明橋大二『子育てハッピーアドバイス』



相互に矛盾しあう子育てのドグマ


 「子どもは厳しくしつけないとダメだ」
 「子どもにはスキンシップや愛情をもって接しよう」

 「子どもを甘やかしてはいけない」
 「子どもをほったらかしにしてはいけない」

 一見してお互いに矛盾することを言っているように聞こえる。あるいは、両極にみえる言い分のどちらにも理があるように聞こえる。
 たとえば「厳しく」と「愛情」。
 まあせいぜい「厳しくしつけることが真の愛情だ」という程度の“統一”をはかろうとするだろう。しかし、それを現実の行動にすると、やっぱりただの口うるさい親が出来るだけなのである。

 親たちは、いつもこうした「ドグマ」にふりまわされている。
 それぞれの「ドグマ」には、そのテーゼに結実するまでの論理の筋道があったはずである。ある状況や条件のもとで、「厳しくしつけるべきだ」とか「愛情をもって」という結論になったはずなのに、その前提がいつのまにか見えなくなって、結論だけが教育論として親たちに提示される。
 根拠を失った結論、無条件・超歴史的に通用する定言命令に転化した教育論は、死んだ教条そのものでしかない。まさにドグマだ。



ふりまわされる親たち


 悲劇なのは、そういうドグマをまともに信じてしまった親たちで、融通の効かない一本槍の教育方針を貫くことが厳格な教育なのだと錯覚させられ、その方針のもとで子どもが犠牲になる。親も子どももまことにかわいそうだ。

 子どもをめぐる事件があったとき、ぼくなんかが「子どものせいじゃありませんよ」とかいうと、深くうなずく人がいるのだが、ぼくの言ったことを理解してくれたのかなと思いきや、「そうです。親が悪いんです」とくる。あちゃー。
 子どもをめぐる問題はすべて親が悪い、という言説圧力はいまや最高レヴェルに達しようとしている。それだけに、親たちは善意であればあるほど、こうしたドグマにふりまわされるであろう。

 子どもというのは、当然、教育において「教育される対象」であるが、その対象は固有の法則性をもっている。そして子どもという対象は、不断に変化発展している、弁証法の見本のような存在だから、その法則は固定したものではなく、常に動的である。

 対象の発達段階に見合った教育、しつけ方、接し方が必要になる、という至極単純な真理であるが、その一事がわかることで、親はドグマから解放されるだろう。

子育てハッピーアドバイス  この『子育てハッピーアドバイス』は、そのことが具体的にわかる。
 書いたのは、医者でありスクールカウンセラーである人だ。
 見出しや本文を拾ってみよう。

〈赤ちゃんならば、スキンシップ〉
〈「赤ちゃんに抱きぐせをつけてはいけない」と、言う人がいますが、これは間違っています〉
〈話せるようになったら、今度は話を聞きましょう〉
〈子どもの心は、甘えと反抗を繰り返して大きくなる〉
〈甘えない人が自立するのでなく、甘えていいときに、じゅうぶん甘えた人が自立するのです〉
〈10歳までは徹底的に甘えさせる。そうすることで、子どもはいい子に育つ〉
〈10歳以下の子どもが、あまり甘えてこないときは、接する時間を増やしたり、スキンシップを増やしたりしたほうがいい〉
〈甘えるのが上手な子と、甘えるのが下手な子がいます〉
〈叱っていい子と、いけない子がいる〉



実は発達段階やタイプのちがいによる「くいちがい」だった


 子育て一般の方針としてとらえると、完全に矛盾しあっていたことが、実は発達段階や子どものタイプによる違いにすぎなかったことが、この見出しだけでも察することができるだろう。
 それでもまだ上の見出しだけだと、依然ドグマチックに見えるだろうが、本文や漫画をよむといっそうはっきりとこれらの結論が、ある条件や根拠のもとで成立しているのだということを読者は知ることができるはずである。

 そこに共通しているのは、子どもが固有の発達法則をもった対象であるという子ども観で、かの本の教育技術や子どもへの接し方は、そのことをふまえたものにしあがっている。



子どもの現実をふまえる


 その一番面白い例が「子どもの相手をしていると、カッとなってキレてしまう。どうしたらキレなくてすむのか」という問いを立てた章のところだ。「こんなに散らかして! いいかげんにしろー!!」「こらっ静かにしなさい! (まったく言うことをきかない) どれだけ親をバカにすれば気がすむの!」などという親のいら立ち。
 著者はこの問いに次の3つの答えを用意する。

(1)子どもに非現実的なことを求めている
(2)子どもの言動を被害的にとってしまう
(3)親が、過度の責任感をもっている

 このうち(1)について紹介すると、「非現実的」の反対、すなわち「子どもの現実とは何だろうか」と著者は反問するのである。
〈子どもは、自己中心的です。(まだ相手のことを考える能力が育っていません)〉
〈子どもは、失敗します。(未来を予測する能力が育っていません)〉
〈子どもは、言うことを聞きません。(人の意見を冷静に聞く能力が育っていません)〉

 それが子どもの現実なのだといったん受け入れるわけである。その現実を変える能力を、親としてどのように身につけさせてきたのか、その努力もなしに子どもが変わりはしないし、そのあとどうすれば身につけさせられるのか(もちろん怒鳴っただけでは身につかない)を考えるのが親のやることである。
 著者はさらにすすんで、

〈相手のことを考える前に、まず自己主張する能力が必要です。それが、健全に育っている証拠です〉

という具合に、一見否定的にみえる子どもの言動が、不可避的かつ複雑な発展の一段階であるという把握ができることによって、何を肯定し、何を変えねばならぬのかということも明確になるのだとしているのだ。
 いたらないことを外側から否定するだけでもなく、かといってそれを受け入れるだけでもない。対象の法則性を把握することで、どう評価すべきか、そしてどう行動すべきかが明確に見えてくる。

 これを、無能なドグマの集積と比べてみようではないか。



石原の「心の東京革命」とくらべる


 東京都知事の石原某が、ない頭をしぼってひねり出したとみえる「心の東京ルール」なる7つの徳目は、まさに徳目で、相互がバラバラな貧しいドグマとして親や都民に押しつけられている。
http://www.kokoro-tokyo.jp/

●毎日きちんとあいさつさせよう
●他人の子どもでも叱ろう
●子どもに手伝いをさせよう
●ねだる子どもにがまんさせよう
●体験の中で子どもをきたえよう
●子どもにその日のことを話させよう
●先人や目上の人を敬う心を育てよう

 なるほど個々の徳目は首肯できるものも多い。じっさい、この『子育てハッピーアドバイス』にも指針として登場するものもある。
 しかし、こんなドグマだけ、もっといえば保守層の溜飲を下げるためだけの自己満足目標を並べられても、「子どもの相手をしていると、カッとなってキレてしまう。どうしたらキレなくてすむのか」と悩んでいる父親や母親の前ではクソの役にも立つまい
 必要なことは、こんなドグマをフンと腹に力をこめて実行を決意することではなく、子どもそのものを見据えて、その子の発達法則を把握することなのだ。



社会からの外的な要請と、子どもの内在的な発達法則の間で


 子どもそのものを見つめるという営為(この子には甘える時期が必要ではないかという観察)と、まったく外的な社会からの倫理的要請(「子どもを甘やかしてはいけない」など)の狭間で、親は宙づりになっている。あるいは板挟みになっている。この本は、そうした世間の外的な要請と、子どもの発達と成長を軸においた教育方針との間に、どう折り合いをつければいいのかまで懇切丁寧に書いてあるのだ。
 それだけではない。
 実際にはこの本を読むのは母親が多いことを意識しつつ、父親を単なる育児の「協力者」や「手伝い」であることを否定し、共同の育児のパートナーとしたうえで、子育ては父母の父母(ようするに祖父母)、教師や保育士、地域の人々のサポートのうえにおこなわれるという視点をはっきりと見いだしている。
 子どもが問題を起したときの周囲の反応を、漫画を用いて次のように描いている。

〈ちゃんとしつけができていないわね〉
〈甘やかしすぎじゃない〉
〈親が悪いのよ〉
〈過保護なのよ〉

 著者はこうした問題の解消の仕方をしりぞけているのだ。



本書の最大のポイント=自己肯定感


 このことともかかわっているのだが、この本の最大のポイントは、冒頭に〈子どもに心配な症状が出るのは、しつけがなされていないからでも、わがままに育てたからでもない〉と大書し、その根本を〈子どもの自己評価の、極端な低さ〉〈自己肯定感〉のなさに求めていることである。

〈「自己評価」とは、自分は生きている意味がある、存在価値がある、大切な存在だ、必要とされている、という感覚のことです。これが生きていくうえで、いちばん大切です〉

 自分の子どもが何かのはずみで「援助交際」をしてしまうかもしれない、ワルい仲間とつきあってしまうかもしれない――親としてはもう自分がその道から引き戻してやりたい気持ちでいっぱいなのだが、そういうときに限って、こっちがテンションをあげて説教すればするほど、離れていってしまうし効果がない。
 結局、親は子どもの人生を代わりに生きることはできない。
 しかし、子どもの中に「自尊」の感情が残されていれば、最後にはそこから脱却することもできるだろう。
 その感情を、親と地域と学校が育てることに成功したかどうかが試される。

 この本に書いてあるさまざまな教育技術や子どもへの接し方は、この「自己肯定感」をどう育むか、という点にむけて書かれている。

 ぼくは、よくこの点を根本にすえたなと感心する。
 先ほどあげた、石原的キョーイク観からすれば、自己肯定感をはぐくむなどというのは、甘えている子どもをさらに甘えさせる自我の肥大のようにしか見えないかもしれないからだ。そしてそういうふうに受け取られる言論環境に、ぼくらはとりかこまれている。

 非正規雇用が広がり、他方で正社員もウツになるまで長時間働かされる。人間材料として資本に浪費されることが当たり前の社会では、ことさらにいじめられたり、ジミであったりしなくても、ぼくらはたえず自分の存在価値のなさや、どうでもいい存在なのだ、という感情にさいなまれるだろう。

 ぼくがネットでこんな文章を午前3時ごろまでかかってバカな作業をしているのも、自分の存在価値を確認する作業なのかもしれないのだ。

 社会とのつながりのなかで自分の価値を再発見するというプロセスは、子どもだけでなく、人間の成長にどうしても必要なものだ。仕事や勉強で認められることがそのきっかけになるかもしれないし、仕事や勉強はできなくても、かけがえのない友だちがいてその中に自分の居場所があるのなら、自分の価値を自認できるかもしれない。あるいは、最後はいろいろいっても自分のことを大切にしてくれている家族がいる、という思いが、その人を救うのかもしれないのだ。

 自己肯定感の育成を子育てのポイントとし、子どもの発達と成長に焦点をおいたこの本はまことに正しい。



この本を売っている力はイラスト・漫画にある


 ああ、もう書きすぎてしまったので、あまり書くゆとりがないのだが、もともとこの本が目にとまったのは、新聞広告に載ったこの本のイラスト=漫画のせいだった。
 他の人もブログで書いていたが、あずまきよひこテイスト、つうか、ハッキリとあずまの影響が見て取れる。『よつばと!』がオタクの欲望をこめつつも、まるで子育て層をふくめて家族みんなが楽しめる絵柄に仕上がっているのと通じるものがある。この絵はまさに子育て世代むけの絵なのだ。
 この本は100万部を突破したという。それは単に出版社の誇張かもしれないが、そのことの真偽はおいておくとしても、ぼくはこの本はそれだけ売れてしかるべきだと思う。そしてその核心は、主張の正しさよりも、第一義的には絵のほうにある。
 太田知子というイラストレーター・漫画家のこのグラフィックこそ、ぼくをしてこの本を手にとらしめた力だった。


 最後に、出版社のことだが、「1万年堂出版」とはあまり聞かない出版社である。調べてみると、どうもある仏教系の団体の本を数多く出している本屋らしい。そのことに拘泥する評もあるようだが、ぼくはたとえば潮出版が創価学会系であっても、新日本出版社が共産党系であっても、面白い本は面白いと紹介してきたので、ここでも同じスタンスをとっておくつもりである。
 この本は迷える子育て世代にとっては、間違いなく面白く、役に立つ本のはずだ。





1万年堂出版
2006.10.19感想記
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