年代――35歳、大学病院の医者である。
 『ブラックジャックによろしく』や『白い巨塔』を待つまでもなく、大学病院は生き馬の目を抜く権力闘争や競争に満ちている。かといって、小早川は、それを変革しようとするでもない。小早川は自分の職場である大学病院を「動物園」だと形容する。

「ウチの職場には色んな連中がいるんです…
 無理難題をふっかけたり、
 訳のわからない意地を張ったりする連中が……
 でも、そんなことにイチイチ腹を立ててたら、キリがない
 だから、彼らを動物に仕立てて眺めるんです
 ライオンが吠えている、
 カバが水を飲んでる、
 フラミンゴが走り去る。
 ぼくは動物園にいるんだ……って思えば腹も立たない」

 現実を変革しようとする「正論」は嘲笑される。「正論」をのべている青年研修医は、周囲から浮き上がった「アライグマ」であり、現実をみない石頭と見なされ、小早川は――そして作者柴門も――冷ややかな視線を落としている。因習は「存在する以上合理的な根拠があるもの」だとされ、「正論」や「理想」は現実には無力な空論だと扱われる。だとすれば、知的で冷静な主人公のとる道はひとつで、現実に腹を立てぬ処世しかない。
 俗世を「けだものの跋扈する魑魅魍魎の世界」だとみたてて、諦念の高みに立つという話は昔からあり、杉浦日向子の『百物語』にもその変奏がある。いかにも個人や組織が無力だった時代の身の処し方で、共同体に人間が従属していたころに生まれた、庶民の哀しい「知恵」である。

 かといって、小早川はボスにへつらって出世街道を歩こうという俗な欲望もない。あらゆる人間とバランスのよい距離感を保つ。たぶん、身近にいれば、これくらい心地よくつきあえる人間は他にいないであろう。その「つくられた自然体」のうえに、まあ、ボスが自分を気に入ってとりたててくれるなら、肅然と受け入れようではありませんか、という「嫌味のなさ」である。

 他方で、小早川の家庭生活をみてみると、美人の妻と娘がいる。妻は依存のひどい不安症だ。
 当直が少しでも多いと「当直が多すぎる」と勘ぐり、「じゃあ今ここで『妙子愛している』って言って!! 言えないの? おかしいじゃん! わかった! 当直室に女連れ込んでんでしょ!! ナース? 女医? それとも……まさか患者!?」と電話で怒鳴り散らす。
 小早川はそれに「キレる」ことを一切しない。
 「当直室に女なんて無理」だと誠実に回答し返す。
 あるいは、妻がストレス性のアトピーがひどくなれば、「薬はイヤ」という妻の要求をきいて、妻が望む気晴らし――深夜のドライブにでかける。そのために、ほとんど小早川は睡眠時間がない。

 それでもなおかつ、小早川は、同僚に「妻と娘を愛してる」とまじめな顔で言い返せるのである。

 だが、のちに小早川自身が恋をしたとき、小早川は妻・妙子にウソをつく。

「オレは自分が汚れていくのを感じた
 オレは薄汚い大ウソつきだ」

 そして、「愛していないのに愛しているフリはやめて!」という妙子の言葉こそ真実であると思い直し、自分の虚偽に悩む。

 仕事でも家庭でも、小早川は「虚偽」にとりまかれている、というわけである。



虚偽をうちやぶる力は美しい真実だという神話


 汚れた虚飾を粉砕する力は「美しい真実」だとされる。
 小早川が出入りする知り合いの盆栽教室にいる作田カナというショートカットの女性は、職場を動物園にたとえる小早川を

「孤独なのね」

と言い当てる。
 そして、小早川は、作田にこう告白する。

「初めてカナさんを見た時、あんまり美しくて眩しくて目が開けてられないくらいだった。それはカナさんが顔も心も美しい人だったからだ… 今、わかりました」

 歯が浮くようなセリフとはこのことだが、歯が浮くようなセリフを捧げるほかないほどの「美しさ」をもった女性がもし現実にいれば、それは現実の虚偽を爆砕するほどの力をもっているだろうと、中年壮年の男性読者は妄想する。

 そう、すべては壮年から中年へとうつろいゆくビッグコミック男性読者の妄想に、全身全霊奉仕した作品である。漫画とは欲望表現であり、ぼく自身、さんざん自分の妄想や欲望をあおりたててくれる作品を舐めずり回しておいて、こんなことをいう倫理的特権はいささかもないのだが、たいへん不快なものを見せられている思いである。「作田カナとやりたい」という欲望の周辺に、読者である男性諸子の「人生の危機」というモチーフを配置しただけのこの漫画にむかって、「フケツよ! 大人なんて! みんなウソだらけ!」とつい叫んでしまいたくなる。美しい物語のように仕立て上げようとするその意図が、ぼくを潔癖性の少女のようにさせているのだ。

 現実を虚飾だとしながらも、おそらく柴門はそれを最後までくつがえしはしないだろうという予感がぼくにはある。つまり作田カナという「美しい真実」だけを配し、人生の真実を知ったとしても、「分別」のついた小早川はたぶん変革へはふみださない。現実に拝跪し、より「高み」をもった諦観として現実を受け入れるにちがいない。



よごれた『東京ラブストーリー』として


 「私を愛して愛して愛して愛して愛して愛して」「どうして愛してくれないの!」とヒステリックに叫ぶ小早川の妻・妙子は、『東京ラブストーリー』の赤名リカの末路のようにも見える。他方で、作田カナは、『東京ラブストーリー』の関口さとみに「汚れない美しさ」という特権を付与した形象だ。小早川伸木は、多少は分別のついたカンチで、相変わらず人間関係の狭間で身動きがとれずにウジウジしている。

 『東京ラブストーリー』の美しさは、ここにきて現実の汚れにまみれた虚飾へと堕してしまった。設定やとりあつかう欲望が、柴門ふみの場合、昔よりは「現実」に近づいているのだが、この場合、「現実」への屈服へと傾斜していってしまっている。
 柴門はロマン主義的な作風と自然主義的な毒を、その人生の時期ごとに往来している漫画家であるが、『女ともだち』を描いていたころは、現実への照準をあわせながら、それを刺す毒があって、読んでいる方は小気味よかった。ところが、『小早川伸木の恋』で進行している「現実主義」は、現実にたいする批評的な態度が感じられない。無能な政治家のくり返す「現実主義」に似ている。
 別の柴門の短編集『My Little Town』も、自分の町への静かな愛着というより、新しく押し寄せてくるものへのあきらめのようなものが先に来て気になった。


 ぼくは、柴門が『小早川伸木の恋』をこのままの延長線で終わらせないように願っている。この拙文が浅薄な決めつけだったとして徒労に終わる日が来ることのほうを期待する。


小学館ビッグコミックス
1〜3巻(以後続刊)
2005.7.6感想記
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