藤原正彦『国家の品格』![]() 内容を大ざっぱにまとめると、次のようなものになります。
どうですか。 ネタ本としての佐伯啓思 藤原の思想、とくに1.と2.にあたる部分にはハッキリとしたネタ本があります。保守主義のイデオローグ、佐伯啓思です。彼が著した新書をいくつか読めば、藤原の思想の原液ができあがり、それをもっと味をキツくしたのが藤原のこの本なのです。 ![]() 近代の入り口で大混乱に陥ったヨーロッパのなかで、その混乱をおさめるための理論装置を開発したのがホッブズだと佐伯は言ってます。「善」の実現をめざすために自らが積極的に政治の主人公になるギリシア・ローマの古典的市民像とは違って、ホッブズ的世界では、人々はひたすら自分たちの私的な利益を「自由」に追い求めます。武装も解除し、公のことには関心を寄せません。全体の利益は人々とは別の「主権者」が守ってくれるのです。 〈古代の都市国家のように、何か共同体の「善」あるいは「善き生活」を実現するものが国家なのではなく、あくまで個人個人の生命や財産の安全を確保する公的権力機構が国家だということになります〉(佐伯『人間は進歩してきたか』p.112) 〈古典的世界では、政治を行うことは公共的なものにコミットするということでした。防衛義務や政治参加は重要な公的活動です。ところが、ホッブズの考える市民像はまったく違っていて公共的なことには関心をもたない。彼の関心はもっぱら「私」の生命・財産、「私」の身のまわりの自由といったことになります。そして、これこそが近代的市民とわれわれが考えるものなのです。つまり、「公」よりも「私」を優先し、もっぱら「私」の利益を追及する者、それこそが近代的市民なのです〉(前掲書p.113〜114) このホッブズを起点として、佐伯は、ロック、ルソーへと話をすすめ、アメリカ独立革命、フランス革命について論じていきます。そしてウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で近代的な個人主義の誕生へと話を流し、核にあったキリスト教精神が失われたなかでは私的利益だけを追い求める個人の巣窟に社会がなってしまいまんがな、という批判をしています。 ![]() ここで佐伯は、「私的利益を追い求めるための自由」を前提にする現代のリベラリズムは援助交際を批判できないんですよ、と述べています。それはさっきの本であげた議論とかかわっているのですが、価値の中心になる「善」がなくなってしまった現代では、それを実現するための単なる手続きだった「自由」がそれ自体ものすごい価値をもつようになってしまっていることとかかわっているというわけですね。 アメリカなんかは、「自由」のために、他国をぶっつぶすことまでやってしまうわけです。 本当は「自由」なんてそんなたいしたもんじゃない、というのが佐伯の批判です。 また、『自由とは何か』の冒頭では、「自己責任論」批判にひっかけて、市場主義的な自己責任論にたいして厳しい批判をあびせています。 イラクの人質事件がおきたとき、2chとか論壇・政界の一部で「あいつらは危険なのを承知でイラクにいったんだから自己責任なんだ。国が助ける必要はない」という議論がありました。しかし、佐伯はそれに違和感をもつんです。 〈ではこの事態における、国家の論理とはなんだろうか。それは、国家は国民の生命や財産の安全に対して責任を持つ、という論理にほかならない。これはとりわけ近代国家に関しては、国家もしくは政府の成立根拠にかかわってくる事柄である〉(佐伯『自由とは何か』p.26) こういう「自己責任論」の淵源は90年代の経済構造改革にあったと、佐伯はいいます。そして、そこで吹き荒れている「自己責任論」についてもこう述べるわけです。 〈新規事業を次々と試みて失敗したとしても、政府がそれにまったく救済の手を差し伸べないとなると、よほど資金に余裕のある者でなければ新しい事業は起こせないであろう。また、市場競争は、どうしても勝者と敗者を生み出す。倒産企業や失業者という「敗者」が多量に発生したとしても、政府がそれに関与しなければ、結果として市場経済はきわめて不安定になるだろう〉〈現代の市場社会においては、政府は、人々の最低限の生活保障に対する責任を負っているのである。しかも、もしその責任を放棄すれば、市場そのものが崩壊しかねない。こうなると、本来の経済活動の自由も何もなくなってしまうだろう〉(前掲書p.37〜38) もうあまり細かく議論を負うのはやめますが、佐伯はPHP新書で「幻想のグローバル資本主義」というテーマで、『アダム・スミスの誤算』『ケインズの予言』という上下セットの本を出しています。 ここでは、スミスが新自由主義の始祖のようにとらえられたことを誤解だと主張し、またケインズの国民経済主義者としての積極的側面に光をあてようとし、そのことを通じて新自由主義的な「グローバル資本主義」批判をおこなっています。 ここには藤原が1.と2.で主張していることの中心論点が、もっと学問的に装飾された形でほとんどつまっています。 エリート待望論とニーチェ ついでにいっておけば、藤原は民主主義は衆愚を生み出すからそのシステムにはちゃんと物事をわかっている「真のエリート」が必要なんだ、という議論を展開しています。 これは、佐伯の『人間は進歩してきたか』の最後にニーチェを紹介してくることに符合しています。 佐伯のニーチェ理解というのは、こうです。もともとは「高貴」なものが善、「卑小」なものが悪だとはっきり決められていた、あるいは優劣が善悪だった。強い者や優れた者が価値の基準をつくりだし、弱い者がそれにしたがっていたのだが、平等とか民主主義などというのはその弱者のルサンチマンが爆発した「道徳上の奴隷一揆」にすぎない。……とまあこのあとくだんのニヒリズムにまで話がいってしまうのですが、エリートを待望する藤原の議論は、ニーチェの民主主義憎悪と奇妙に一致していることに気づくでしょう。 ジャンクな武士道精神の称揚 さて、ぼくたちは、このような藤原=佐伯的な保守主義の議論に、どうつきあえばいいのでしょうか。 ぼくは、正直いって藤原の3.と4.の部分は、それこそゴミのような議論でしかないと思います。もちろん個々部分的には拝聴すべきものがありますが、それを「日本特有」の情と形、そして「武士道」などというものにまとめてしまった段階で、もういけません。 ![]() 藤原はこう言い訳しています。 〈新渡戸の武士道解釈に、かなりのキリスト教的な考えが入っていることは確かです。それが、元々の鎌倉武士の戦いの掟としての武士道とはかけ離れている、との説も承知しております。しかし、大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、「武士道精神」を取り戻すことです。少なくとも、新渡戸の武士道は、私が幼い頃から吹き込まれていた行動基準と同一です。多くの人々も同じ思いを持つと思います。その意味で、近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです〉(藤原『国家の品格』p.122) 藤原が言及しているように、元々の武士の倫理においては、軍事的に相手に勝利するために非道なリアリズム(たとえば「嘘をつかない」というのは道徳的な発想からではなく、真実にもとづいた判断をしないと戦場では死ぬから)が求められていました。そこにあるのは、徹底した実力主義です。 〈武士の実力は、基本的には、リアルな物質的な力の総合にある。現実に己の存亡を懸けている現場にあっては、そのことを単純に否定するような妙な精神主義の入る余地はない〉(菅野覚明『武士道の逆襲』p.55) これは藤原の教える〈徹底した実力主義も間違い〉(藤原p.25)とか「(反)卑怯」とか「惻隠(そくいん)の情」とかいう話とはまったく別の次元、つうかまったく逆のものだということはすぐおわかりになるでしょう。 長い間の日本人の心、ココロ、などと藤原が言っているわけですが、長い間に武士が保持していた軍事的倫理とは究極の実力主義と冷徹なリアリズムなのであり、そのことが藤原の議論ではまったく説明不能になってしまうのです。 仮に、藤原のいうように、「近代武士道」が日本的精神の具現だとしましょう。それほどすばらしい精神を持っていた国がなぜあんな大間違いの大戦争をはじめてしまったのでしょうか。藤原は〈武士道精神は戦後、急激に廃れてしまいました〉(p.119)とのべていますが、だとすれば戦前まではそのような精神が横溢していたわけではないでしょうか。 藤原はこれについても苦しい言い訳をしています。いまの引用箇所につづけて、 〈武士道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実はすでに昭和の初期の頃から少しずつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋事件以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです〉(p.120) とのべています。武士道にひっかけすぎるので、こんな笑いものになるようなことを書いてしまうのです。 「歴史や伝統の中に知恵がある」という主張 では、藤原=佐伯のいっていること、保守主義の主張、もっといえば、田舎のおっちゃんたちの言っていることに、聞くべきものは何もないのでしょうか。 ぼくはそうは思いません。 佐伯は、朝日新聞のインタビューに答えて次のようにのべています。 〈欧州の保守主義は本来フランス革命の反動として生まれた。それは、進歩の思想を疑う。ものごとを理性的に設計し、伝統を壊して社会を計画的に革新するという発想に疑いの目をむける。むしろ歴史的に形成され、伝統として守られてきたものの中にこそ知恵があるという考え方だ。緩やかな階級的社会秩序や、オーソドックスなものの権威を大切にする。家族やコミュニティー、そして国家を重視する〉(同紙06年9月27日付) 〈本当の意味での価値観とは、自由や民主主義の奥にあって、それを支えている国民の精神だ。米国の場合であれば、入植者のプロテスタント的な使命感であったり、建国者の共和主義の伝統であったりする。言ってみれば、「魂」のようなものだ。その部分にあたるものが、いまの日本では見失われている。保守主義は本来、それを一番大事にしなければならない。戦前の精神的価値をそのまま復興するのがいいとは思わないが、宗教観にせよ、歴史観、死生観にせよ、古代からの日本の歴史から取り出してくるものがあるのではないか〉(同) 長く社会で息づいてきたものというのは、それなりの必然性を持っています。それが因習だという側面はもちろんあるのですが、同時にそこに潜む、ロジック(形式論理)ではわからない必要性や有益性もあって人々に使われてきたわけです。だから、にわかに人間が薄っぺらな「合理」で「設計」したものよりも、古い歴史や伝統の中には信頼すべき知恵があるんじゃないか――これには一定の説得力があると思うのですが、いかがでしょうか。 もちろん、この“原液”だけをとりだしてくると、いろんな“危険物質”がふくまれていてとてもそのまま飲めないわけですが、藤原の考えもふくめてこのなかにある「傾聴」すべきことは何なのか考えてみましょう。 左翼と保守主義者の共同にむけて ひとつは、「論理」の限界ということです。 たとえば経済で「数学」をよく道具として使います。それで社会動向を見定め社会政策をつくったりするわけですが、それはまさにロジックで構築される世界です。しかし、そもそも数学という論理学は、いくつかの条件を厳密に設定したうえで成り立つものであり、それを忘れて汎用するとものすごい間違いをしでかすわけですね。藤原がいうように、ロジックを積み重ねていったら度外れたところへ着地してしまうのです。 形式論理学を批判し、もっと矛盾や変化というモメントをおりこめないかと考えたのがヘーゲルだったわけで、マルクス学徒であるぼくは、その立場から「論理」批判をおこないたいと思います。 そしてそれとは別の立場からのアプローチは、保守主義的心情からの批判なのです。つまりロジックじゃなくて、まず前提に、普遍的だと思える感情や道徳観をおいてみるのです。そして、論理を重ねていくさいにも、たえずそういう「心情」から点検してみるのです。 藤原は、〈仮に彼が出発点Aを誤って選んだとする。もちろん後の論理は絶対に間違えない。すると、後の論理が正しければ正しいほど、結論は絶対的な誤りになります。あまり頭が良くない人なら、途中で論理が二転、三転して、最後は正しい結論に戻ったりもしますが、下手に頭が良いとそのまま行ってしまう〉(藤原p.53〜54)とのべていますが、その〈頭が良くない人〉というのは言い換えれば、ロジックではなく、理屈ではない心情によってたえず点検をする人のことだといえます。 そして保守主義の主張で聞くべきもう一つの点は、いま少し述べましたが、〈歴史的に形成され、伝統として守られてきたものの中にこそ知恵がある〉という発想です。 ぼくがめざしている共産主義というものは、何か社会を外側からデザインするというものではありません。そういうものは怖いし、いかにも早急に破たんします。社会の中に根づいているものを生かすことによってしか社会は変わらないとぼくは思います。 ヘンな例で恐縮ですが、たとえば葬儀について。 人間の死を、たんなる「土に還る」プロセス、すなわち「物質化」にすぎないととらえるなら、葬儀も墓もいらないでしょう。いやそこまで極端でなくてもたとえば読経という習慣、初七日や十三回忌とかいう法要は実に不要なもののように思えます。 すべてとっぱらってしまう葬儀「設計」もできるわけです。 しかし、前にも紹介しましたが〈仏式では、読経をきっかけにみんなが集中できます。経の意味はわからなくても、あの音楽性に身をおくことで精神も高まるのではないか。焼香があるから故人と一対一で別れを告げることができる〉(柿田睦夫『現代葬儀考』p.43)のです。また、初七日や十三回忌とかいう法要も〈残された者が、故人をしのび、その死を受容し、日常生活を取り戻す。そして新しい生活をつくり出していく。そんな一つの過程を遺族に促す、先人の知恵〉(同p.39)だといえます。 今あげた例はずいぶんプラグマティックな「ロジックと伝統の代替」の話ですが、別の例をあげましょう。戦後社会の価値観についてです。戦後の終身雇用・年功序列制度によって守られてきた「汗をかけばそれなりの生活が保障される」という美徳は、「努力すれば報われる」という「伝統的価値」に合致しているといえます。いや、もう少しいえば「助け合うことで、三年寝太郎みたいなやつでも、だれであってもそれなりに生きていける」という社会の基準といってもいいでしょう。 新自由主義はそれをロジックの側から批判するわけですが、この美徳を無条件に大事にしてみることが実は社会をいいものにしていくかもしれないのです。 とくにぼくは、日本人、なかでも田舎の保守のおっさんが高度成長期を中心とする戦後社会を「あの頃はよかったなあ」と思ってふりかえる心情のなかにはそのようなものがつまっているのではないかと思います。 佐伯は先に引用した朝日新聞のインタビューのなかで、安倍政権がこのような欧州タイプの保守主義と、米国流の保守主義を〈ごちゃまぜ〉にしている、と指摘しています。 佐伯によれば、米国流の保守主義とは〈自由な市場競争の促進であり、個人の自己利益の重視〉であり、〈小泉流構造改革〉がこれに近いとしています。いわば新自由主義といってもいいでしょう。〈これでは、公的な精神の発揮を重んじ、私的な利益追求を抑制する本来の保守主義からはかなり離れてしまう〉というわけです。 つまり、安倍政権はこの「二つの保守主義」に股割きされているというのが、佐伯の安倍政権解釈なんですね。まあ渡辺治あたりにいわせれば、その2要素は互いに補完しあっているのだ、とでもいうでしょうが、哲学的にみると、あるいはスタティックにみると、佐伯のいっている区分は間違っていないのです。 ぼくは、この欧州流保守主義の契機のなかには、非常に表面的にいえば新自由主義批判がふくまれていますし、それだけではなく新たな社会を構築していくうえで、考えるべきものがふくまれていると思っているのです。 たとえば、さっきあげたような「努力すれば報われる」的な戦後経済がもっていた価値観がそれです。 また、商店街や地域社会を維持する、などというのもここにふくまれるでしょうね。福島県では大型店の出店を規制し、地元の人たちが話し合いながらまちづくりをすすめていくという条例をつくりました。 http://www.zenshoren.or.jp/chiiki/oogata/051024/051024.htm これはまさに、「自由」な資本の活動を規制し、コミュニティや地域社会を維持しようというものであり、ここでは左翼も保守も共同しているわけです。 実は政治を革新する芽というのは、このようなところにあるのではないかとぼくは常々思っています。 自由や民主主義という「形式」あるいは「手続き」あるいは「論理(目的にたどり着くための水路)」の役割は重視ししつつ、(1)その「形式」をつかってぼくらが実現すべき「価値」を歴史や伝統の中に学ぶこと、また、(2)「論理」「手続き」「形式」にたいしても、論理では説明がつかないけども何となく大事だなと思える価値観や心情の側からたえずチェックしてみること――これらがいま保守主義から学ぶべきことかもしれません。 おそらく保守主義そのままでは左翼は手をくむことはできません。しかし、左翼がもっと保守主義的な身振りをしながら、「田舎の保守のおっさん」も飲めるような提案に自由自在に変化をとげていくなら、そこに新自由主義をハネかえす共同の契機があるようにぼくは感じています。 |
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