吉田基已『恋風』


※ネタバレがあります。


※『水と銀』の感想 ※『水の色 銀の月』の短評

 吉田基已『恋風』は、結婚相談所で働く佐伯耕四郎と、その実の妹で高校生の小日向七夏の恋愛の物語だ。両親が離婚したために、長く離れていたが、やがてめぐりあった二人は恋に落ちる。耕四郎はヒゲ面の熊のような体躯の男であるのたいし、七夏は子どものように(いや子どもだけど)小さくかわいらしい。
 七夏の上クチビルにわずか1ミリの線を引くだけで、急にキャラの立体感が出るんですもの、漫画って不思議ですわ。
 兄妹であるという障害が二人を苦しめるが、二人は現代においてもっとも高い障壁である「近親」という壁を乗り越えていこうとする。

 この漫画の結末では、耕四郎は結局、七夏と結ばれる。すなわちセックスをする。
 欲望を成就させるのだ。
 『水と銀』でも、高校生の星クンと森はセックスしてしまうし、華海と哲生もセックスをする。吉田にとって、欲望をとげさせることは重要なことなのであろう。

 この漫画が欲望をかかえていない、とは間違ってもいえない。
 「イブニング」の読者が、自分と同じ年格好の男性が女子高校生とセックスをする話を、聖人君子のような目で見ていると考える方がおかしい。

 だが、この漫画を読んで最初に強く印象づけられることは、「清涼感」「透明感」「美しさ」である。いや、吉田が耕四郎と七夏の恋愛をそのようなものとして描きたがっている、と言ったほうが正しい。しばしば二人の愛情の告白は、桜吹雪の中で行われる。あるいは雪の降る中で。

 落ち葉の舞うガードそばで、「“他にはなにもいらない” そんなのはきれいごとだ」というモノローグのあと、耕四郎が、涙目でまっすぐに彼を見つめる七夏に告白する。

「それでも
 俺は 他になにもいらない
 おまえがいれば なにもいらない」

 目を閉じ、滂沱と頬をつたう、七夏の涙。

 吉田はおそらく全身全霊をこめて、すなわちマジで、この物語を「美しいもの」にしあげたいと精魂かたむけているのである。

 どろどろした欲望と、透明な純愛

 「妹萌え」はこの両者を並び立たせるのに適合的な題材だ。
 「近親相姦」は、現代に残された越え難い障壁の一つであり、それをあえて乗り越えるという物語に仕上げることによって、愛情の純粋さが浮かび上がる。
 他方で、女性を「他者」ではなく自家薬籠中のものとして、あるいは欲望の対象として扱うには、「小さきもの」であることは決定的な要素である。
 ヲタにロリが多いなどという話は、ヲタが必死に弁解しているように、「リアル子ども」が好きだということは少ない。それは本当にそうなのだ。ヲタキング岡田斗司夫は次のように言う。「子供と遊んだことのないやつに限ってロリとかショタに走るけど、子供は面倒くさいって知らないんだよお」(『日本オタク大賞2004』)。(※詳細な定義についてはここ
 だから彼らは「漫画やアニメでロリコンものをみているからといって子どもに手なんか出さねーよ」と自信(半ば不可解な)をもっていえるのである(そして一般人と同じほどの比率で、真性のペドファイルはいるわけだが)。二次元のなかの「幼女っぽいもの」は、リアル幼女ではなく、女性一般を欲望のために変形したものにすぎない。

 どんなことがあってもお兄ちゃん・耕四郎についていく七夏は、まったく他者性のない、欲望という幻想の結晶体である。
 このようにして、「妹萌え」では、いちばん都合よく、「欲望」と「純愛」を両立することができる。

 もちろん、それは妹萌えには限らない。
 エロゲーというキチクなものにおいて、「純愛」が重要な要素であるのは、ヲタクが純愛と欲望の分裂のまっただ中を生きているからである


 
「テレビにでてくる流行歌手のうたう歌は、みんな恋愛の歌だ。……
 あんたも君も恋愛は最高に美しいと思ってるだろ。……
 だけど、あんたも君も、ふしぎに思わないか。恋愛は美しいのに、恋愛と関係のあるらしい性について何か知ろうとすると、両親も先生も、きたないものにさわるなって顔するだろ。いつもうまくはぐらかされてしまうんじゃないかな。
 恋愛ってのは、男性と女性がすることだから、性と関係があるにきまってるのに、どうして恋愛はきれいで、性はそうじゃないんだろう」

(松田道雄『恋愛なんかやめておけ』)


 肉欲と愛の分裂は、太古の昔からあるけども、近代になって個人が登場してから、その分裂ははっきりと自覚的なものになった。主に男の側で。

 愛、すなわち精神は美しいもので、肉欲は獣のようでけがらわしく汚らしい。

 その両者の統一は、いうまでもなく「もっとも純粋で強い愛情にもとづいた美しい恋愛の結晶としてセックスをする」というものだ。まさに、吉田が『恋風』において描こうとしたものは、欲望と純愛を両立させるという近代の日本の精神史においてくり返し問われてきた古典的なテーマである。

 そして、思春期から結婚前において、レベルの差はあれ、 ふつうの人はその分裂に悩むという経験をする。現実のパートナーを得て、パートナーという他者と「格闘」するなかで、その分裂は現実のなかで統一されていく(あるいは結婚・家庭生活というシビアな現実によって、純愛とか欲望という項そのものが消滅してしまったりするのであるが)。
 現実に統一されたものは、たしかに「愛情にもとづくセックス」かもしれないが、たいていはそんなにピュアなもんじゃない。愛おしいという気持ちが大局的には働いていても、その瞬間はヤリたい気持ちでいっぱいだったりするわけで。欲望と愛情は、「統一されてキラキラしている」んじゃなくて、むしろ「渾然一体となってどろどろしている」のが普通だ。愛情が欲望を洗い浄めるんじゃなくて、愛情は欲望のドロにまみれるのだ。

 しかし、ヲタクは純愛と欲望の分裂を、そのまま生きることができる。
 こんなの現実じゃねーよといって鼻白むこともせず、現実でないことを承知のうえで(いや中には承知していないヲタもいるが)ピュアな夢物語をそのまま受け入れることができる。

 明治の詩人・北村透谷は、尾崎紅葉の『伽羅枕』を、元禄時代のエロ小説を真似したものだといって次のように批判した。現代の書き下し文でそれをみてみよう。

「好色は人類の最下等の獣性をほしいままにしたものだ。恋愛は人類の精神の美しさをしめすべきものだ。好色をえがくのは人類を堕落した獣の世界に追いやるものだ。真の恋愛をえがくのは、人間に美をそなえ、精神をもつものにすることだ」(『「伽羅枕」及び「新葉末集」』)

 近代の恋愛精神史を俯瞰した松田道雄の名著『恋愛なんかやめておけ』で、松田は透谷について次のように語る。

「透谷は、のけものにされた人間、厭世詩家の生きるよりどころとして、精神的な恋愛を叫んだ。うそだらけの世界で、恋愛だけに真実をみた」

 『恋風』のラスト、二人がむすばれたシーンに書かれているモノローグは、まさに透谷的精神である。

「俺がしたことは無意味だった
 おふくろに会いに行った意味も
 家族四人で食事した日のことも
 全部嘘になってしまった

 だけど唯ひとつ
 嘘じゃないことがあって――」

 あるいは松田は次のように言う。
「精神的恋愛は、長もちしないんだ。
 透谷のいってることは非常にだいじなことだ。精神的恋愛ってのは結局は夢なんだ。…
 夢というのは、みているときはほんとだと思ってるものだ。本人は疑わない。…
 私はあの人が好きだと思っちゃうと、もう魔力のとりこになっちゃうんだ。その人が世界でいちばん美しく、かしこい人のようにみえてくる」

 喫茶店での七夏と、耕四郎の同僚の女性(千鳥)とのやり取りが思い浮かべられる。

千鳥:今だけよ 頭に血がのぼって周りが見えなくなってるだけ
   今は目の前のお兄ちゃんのことしか考えられないだろうけど
   そういうの長続きすると思わない
   だって辛いでしょ?
   冷めたとき最悪だよ
   だって兄キだもん

七夏:生涯想いつづける
   そう信じられる恋だってあります

千鳥:生涯 甘いよ甘い ははは
   生涯だって 簡単に言っちゃうんだもんね ははは
   だからお子ちゃまなんだっての

七夏:(ボソッ)おばん

千鳥:……


 透谷は「獣欲」と「精神的恋愛」を対立させ、前者の単独での価値を否定し、後者による前者の支配をもくろんだ。
 『恋風』に萌えるヲタは、この透谷の末裔である。
 「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」と透谷が自己肯定的に言ったとき、それはまさにヲタのことを念頭において言ったかのようであるなあと思わないか。
 で、現実のみにくさに悩む透谷は結局自殺しちゃんだけどね。奥さんに「いっしょに自殺しよう」って申し込んで、子どもがかわいそうだからというシビアで現実的な理由で断られて、一人で死んじゃう。

 
 え、ぼく?
 ぼくはもちろん楽しみましたよ。『恋風』を。
 ヲタの末席を汚す一人として、ね。


※ぼくのこの感想文にたいする批判にこたえての一文


『恋風』
講談社イブニングKC(全5巻)
2005.1.24感想記
参考:松尾慈子「漫画偏愛主義
参考:松田道雄『恋愛なんかやめておけ』(朝日文庫)
参考:『日本オタク大賞2004』(扶桑社)
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