安彦麻理絵『コンナオトナノオンナノコ』



 安彦麻理絵の描くリアルというものは、心してかからないと、深い傷を負う。
 思わず目をそむけたくなる30直前の未婚・既婚の女ライフのリアル。

 いったい、そんなものを見せてお前はどうしたいんだ。

 しかし……読んでしまうんだなあ、これが。
 1ページも目をそむけずに。

 29才の出版社勤務の独身チアキと、同じく29才専業主婦、1児の母でセックスレスなマサミをめぐる短編集。

 二日酔いの朝、よくもおかーさんにハジをかかせてくれたわね!!という実家からの母親の「怒りの電話」で起されるチアキ。イトコの結婚がきまり、いまだに決まらないお前が恥ずかしいと。
 「朝っぱらから母親にかるく殺意をおぼえる……」
 30にもなって結婚できない「アンタやっぱりどっかおかしいのよ!!」と叫ばれ、「かるい殺意が本気の殺意に変わるシュンカンを実感した……」。


 あるいは、働きに出たいというマサミを、夫が「たしなめる」話。
 マサミが叫ぶ。
「カズヒコにはわかんないんだよ!! 普段家いないから
 一日中コドモとふたりだけでアタマ バカになってくかんじなんか
 わかんないんだよ!! アタシってワガママなの?」
 横向いてタバコの煙をふかす夫。
「――だと思うよ」
「アタシみたいな事 考えてる主婦なんて
 世の中 百万人以上はいるよ!!」
「いるとは思うけどね」
「結局アンタは休みの日にたまーにコドモの相手するだけだから
 アンタにとって育児って『イベント』なわけじゃん!!
 ワタシは日常なんだよ!!
 アンタにとってはイベントだからそんなにコドモに対して
 カリカリしないですんでるんじゃん!!
 ずるいよそんなの!!」
 そして月曜日、夫が会社に出かけた後、チョコをほしいと泣きわめく子どもにもキレる。チョコはダメだといくら怒鳴っても、いや怒鳴るほどに泣きわめく子どもに、ついに自分自身が大泣きするのだ。

 別の日。
 家事を終えてやることもなくテレビをみているマサミは、酒飲んで過食嘔吐していた。
 テレビではワイドショーが、「オンライン・ゲーム」にハマり仕事や家庭に支障をきたす人々を報じている。
 安彦は、嘔吐するマサミの顔を大写しにし、「うっげえええ」などと言わせながら、こう語らせる。
「…なんかものすごく『現代』ってかんじ…
 こんなことしているアタシにしろ
 オンライン・ゲームにしろ…」

 で、ぼく的に、いちばんキタのは、次のところ。
 前にも紹介したことあるけど。もいちど。

 マサミのところの夫婦は、「仲のいい夫婦」と周囲から目されていた。
 「未だに夫婦ふたりで居酒屋行ってずーっとしゃべって盛り上がってるんでしょー?」と友人が言う。「夫婦というより友達と同居してるみたいだった」とマサミの述懐。
 「子供が生まれて育てはじめてから 私達は友達じゃなくて 夫婦とか家族とかってやつに ようやくなったみたいな気がする」。子育てで疲れ果て、夫婦仲も疎遠になっていった。それが「夫婦とか家族とか」になるということなのである。
「『未だにふたりでずーっとしゃべって盛り上がってるんでしょー?』
 たしかにね
 たしかに 会話がないよりも
 あった方がいいにきまってる
 でも
 『かんじんなこと』
 話さなきゃイミなんだよな
 『どーでもいいこと』は
 いっぱい話した
 でも『かんじんなこと』は
 ぜんぜん話してこなかった
 私達は」

 あーもー、深夜に何気なく読みはじめたぼくは、いきなり後ろから袈裟がけでやられた感じになる。
 ぼくはケッコンしているけども、ずっと遠距離で、いまだに同居さえしたことがない。子どもはおろか、同居した途端に破滅するのではないかという心配がある。
 子育てなんか、もう想像するだにどうなることかと思う。
 逢坂みえこの『ベル・エポック』には、子どもに「スイッチ」があることを空想してしまう話が出てくる。かわいがるときだけかわいがって、ウザくなったり仕事で忙しいときは、背中のスイッチを切ってタンスにしまっておくのだ。
 こんなことグチャグチャ考えていたら、合計特殊出生率もやっぱ下がるのかもなあ。


 みたくない現実をさんざん見せた後に、安彦が本書で用意した結論は「シアワセに正解はない」というものだった。
 チアキはでっぷり太った元彼とよりを戻し、マサミは離婚してしまい夫に子どもの親権をとられてしまう。しかし、チアキは、ギトギトの脂ぎった顔をして寝ている彼氏を横におきながら洗濯物が風にはためているのをみて「なんだか平和でとってもうれしい」という気持ちを感じている自分を発見する。マサミはビール飲んでタイ料理を食いながら鼻からタバコの煙をふかし「幸せだああああ〜」と言っている。

 世の中で様式化されているような幸せがそのまんま手に入れられるなんてことはもちろんない。それどころか、世間では「どうなんだそれ」と思われるような状況に泥まみれになっている自分がいることがほとんどだ。しかし、チアキもマサミも泥まみれ、ウンコまみれになりながら、自分なりの「幸せ」の形を探し出したというわけである。

 幸せとは主観的なものか客観的なものか、ということを、山田洋次の映画「学校」のラストで言い争う場面がある。ついに文字をろくに覚えることもかなわずに酒で体をこわして死んでいった、夜間中学の仲間(仲間といっても田中邦衛演じるおっさんなのだが)をめぐってである。ある生徒は、ある人の一生を外側から幸福だとか不幸だとかはいえない、と言い、別の生徒はむちゃくちゃ惨めな死に様だったと可哀想がる。

 「シアワセに正解はない」という安彦の結論は、その問題とからんで、とても微妙な言い回しである。
 ぼくは、人生あるいは生活の根幹をなす部分というものは、おそらくそれが幸せか幸せでないかということを、客観的に計りうると思う。その社会の水準の中で、ある程度の物質的な基盤や人間関係がそろうことが幸せの条件だから。だから「幸せとは本人の主観にすべて左右されている」という言い分は、ごまかしであると考える。
 ただ、その有り様は一律ではない。
 多様な形態がありうる。
 したがって、次のように言うのがもっとも正しいとぼくは思う。

「幸せに正解はある。しかし正解は一つではない」