萱野稔人『国家とはなにか』




『国家とはなにか』 マルキストであるぼくは、本書を読んでいるうちに、マルクス主義のなかでこの問題(国家)が論じられてきた経緯を思い出した。

 まあ、マルクスがどうしたエンゲルスはそれとはちがうとかいう話はおいといて、マルキストの陣営のなかでだいたい雑駁に言ってどんなことが言われてきたのかをおっかけてみる(むろん、本書はそのような本ではない。本書からいったん離れて最初にそういう作業をしてみるということだ)。


マルクス主義陣営近辺での国家論の流れ

 さいしょは、「国家とは暴力装置であり、支配階級のための道具である」というふうにみなされてきた。乱暴にいうと、支配階級が棍棒をもって、被支配階級をなぐりつけて言うことをきかせようとするのが国家権力であり、それが国家というもののコアだと。なんか社会の調停役のような顔をしているけど、実は金持ちのために働いてるんだぜ。

 つまり〈実体〉としての国家というイメージである。

 だけど、20世紀になってずいぶんと様子がちがってきたようにみえた。
 労働者階級が世の中の多数になったけど、多くの労働者は戦争に賛成するようなやつらを支持したり、はなはだしきはヒトラーのようなやつらを支持しているではないか、と。
 もうすこし時代がくだっても、いっこうに資本主義が崩壊する様子もない。
 それどころか、民衆が「支持」さえしているのは、これいかに。

 勉強会とか開くと、「なんでみんな自民党なんか支持するんでしょうねー。国民はバカなんでしょうか」とか「石原があんなに票をとるなんて……。都民というのは一度痛い目にあわないとわからないのでしょう」などとなげく人がいるけど、その問いの核心にあるのは、「なんでみんないまの政治支配を支持しつづけるの? どうしてこの不合理が維持されてるの?」ということなのだ。
 とくにここでは、イデオロギーということ、もっといえば人々が政治支配を支持する「脳みそ」のなかがナゾとされて、ヘゲモニーとかイデオロギー装置とか、支配=従属とかそういう「支持調達」のしくみが問題となった。

 つまり〈関係〉としての国家というイメージがクローズアップされてきたのだ。

 さっきしゃべった〈実体〉としての国家、「棍棒国家」みたいなのはだんだん分が悪くなってくる。
 ディミトロフ(コミンテルンの活動家)がファシズムを定義したときも「金融資本のもっとも凶暴な分子によるテロ独裁」だったし、「資本主義がもうもちこたえられなくなったので、国家が介入するようになってかろうじて維持しているのだ」というのがソ連流の戦後資本主義論(国家独占資本主義論)だったわけだが、これらは「棍棒国家」論の延長線上にある。

 「なんで民衆がファシズムを支持したのだろう?」「なんで民衆は福祉国家を支持したのだろう?」――そういう疑問にはこたえられないとみなされて、人気がなくなった。
 クラシックなマルクス主義を硬直化させたのがソ連だったので、〈実体〉としての国家を強調する議論はソ連の学説っぽくみられてしまう。

 おまけに、ソ連がスターリン主義をへてからはいっそう人気がなくなったし、そもそも「無階級社会」だというふれこみのはずのソ連でいちばんひどい国家暴力がおこなわれ、スターリン体制が維持されてきたことから、「経済階級に従属した国家」(その裏返しである「無階級社会ソ連における国家の漸次的死滅」)みたいな見方はもう流行らなくなってしまった。
 かわりに国家一般というものを論じ、国家が持つ自立/自律性を強調する議論のほうが力をえてきた。

 だから、ひじょうにおおざっぱにいうと、〈実体〉としての国家イメージから、〈関係〉として国家をイメージする方にうつろい、経済の下女としての国家イメージから、国家というものの自立/自律性に目がむくようになっていったというのが、その変遷である。これはマルクス主義だけでなく、その外側でも似たような流れがおきていた。

 だから〈関係〉としての国家を論じる人々のうち、はなはだしきにいたっては、実体性を完全に否定し、幻想とかイデオロギーとかそういうことだけで国家を論じるようになる人が出てくる。身体とかなんだとかいろいろあるけど、とにかく個人の脳みそのなかで生まれる縛りやこだわりのようなものをメインに国家を論じる人、フーコーやアルチュセールをそのための説明に使う人も出てくるのである。主観的観念論とはレーニンが言ったように、根も葉もない「デタラメ」ではなく、一面性の骨化だ。まさにその見本のような議論がこれだといえよう。

 基本的な、あるいは根源的な概念を論じようとすれば、対象となる事物が多面的で発展的であるということにすぐ気づく。あれかこれかではないのである。
 当たり前のことではあるが、国家とは実体でもあり関係でもある
 そして、経済に究極的に規定されつつも、ふだんは相当に自立/自律した動きをしている、というのが国家の姿である。
 いわば、論争になっているすべてをモメントとしてふくんでいるのが国家なわけである


「運動としての国家」という規定はあまりうまくない

 で、いよいよい本書なわけだが、筆者である萱野が、イントロダクションで、

「国家についていえば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも人々のあいだに打ち立てられる関係なのか、と。/しかし国家は実体でもなければ関係でもない。では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家はひとつの運動である、暴力にかかわる運動である、と」

といっているのは、〈実体〉もしくは〈関係〉という一面性を回避しつつ、死んだ静態の定義ではなく、動態のうちにとらえようとする規定であるが、ぼくにいわせるとあまりうまくない
 ふたつのモメントを包摂しているというほうのが、よほどしっくりくる。
 しかしそれでは芸がないので、萱野はこう規定したのだろう。
 実際、本書を読んでいくと、萱野はいたるところで国家を、変容し動きつづける「運動」として描こうとしているが、古典的なマルクス主義の謂いでいえば、「あらゆる事物は、たえまのない変化・発展という運動のうちにある」ということなのだから、萱野はその当たり前の側面を言ったにすぎない。
 〈実体〉もしくは〈関係〉という一面性を超越しようとして、気の利いた言い回しにこだわりすぎたのでは、と思う。「運動」という規定は、後を読んでもそれほど効いていないというのがぼくの実感である。


〈実体〉としての国家に重きをおいたことが立論の強み

 いきなりケチつけをしてしまったのだが、萱野のえらいところは、まずウェーバーに依拠して国家の核心を、暴力にかかわる実体だと規定したことにある。正確にはこうだ。


「国家とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」

 以後、萱野は国家を実体的なものとしてとらえ、暴力というものを国家の根源におきつづけて、論をすすめていく。たとえば、主権を超越的な審級の成立という「形式」の面からあつかおうという議論に対しても、“おまえら、暴力という点からみることをすっぽり抜かしてるよ”と批判している。

 同時に、萱野は、想像的なもののはたらきとか、国家がもつ〈関係〉についての側面に正しい注目をはらいながら、実体的なものからそれていこうとする議論を手厳しく批判する。

国家を構成されたフィクションと見なすことは端的な誤りである。国家を共同体とむすびつける発想と同様に、それは、国家をなりたたせているフィジカルな運動を捨象してしまっている」(p.145)

 それで、アルチュセールやフーコーの議論を、言説や表象の問題に還元しようとする傾向に警告し、“そもそもお前らがフーコーやアルチュセールを読み間違えているのだ”というのである。
 別の箇所ではフーコーの規律権力論の支配的通釈についてこう批判している。

「フーコーの規律権力の概念を、たんに従順で有用な身体をつくるという働きにおいてのみとらえることはできない(そうした解釈が支配的だが)。さらに、それは、暴力の組織化のあり方を変更するような働きにおいてもとらえられなくてはならない。フーコーの権力論は、暴力のレジームがどのように歴史的に変容してきたかという問いと切りはなせないのである」(p.223〜224)


 ぼくは、萱野が国家の実体性を基底において、そこから関係的なものを論じていこうとする態度に賛成する。どれほど〈関係〉的なものが大きな比重をしめようとも、〈実体〉という根源を捨て去ることはできないし、それを忘れるところにさまざまな実践的謬論が生まれる温床もある。

 そして萱野の立論の流れを追っていくと、マルクス主義の内外でおきてきた国家論の変化に対応している、というか、よく似ているということに気づく。
 それを追うことで、萱野が体系だてた国家論は、国家論がモメントとしてふくむべきものをすべて包摂することになり、結果的に普遍的でかなりよくできた国家論体系が簡潔にしめされることになったのではないかと、古典的なマルキストであるぼくでさえそう思うのである。


国家の自律性の説明について

 古典的なマルキストとしてちょいと気になるのは、「国家の自律性」を前面にした解明だ。

 萱野は、人々から富をかっさらうための暴力の蓄積が国家であり、資本主義になってからは資本の運動をなめらかにさせて富を流れ込ませる方が効率的なので、その下女であるかのようにふるまうのだ、というむねのことをのべている。

 ぼくからすれば、前資本主義の時代というのは、たとえば戦国大名みたいなのがくっついたり離れたりしてミニ国家をつくり、そこで暴力をつかって富を集めていた(経済外強制による搾取)。経済的な支配階級がそのまま国家を運営していた。近代になってからは、「支配階級は支配しない」といわれるように、個別資本の観点からは離れた総資本の立場からの国家運営階層が国家運営をおこない、資本の運動をスムーズにさせるために独自の論理で独自の活動をしてきた。そもそも「支配階級の道具」というほどのべったりさで奉仕するように動くのではなく、近代以後は総資本の立場で、個別資本の狭い枠をこえた視野で動くようになった、そこから国家の相対的な自律性も生じるのである。

 だとすれば、萱野のいっていることと、ぼくの考えていることは、それほど隔たりがあるわけではない。(いや、萱野よりおれのほうが先に言っていたという意味じゃなくて、立場が違っても、論争になっているモメントをすべて包摂していけば普遍的なものができあがり、それは結句、似てくるという意味である)

 左翼仲間と話していて、なんでもかんでも政治の行動を経済還元主義、あるいは経済決定論とでもいおうか、経済に従属させて説明だてる人がときどきいて、こういう論法が、マルクス主義を誤解させてしまうのだろうと思う(イラク戦争の原因を直接石油資源取得にだけ求めようとする説明など)。

 柄谷行人が8月7日付(2005年)の朝日新聞で本書の書評をしているが、そこで想定されているのはクラシカルな「マルクス主義」、というより、ソ連流の硬直化した「マルクス主義」である。柄谷はソ連流の硬直化した俗流国家論を意識しながら、それとの対比で萱野の国家論を紹介していくのだ。経済決定論、国家の相対的自律性の否定、ソ連=無階級社会論などだ。狭く規定して否定する、というよく見るやり方である。だが、それはぼくからいわせれば、マルクス主義ではない。

 こういうドグマを捨ててみれば、萱野の主張する国家論の体系は、マルキストであるぼくの国家観とあまり違う輪郭をもっていないと思うのである。
 しかも、ぼくが、そして古典的なマルクス主義の流れをくむ人々があまり解明してこなかった、想像的なものやイデオロギーなどの働きとか、レイシズムが国民国家のなかで果たす役割とかを、萱野がカヴァーし、その体系のなかに位置付けていることは、もっと見習うべきことだろうと思う。つか、ぼくがあまり知らないこの領域についての解明がかなりの量をしめているので、「輪郭が似ている」などということは非常におこがましいのであるが。


 だいたい似ている――これが重要である。

 あとは細かいことなのだ。
 最初にいったように、国家という基本的で根源的な概念は、あまりに多面的なものをもっているから、その諸側面をどれくらいの比率で強調するかということは、どうでもいいことなのである。
 余談だが、文系学者とは博識ゆえに広い視野と深い世界像を彫琢できることに存在意義がある。そうやってできた世界像は、流派がちがってもだいたい似通ってくるもので、大雑把でもどれだけ深い、またはあらたな世界像がしめせたかが重要なのだ。
 その体系の枝葉末節にこだわって論争をすることは、その世界像を硬直化させる作業であり、歴史的にみれば不毛な作業で、それに一生を費やすことは人生を浪費することであろう。



細かいこと3点について

 といいつつ、最後に細かいことを3つばかり。

 ひとつは、読み方。
 本書は、理論的・原理的な考察をあつかう前半と、歴史的なものを扱う後半とにわかれている。前半で国家を原理的に考察し、後半で実際の歴史にそくして国家をみる(といってもあくまで原論風であるが)。その間に、方法的な考察がはさまれている。
 前半の理論的な部分も、たとえもふくめてひじょうに平易にかかれていて、概念の整理がきっちりされているのだが、あまり国家論になじみのない人(ぼくもそうである)は、概念を使うことにそもそも疲れてしまうかもしれない。権力と暴力のちがいを話すあたりは、初心者には少しうんざりするだろう。
 だが、それを少し辛抱してていねいに読んでいくと、3章くらいからはかなり楽になる。後半の歴史的(系譜的)なものの部分は、現実の身近な国家の行動や歴史が解明されていくので、ずいぶん楽しんで読めるだろう。

 ふたつめは、ラストのマルクスに言及している部分。
 萱野はドゥルーズ=ガタリに依拠しながら、「はじめに経済ありき」というマルクスの立場をひっくりかえして、まずはじめに暴力ありきとぶちあげる。エンゲルスがデューリング批判でやったのにたいする、正面からの反対である。
 このあたりは、読んでいて根拠がないではないかとか、すでにマルクス主義が批判してきたことばかりではないかと不満に思いながら読んでいく箇所である。「税が貨幣を作り出す」というドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』の引用があるのだが、日本では全然作り出さなかったじゃん、などという個別事象をめぐる批判が頭をもたげてしまう。

 みっつめは、ホッブズの解明の新鮮さ。
 ホッブズの「各人の各人にたいする戦争」という「自然状態」の設定は、頭のなかで捏造されたひとつの抽象であり虚構である、という通説は、まちがっている、という指摘である。

「ホッブズが考える自然状態とは、アトム化した諸個人がたがいに対立しているといった状態ではなく、むしろ、人々が離合集散をくりかえすことで、暴力の組織化が流動的になされる状態である」(p.163)
「ホッブズのこうした記述は、むしろ具体的な歴史状況を描写するものとして読まれなくてはならない」(p.164)

 たとえば、戦国時代とか、豪族の連合で大和朝廷ができるとか、領邦国家の統一で国民国家ができるとか、そういう話として読むべきだという意味だろう。
 このように、ホッブズが虚構ではなく歴史的説明として読める、という解釈は(ひょっとしてよくみかけるものなのかもしれないが)少なくともぼくにはたいへん新鮮だった。






以文社
2005.8.21感想記
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