きづきあきら『氷が溶けて血に変わるまで』


氷が溶けて血に変わるまで  話にふさわしい絵柄というものがある。
 弘兼憲史に少女漫画を描かせるわけにはいかないし、けらえいこにホラーを描かせるわけにはいかない。(『課長島耕作』は少女漫画ではないが、二ノ宮知子によれば、SF漫画であるが)
 バランスをくずせば、野中英次(『魁!!クロマティ高校』)のようにギャグになる。ま、あれは正しく崩れているわけであるが。

 きづきあきらの絵柄は、もともと欲望や「萌え」をさそう絵柄で、現実のリアルを描くには飛距離が短すぎる。それは欠陥がある、という意味ではない。活躍場所が違うというだけの話にすぎない。

 『氷が溶けて血に変わるまで』は短編集である。冒頭の「suiside note」は、性的虐待を受ける双子が自殺を決意するが、じつは、姉妹で決意にくいちがいがあり、ラストでは生きようという決意を前面におしだして終る。

 少なくとも、この双子が投げ込まれているおぞましい運命を呪うという調子は伝わってくるし、その性的虐待をおこなっている「パパ」(養父)へも非難の言葉はむけられている。また、もしこの作品を本気で欲望のために描くなら、虐待シーンを描くだろうが、虐待そのものは暗示的にしか描かれず、その意味では興味本位に流れずにギリギリの抑制を効かせているといえる。

 しかし、そういう具合にいちおう表看板として性的虐待への批判のトーンをかぶせながら、美少女に造形された双子のシャワーシーンといい、むきだしの脚や腕といい、全体を支配する欲望的な空気を感じ取ってしまうとき、ぼくは一体どうこの作品に接していいのか迷ってしまう。

 この双子の美少女に欲望の視線をむけるぼくらは、明らかに、「パパ」と同じ視線を送ってはいないか。児童虐待の漫画ルポである『凍りついた瞳』(ささやななえ)が画面からいっさいの欲望色を追放したのと比べれば、この点は一目瞭然である。

 『凍りついた瞳』との比較でいえば、そのタイトルのとおり、虐待を受けた子どもたちは、現実には無表情や極端な性行動をみせるというのが典型的な特徴である。ところが、きづきが描く双子は、いくら「無気力で眠ってしまう」とか「『パパ』とは呼べなず『あの人』と呼んでしまう」という設定を構築してみても、表情においても行動においても、あまりにも豊かすぎる。現実がもっているディープさや深刻さはこの漫画からはいっこうにただよってこない。この漫画が、「重かった」り、「胸をえぐる」ということはない

 じっさい、この短編の終わり方は、きわめてリリシズムに満ちている。
 月の美しさを感じ取れることを生の喜びと結びつけているのだが、それは現実世界に展開している虐待の深淵からの脱出とは縁のない、抒情にすぎない。

 きづき自身がどんな原体験をもっている人間か、あるいはきづきは男性か女性か、ぼくは知らないが、この漫画の受容のされかたは、双子の美少女への欲望的な視線と、少女たちの健気さの「抒情」だけである。これに「少女を囲い込んで性奴隷にする」などという設定まで加われば、すっかり「エロゲー」ではないか。

 きずきは、荷宮和子の次の指摘をかわしきれるのか。

「『性的虐待』というテーマは、マスコミで働くオジサン達の心の琴線を揺らすらしく、最近やたらと目にする言葉である。/マスメディアは、どんな題材であっても、より多く売るために、より扇情的な問題提起のやり方をとる。従って、日本の女の子の子供時代全体をおおう抑圧、大人になった時子育てに恐怖を抱いてしまうほどの抑圧が、『性的虐待』=『いかにも週刊誌を読むおっさんがそそられそうなネタ』に、矮小化されてしまうのは当然の結果である、とは言えるのだが。/けれども、私が書きたいのはそういった『インテリぶっているせいで、低俗なエロ雑誌に手を出せないでいるスケベオヤジの心の故郷』的モチーフのことなどではないのだ」(荷宮『アダルトチルドレンと少女漫画』廣済堂)

 ひとことでいえば、一種の「あざとさ」を感じる。

 似たものをあげるとすると、戦争の悲劇を美談に変換する手法――最近では特攻隊の悲劇を美談に変えようとした「新しい教科書をつくる会」――のあざとさだ。
 新谷かおる『エリア88』(戦闘機が落とされるたびに、抒情めいたセリフが付される)などにうっとおしくはりついている「悲劇のロマンティシズム」という空気は、まさしくこのあざとさである。
 きづきのこの短編では、性的虐待の悲劇が、こっそりと抒情と欲望に変換されている。


 いや、ぼくは何もここで、たとえば「あらゆる戦争漫画は、現実の戦争の残酷さのリアルしか描いてはいけない」という類いの野暮を述べたいのではない。倫理的要請や狭義のリアリティ追求のみが漫画の基準だったら、大変だ。

 しかし、性的虐待というテーマを、ディープな色彩で描き始めてしまったとき、それを高い水準の創作にしあげようとすれば、おのずとそこに組み合わせる絵柄や結末や雰囲気というものは決まってきてしまうと思うのだ。
 テーマによっては、どれほどディープな題材であっても、バラエティに富んだ組み合わせをすることができる。誘拐や殺人など、数知れぬミステリーや犯罪の漫画は、たとえばそうである。
 しかし、性的虐待のように、現実のなかで取り扱われ方も日が浅く、日々人々の心を鋭利に傷つけている問題は、制約が大きく、ささいなことで作品のバランスを崩しやすい。

 
 きづきは、近親相姦や性同一性障害など、多数派の性とは別の性のありようを「好んで」描きつづけている。しかし、なればこそ、みずからがあつかう題材の制約について、もっと自覚的であらねばならないと思うのだが。


※『ヨイコノミライ』1巻の短評はこちら
※『いちごの学校』の感想はこちら


ぺんぎん書房
2004.4.4記
(04.4.29、05.11.13補足)
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