岡本夏木『子どもとことば』





「ことばの発達」ではなく「発達のなかのことば」



 前に“娘(現在10カ月)には話しかけても大人みたいな明確な反応をしないから話しかけをどうしてもしなくなっちゃうんだよねー”みたいなことを書いたらサイト読者の方からおしかりをうけ、本書を読むようにすすめられた。
 1982年が初版の本で、岩波新書でも「黄版」の本であるが、ぼくが手にとったのは2006年41刷。ロングセラーであることがわかる。

子どもとことば (岩波新書) この本は、「『ことばの発達』というよりも、むしろ『発達のなかのことば』」(p.10)という考えをとっている。どういうことかというと、「ことばの発達」というふうにいってしまうと「何かそれだけで一つの独立した発達があるかのような印象を与えてしまう」(同)からだという。
 つまり、主にはコミュニケーションを軸にしながら、感覚や音声、体のはたらき、社会性の獲得など、赤ん坊はあらゆる機能をフル回転させて「ことば以前」のものを準備し始めるというのだ。だから、大人が使う言語としての「ことば」だけをぬきだして、その発達だけをみるのは狭いよ、というわけである。「ことばは子どもの全体的な発達のなかから生み出されてくる」(p.9)。




「人見知り」のメカニズム



 本書はまず「一 ことば以前」を論じる。
 先ほどの趣旨からいえば、この本のメインは実はここである。

 ぼくなりに乱暴にまとめてしまうと、赤ちゃんはまわりの環境のなかから、文脈をこえて自分にはたらきかけてくる「人」をまず認識する。えーと、たとえばテーブルとかイスとかベッドとかはほとんど動かないし、使うときにもその場所で粛々と用に具するだけだ。これにたいして、たとえば母親はあらゆる場所で自分に対して刺激や信号をおくってくるので、状況をこえて「対象」としてそいつを認めようとする、ということだろう。
 へーゲルでいえば「有」ってやつかね。
 なんかそこにあるなー(母親)、ということだけはわかるというレベルの認識だ。
 自分のまわりっていうのは、とにかく自分もふくめて混沌とした一体化した世界で、どこからか快不快の刺激が与えられるにすぎないわけだしね。
 しかし、なんにせよ世界からにゅっとぬけだした「対象」としてはじめて母親(とか父親)が登場し、それが世界をこれから認識していく「手がかり」になるということだ。

 だから、「自分と世界」なんて概念、そもそも「自分」なんて考えがない。「自分」っぽいことを考えてはじめてたとしても、鏡をみて他人を当てるのは15カ月でかなり正答率は高いけども、自分を当てるのは10%しかないらしい。自分に対する「命名」ということができるまで、自分というものは一貫性を欠いた存在だと岡本はいう。

「それまでは、自己はそのときそのときに内に体験されている感覚的情動的一体物にしかすぎず、状況の変化とともに自己はとどまるところなく変化して、およそ恒常性の欠如した、そのときそのときの瞬間的存在でしかありえなかった。乳を飲んでいるときの自分と、歩いているときの自分と、絵本を見ているときの自分が経験している内容は別個であり、それらの自分のあいだには何らのかかわりあいも一貫性もなく、状況の無数の変化によって無数の自分があるといった状態に近いだろう」(p.164)

 いつも働きかける「人」が混沌とした世界からぬけでるきっかけをあたえる。
 そのあと、微笑などによって「気持ちいい」という感情を共有しあえるようになれば、コミュニケーションの前提ができる。その前提ができたとき、いよいよ次に赤ちゃんが視線をおくることで第三のものをテーマに母子でコミュニケーションできるようになり、子どもと母親のあいだに第三のなにかが介在することができるようになる——と岡本はいう。
 だが、それはまだ「物」ではない。
 もちろん「物」であることもある。それ以外にもたとえば風がふいてカーテンがゆれるという「事」でもある。だから、それはまだ「物」というかたちにはなっていない、「テーマ」ともいうべきものである。

 しかし、この母子がコミュニケーションがとれるようになって、はじめて第三のなにかがその間に介在することができるようになり、混沌とした世界からまた別個にぬきだして「物」への認識をあゆみはじめることができる。

 これを「三項関係」という。

 ぼくが行っている園ではこの「三項関係」についてよく説明がある。ただ、もちろんずいぶん簡略化されて、「テーマ」はただちに「物」になってしまっているのだが。

 世の中の育児書がくり返し、「目をみながら授乳を」とかいうのはこうした認識がおそらく前提にある。それは視線の共有に敏感になり、見逃さないようにせよ、という意味なのだろうが、読んでいるこっちとしてはたんなる愛情論だと思って通過してしまうところだ。

 この理屈の上に、「人見知り」が説明されているのが興味深い。

「愛着の対象となるのは、このように自分とコミュニケーションのコードを共有し、それによるやりとりを互いによろこび合い、通じ合う人だとする解釈である。見知らぬ人とは、自分の了解不能なシグナルを出しながら迫ってくる人であり、また、こちらから出しているシグナルにはちぐはぐな応えかたしかしてこない人であり、それが子どもに大きい不安や当惑をもたらすと考えるのである。子どもにとって『見知らぬ人』とは、その人が出すシグナルの意味がわからない人ということになる」(p.63)




ことば以前に準備されるもの



 本書は、ことば以前のコミュニケーションについて解説しおえたあと、「二 シンボルの形成」ということで、いよいよ記号の世界について語っていく。
 ぼくら大人はたとえばコップを「コップ」という記号にすることは何でもないように思えるのだが、有名なヘレン・ケラーの「water」のたとえを待つまでもなく、赤ん坊が「ものに名前がある」というところまで達するには実に多くの段階を経なければならないことが書かれている。

 そして「三 ことばの獲得」である。
 これは大人の言語のきれいに整理された体系や機能にいきつくまでに実に多くの紆余曲折をへながらいくことを、事例をもとに解説している。
 ある幼児の例をひきながら、「ニャンニャン」というのが快適さをしめす声だったものが、快適な対象にたいするものを指すようになり、やがて動物一般もしくは白い毛のついたもの全般に使うようになり、やがて消え、ふたたび白い毛のついたものをさすことばとして登場するようになる様子を追っている。

 本書を読んで思うことは、細かい知見ことはある意味どうでもいい。それは古くなったり間違っていたりもするだろう。
 しかし全体として、ことばを生み出すまでに赤ん坊は実に豊かな概念や感覚の世界で暮らしているということであり、その多くの段階を経てようやくことばの獲得をはじめるのだ、ということが印象に残る。
 問題は大人的なことばの対応ができたかどうかではなく、その前提となる豊かな世界像そのものを赤ん坊が獲得できたかどうかなのだ。




ことばによって失われるもの



 それを裏返せば、ことばを獲得することによって、逆に失ってしまう世界というものもあることに気づかねばならない、と岡本はいう。

「ことばの慣用的な使用経験が増せば増すほど、ことば記号とむすびついた概念は、より画一化、ステレオタイプ化し、情報処理や表現形式は機械的に固定化しやすい命運を同時にになっているのである。そしてそのために、子どもが言語的思考の熟達に先立ってもっていたいくつかの機能の長所が、その犠牲になって失われていきやすいことを見逃してはならない」(p.175〜176)

「慣習的な言語反応が巧みになるにつれて、それが、物自体や現実に対する新鮮な関心やイメージ化の力、想像性、直観性、行動や情動とのつながりや表現意欲等々、人間の能力として幼児期においていちじるしく発達させてきたものを、逆に圧迫し枯渇させてゆく傾向が強まってくる。思考面だけに限らず、一般にことばが生活の中心的位置を占めるにしたがって、その代償として、外界や人びとを生き生きと感じとったり、鮮明なイメージとして保持しつづけたり、自分の身体にひとつの自然を見出したりすることも失われやすい」(p.177)

 国語の教科書に「川」というつぎのような小学5年生の詩が載った。

さら さるる ぴる ぽる どぶる

ぽん ぽちゃん

川は いろんなことを

しゃべりながら 流れていく

なんだか 音が流れるようだ

顔を横向きにすれば どぶん どぶぶ 荒い音

前を向けば 小さい音だ

さら さるる ぴる ぽる

大きな石をのりこえたり

ぴる ぽる 横切ったり

ぴる ぽる どぶる ぽん ぽちゃん

音は どこまで 流れていくんだろう

http://sarasalulu.hp.infoseek.co.jp/source.htm

 ところがこの詩にたいして、「川はさらさらと流れるものだ」と検定意見がつけられ削除された、という有名な話は、まさにこれに当たるだろう。
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/danwa20080330.htm





岩波新書
2008.5.12感想記
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