『心を育てるマンガ 親子で楽しむ130冊』



 ときどき(つか毎日)のぞかせてもらっている漫画研究家・伊藤剛のブログ「伊藤剛のトカトントニズム」で、漫画評論家である石子順のことが紹介されていた。伊藤本人による評価というより、石子順という評論家が世間でどう扱われ、どう評価されているかを、メモ的に紹介したものである(だからこの感想文自体も伊藤批評ではなく、石子順についてのぼくなりの思いなのだ)。

 ちなみに、石子順は、石子順造のことではない。
 ぼくなどは、学生時代にまず石子順の評論をあるていど読んだので、石子順造の名前を聞いたとき「あ、石子順のマネだ」と思ったものである(笑)。



ぼくの石子順体験

 はじめて石子順の評論に出会ったのは、漫画評論でなく、映画評論のほうであった。しかも全学連が出した石子順の単独著作で、『戦後映画の主人公たち』という作品評論集であった。
 実はその本は、ぼくのその後の感想文のスタイルに影響をあたえている。
 まず、わかりやすい。戦後映画とか独立プロとかに素養がない人でも、すっと入れる。そしてわかる。その映画を観たくなる。くわえて、別にその映画を観ようと思わなくても、評論自体がえぐり出している人物像や世界観の叙述が面白く、文章としてよくできていたのだ。ぼくは、学生時代愛読して、なんども読み返した(ぼくがいま石子順のような文章を書けているという意味ではない)。
 漫画評論にしても、しばらくのあいだ目にしたのは石子順のものしかなかった。
 漫画というものをわざわざとりだして論じるという行為を教えてくれたもののひとつは、まぎれもなく石子順の評論だった。

 その後、石子順以外の評論家がたくさんいるのだということを知った(当たり前だが)。
 ぼくが石子順の評論から少し距離をおくようになったのは、きらいになったとか、他の評論が面白かったということではない。
 漫画表現の多くが欲望についてあつかっているにもかかわらず、石子順の評論は、そこへの言及が弱いと感じたからだ。現在の石子順は「子どものための良質な漫画を選ぶと」いう運動的視点が先行しているからこれはまったく別次元の話としてわきにおいておくとしても、昔の評論などを読んでも「読者の欲望につきあって、とにもかくにも一旦はいっしょにまみれてみる」という観点があまりない。

 ぼくは、そこに不満が残ったのである。

 資本主義日本のもとにあって、漫画表現は商業的成功をかちとるために、性や暴力の煽情という形で、ある程度現れることになる。「そのことに批判的であるべきではないか」という主張はわかるが、そうやって忌避していったあとには、ずいぶんとやせほそった「正しさ」しか残らないのではないかという危惧がある。これは戦後民主主義が「善」の体裁をとり、根幹にある主張は正しいと思うのに、ずいぶんと痩せたり杓子定規のように見える問題と重なっている。

 さて、それで伊藤によれば、石子順はどうあつかわれているのか。
 「現在では顧みられることのない『マンガ評論家』」「ほぼ誰も参照していない」――これが石子順の漫画批評界での扱いだという。
 伊藤によれば、呉智英によって酷評され「代々木の森のコウモリ」などと罵られたことが、こうした黙殺に端を発しているようである。
 ただ、ぼく自身はそれらが事実かどうかは確認していない。石子順が手がけた手塚治虫インタビュー本などを、他の評論家が参考文献としてあげているのは見たことはあるが、本文中で石子順の評論を参照しているのはまだ見たことはない。



この本で石子順が展開している思想と運動

 石子は「共産党/日教組系左翼の良識」にぴったりよりそい、そのもとで漫画を排斥しようというPTA的良識と両立させようというアクロバティックな行為をしようとしている――と伊藤は指摘する。漫画は低俗なものである、という攻撃の裏返しとして、石子順は漫画は良質な文化であるとし、批判されるべき漫画の要素をあげている、という。「生命の軽視」「性の暴露」などを石子順はリストアップしている。

 さて、ようやく本書『心を育てるマンガ』に話がうつるのだが、この本は1999年に日本子どもの本研究会マンガ研究部が編んだもので、鳥越信・古田足日・代田昇などを中心にして発足した会の、一部会である。石子順は本書の編集委員をつとめ、巻頭の論文「漫画力との出会い 漫画で子どもが元気になる」を執筆している。
 この本は、子どもたちに良質な漫画を伝えたい、という思いで、研究会で討議されたりした漫画130をリストアップしたものだ。

 まず、どんな本がリストアップされているのか。
 巻頭の石子順論文に「三十余年漫画とつきあってきてよかったと思うものとして、『手塚治虫こそ、もっとも強烈に漫画力を発揮し、子どもたちに未来に生き抜く力をアピールしつづけた子どもの味方である』と言い切ることができるのである」とあるように、手塚の作品は重視されている。
 それ以外の漫画は年代別に区分けされており、まったく任意に、本をいまバッと開いたところをここにあげてみよう。

・柊あおい『耳をすませば』
・青山剛昌『4番サード』
・榛野なな恵『Papa told me』
・ちばてつや『おれは鉄兵』
・山本おさむ『わが指のオーケストラ』
・佐々木倫子『動物のお医者さん』
・北条司『少年たちのいた夏』(原作/二橋進吾)……

 それぞれの作品には700字程度の解説がついている。高橋留美子『犬夜叉』を紹介するくだりには次のような解説がつく。

「冒険スペクタクルは、この作者が得意とする分野で、迫力ある画面にぐいぐいと引き込まれる。ともすれば殺伐とした日々になりそうな戦国時代に、現代っ子のかごめがポテトチップスや缶ジュースを持っては現れたり、犬夜叉が照れつつもかごめを妖怪から守るなど、ほのぼのとする場面にホッとさせられる。/犬夜叉の腹違いの兄との葛藤あり、父の仇討ちに命をかけるコギツネとの出会いありと、ただの活劇には終わらせない悲哀がある」(和田美信)

 リスト化の方針は、「過激な暴力や性の描写のあるもの」「一過性であるもの」は避け、「繰り返し読んでも面白いと思える作品」を選ぶことである。



なぜ石子順のような運動をうめる動きがないのか

 ぼくは端的にいって、“子どもたちに良質の漫画を渡したい”というこの運動そのものは、たいへん重要なものだと考えている。

 この種の運動が、漫画研究家や漫画評論家などからあまり熱心に聞こえてこないことを実に不思議に思っていた

 教育とは、いまの世代が次の世代に「良質」と考えている価値をうけつがせようとする営みだとすれば、漫画という文化のうち、今の世代が「良質」だと考えているものを選びだして渡そうとする営為は、ある意味で当たり前のものだ。つまり継承すべき価値をクリアにして、価値に上下をつける行為は、「教育」の機能としては当然のことだとぼくは考える。上の世代たる親がそのなかから「過激な性や暴力の描写」を排除し、「友情や愛情、平和」などの価値を手渡したいという気持ちもわかる。
 しかしそれは逆に「漫画=悪書」という時代の教育も肯定することになるのではないか、という問題をどう考えたらいいだろう。

 第一に、ぼくは「漫画=悪書」だとしたこと自体は、主張そのものには賛成しないにせよ、漫画を価値評価したことは教育の側が主張しうる権利であったからやむをえないものだったと考える。教育とはそのようなものだ。
 第二に、しかし、そこでおこなわれた「禁止」「規制」という教育の具体的形態は、批判されてしかるべきだろうと思う。2005年5月20日付の朝日新聞の生活欄「家族で話そ!」のコーナーで「どんなマンガがいいかな? 『学習モノ』望む親 悪書扱い今や過去」という特集が掲載された。その叙述にしたがえば、1950年代には漫画が校庭で焼かれたという。『心を育てるマンガ』のなかでも、80年代中葉においても依然学校で漫画が生徒の目の前で焼かれたという事実を記述している。そうした学校の先生たちは「本を焼く者はやがて人を焼くようになる」というハインリヒ・ハイネの言葉をおそらく知らなかったに違いない。

 朝日新聞のその特集の中で、京都精華大学のマンガ文化研究所・吉村和真研究員は次のようにのべている。

「マンガをめぐる親子関係は、歴史的にいつも教育がらみだった。『読むな』という時代じゃなくなったので、今は『これを読め』。規制という意味では同じなんです」

 この点で、石子順をはじめとするこの研究会がとっているスタンスは次のようなものである。

「子ども達が読んでいるマンガをどんなことがあっても禁止してはならない。禁止するのではなく、どんどんマンガを紹介し、子ども自身が読みくらべ、自分にとって価値あるマンガを選びとっていく、そんな選択をしてもらいたい」

 冒頭に掲載されたやなせたかしのインタビューにも同趣旨の話が出てくる。どんなマンガを子どもに読ませるべきかという問いに、やなせは、「これは子どもが選ぶんだからしょうがないですよね。子どもが勝手に選ぶ」と答え、むしろ取捨選択する機能は出版側が働かせねばならないとする。インタビューで、幼児を相手にする世界では「作家固有のファン」が存在せず、面白いか面白くないかという苛酷な――しかしやりがいのある――試練があると、やなせがのべているのは、その精神に通ずる。
 

 石子順らの基準は「狭い」のではないか、という批判があるかもしれないが、ぼくはこれを教育的運動の観点からみるならば、十分に説得的なリスト基準であると考える。
 また、石子順らが採用した方法をとれば、子どもたちは玉石混交、さまざまな漫画を手にしつつ、親たちの世代が何を「良質」と考えているかというメッセージを受け取ることができる。この方式をとると、親の側も通り一遍のリストをつくって事足れりと安住しているわけにはいかなくなる。そこでは、子どもたちを興奮させる漫画たちからたえず挑戦をうけるからである。リストが化石のように見向きもされないものになってしまっては元も子もない。



親や教師の苦労がわかる「漫画の受容」

 実際、『心を育てるマンガ』を読むと、そのあたりの苦闘が手にとるようにわかる。

 たとえば、本書の執筆陣のひとりに小学校の先生もいるのだが、落陽子の「マンガは学校図書館になじまない? 子ども達に良いマンガをもっともっと」は、学校図書館にマンガがどのように受容されていくのかの、私的小史である。

 1975年ごろ『ブラック・ジャック』『火の鳥』『はだしのゲン』を入れると、子どもたちが押し寄せたが、他の教員からクレームがつき職員会議で討議することに。「血が出るシーンが多い」「暴力シーンがある」「形態が悪い」などの議論に、落が一つひとつつきあっていく。この結果、『はだしのゲン』はよかったが『ブラック・ジャック』『火の鳥』は×という結果になった。
 「年月が過ぎ」ようやく手塚も学校図書館に入るようになる。しかし、こんどは親からの苦情だ。「最近の中学校はマンガばかり貸す」「こんなマンガも入れるんですか」。
 この時点でも手塚の『きりひと讃歌』はまだダメだったという。「ラブシーンが刺激的」「モンモン病がネェー、ちょっと考えさせてください」。
 このような苦闘の末に、学校図書館にようやく漫画が並ぶようになったわけである。(最近の小学校の先生数人に取材したが、「今は漫画を排斥するなんてことはありえませんよ」とのことで、むしろ昼休みや読書の時間に熱心に手塚や学習漫画を読みふける光景が常態だという)

 また、やはり本書に所収されている幼稚園教諭である和田美信の「マンガの流行と子どもの生活」という一文は、80年代から現在にいたるまでの、自分の幼稚園でのマンガの流行と子どもの生活の変遷を追ったものだ。
 『キャプテン翼』や『ドッジ弾平』に子どもたちが熱狂し、進路まで変えていく様を描写しつつ、『クレヨンしんちゃん』の登場に悩まされる姿も描かれる。

「しんちゃんの言葉のまねをして、保育者をびっくりさせる子どもたちが急増したのだ。そんなマンガが放映されているとは知らない保育者が、職員室で『このごろのあの、いやーな言葉、あれは何?』と話題にするという有様だった」「ある家庭を訪れた時に『先生、あの言葉、なんとかして下さい!』とお願いされたこともあった」

 和田たちの視点は冷静である。

「家庭でもあまり歓迎されないマンガだったが、子どもの間では妙に人気があったようで、だからこそ、現在でも放映されているということなのだろう」

 そこから、研究会では、小学校のある先生がとってきたアンケートを材料にしてなぜ子どもたちが支持をしているかということを探究していくのである。

 この研究会では、「なぜ子どもたちに受けるのか」ということを探究する。また、それを親の世代である自分たちがどう受けとめたか、ということについても討議している。
 この点について『金田一少年の事件簿』と『名探偵コナン』について話し合った研究会の様子を紙上再現してあるコーナーは、この研究会のメンタリティが垣間見られて興味深い。

「私がなぜこういう提起をしたかというと、一つには良いマンガを紹介するというのは必要だと思うんですが、逆に今子どもたちに実際読まれて受けている方向から見つめる、『今の子どもたちがなぜこれを読むんだろうか』、という点から考える必要もあるんじゃないか。もう一つはこの本(『心を育てるマンガ』)が、子どもにしてみると、知らないマンガばっかり並んでいて、自分たちが接しているマンガは載ってないじゃないかっていう感じがするんじゃないか?」(乾えり)

「先に金田一を読んだんだけど途中で面倒臭くなっちゃったの。なんか理屈っぽいし、画面も全体的に黒くって描き込みすぎ。絵はきれいなんだけど内容が、怨みだとか復讐ダとかがパッパッと出てきちゃうから、『もういいよ。こんなことさー』『話し合いがあるから義務だから読むけどさ!』という気持ちだった。コナンの方はお話は面白くて、絵もマンガの作り方も上手だなあというのはわかるんだけど、『一生懸命読むぞ!』とというところまではいかなかったな」(和田美信)

「(コナンは)首をかき切るところが出てくるでしょう。あれを見て、『ああこれはダメだ』。そこで私はストップ」(一戸智佐子)

「私も『コナン』の方は、やっぱりいきなり首が飛ぶので、読むのをやめたんです。そういうことをするのが、学生だったり、子どもがやっていたりするのがイヤなんですよ。大人のもっと凶悪な人がやるならいいんだけど、ちょっとふられただけで、首を飛ばすか! みたいな」(竹野正子)

「子どもたちに見るなっていっても、見るだろうけど、それと違った正義や勇気や現実をつきつめていく探偵ものがあるんだということを広めていくのが大事なんじゃないかなあ」(石子順)

 当然、「批評という行為も、自分から他者へ価値判断を伝える行為ではないか。なぜ批評行為と教育運動との間に差をもうけるのか。そういう態度こそが、その教育運動をやせたものにしているのではないか」という批判もありえよう。
 たとえば、性やセクシャリティのもつリアリティを、子どもに伝えるべき漫画に反映させることはありうる話だと思う。しかし、研究と教育が本来一体のものであるべきにもかかわらず、やはり教育機能が独自の役割をもっているように、子どもにその価値を伝える時には、独自の技術が必要になるとぼくは考える。伝える側は、そのことをふまえていなければならないはずだと思うのである。

 「赤ちゃんはどうしてうまれるの?」という子どもの問いにたいして、素で答えるか、体系的に子ども用に語った絵本を与えるかの違いのように。




石子順の需要はあるのではないか

 ぼくは、いまの地点に立って、石子順の各種の基準が「批評一般」というフィールドでは、実に狭すぎるものではないかと思う。それは上述の通りである。
 しかし、「教育」という機能に限ってみるならば、石子順の提示する基準や、あるいは彼の限定は有効ではないかと思う。
 さきほどあげた朝日新聞の特集で声をあげる大阪の主婦は次のようにのべる。「小2と小4の息子たちを週2回ほど図書館に連れていきます。はまっているのは学習マンガ。伝記や科学など難しい内容でもマンガなら読みやすく、親も安心できます」。親たちのある部分は確実に望んでいるのだ。「良書漫画のリスト」を。

 そして、漫画についての一定の素養が必要になる批評ではなく、だれもがすっと入れる漫画の批評の文体を望むとき、石子順の文体は決してあなどれるものではないと考える。
 石子順のような、「一般読者」たる親によりそった評論は、それがすべてではないにせよ、必ずスペースを空けておけねばならぬはずの存在であると思う。


 ぼくにとって、いまもって彼の本書で書いた次の言葉は、胸に深く刻み込まれている言葉である。

「ある学生が言っていたが、『排泄行為のようになんでも見てひたって、もやもやしたものを流していく』というようなつきあい方」

 漫画とつきあうさいに、そんなつきあい方はしたくないと思う時、思い返す言葉でもある。




日本子どもの本研究会マンガ研究部編
『心を育てるマンガ 親子で楽しむ130冊』 一声社
2005年5月24日感想記
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