「広告批評」2005年2・3月号


 「広告批評」誌が「日本国憲法第9条」を特集。

 表紙は、●をでっかく書いたもの。グリーン版とオレンジ版ふたつあるという(ぼくのはグリーン版)。なんとなく「日の丸」にみえる。たぶん「日の丸」である。しかし、それは「白地に赤く」ではない。それは「別の日本」を暗示しているようにも見え、広告的に抜群の効果であると感じた。

 裏表紙は日清カップヌードル。くだんの「NO BORDER」。
 あのCM、ぼくはすばらしいと思っている。
 知らない人のためにいっておくと、まずいくつもの花を画面がとらえ、しだいに全体をうつす遠景になっていって、やがて錆びた金属体が花のとなりに現れ、カメラがさらにひいていく。そして、その金属体は錆びた戦車であることがわかり、それが一面の花畑のなかにぽつんとある全景がついに映る。近くで子どもたちが花を摘んでいる。そこに一言「NO BORDER」。
 見事すぎる。武器や戦争のない社会という理想を、言葉ではなく、実にシンプルな映像で雄弁に語る。本号にふさわしい。



68人のアンケート

 で中身であるが、池澤夏樹・大塚英志・高橋源一郎の鼎談とかもあるけど、いちばん興味深いのは68人のアンケート。どういう人種68人かというのは、なかなかビミョウであるが、まー、「広告批評に書きそうな人68人」だ。

 ここで「憲法9条を改定することの賛否について、賛否とその理由をお聞かせ下さい」という問いを出している。ここにあげられたような人たちがそのことを口にしているのを、ぼくらはふだん聞くことがない。だから、こういう回答を読めるのはものすごく貴重なことなのだ。
 で、回答した人は、賛否・不明問わずエラい。なかには読んでいて「卑怯な回答しやがって」と思う人もいたが、そもそも回答したこと自体は、ものすごくエラいことである。

 そいでもって、賛否はどんなかんじだったか。数でくくられるのは、もうまったくもって回答者は不本意だろうが、いったん公的なメディアに出したんだから、まあ宿命とおもってあきらめてほしい。これはまったくぼくの勝手な仕分けなんだが、そもそも改定反対、根底的にはいろいろ意見はあっても当面は反対、みたいな人をふくめると、54人が改定に批判的であるように読めた。賛成っぽい人は5人。態度保留、どう読んでもわからんという人など「その他」は9人だった。

 まあ、数はどうでもいいんだ、このさい。「賛成」している野坂昭如なんか、「さらに戦争放棄を具体的に明記すべきだから」なんて理由で改定賛成している人もいるくらいだから(それでも、これだけ反対を考えている人たちが多いことに、正直おどろいたが)。

 肝心な回答の内容なんだが、ぼくが一番目についたこと――そして同じ企画を読んだ友人が言っていたことでもあるのだが――は、「アメリカ」がらみの意見だった。

 たとえば、心理学者・岸田秀は、憲法の自主的制定の必要性について述べた後、次のようにつけくわえた。

「しかし、今回の憲法第9条改定の動きは、自衛隊をアメリカの傭兵として使いやすくするためであって、……日本の自主的判断の基づくものではないから、反対である。憲法は、日本が自主的判断を取り戻したときに改定すべきである」

 あるいは、作家の大岡玲は、冷戦時代なら第二項に限って改定を主張しただろうが、「改定を、今行うことには絶対反対である」とのべる。その理由は、「殺戮的民主主義」がブッシュ父子によって完成され、そこにすりよろうとしている現状では「危なくて改定などお話にならない」からだ、という。



アンケート回答のリアリティ

 ぼくは、これはリアルな感覚だと思う。

 広告というものは、タテマエだけでは絶対に成り立たないものだろう。たとえタテマエを言うにせよ、そのタテマエ=大義というのもは、人々の心が踊るものを集約した表現、真の意味でのタテマエ=大義でなくてはならない。だから、リアルな感覚、ほんとうらしい感覚、心がうごく欲望的なものとは切っても切り離せない(ちょうど「NO BORDER」の広告のように)。
 ぼくらはアメリカの世界戦略に組み込まれ、そこに忠実な従属をしている政権をもっている国の「国民」である、というリアルな感覚が必要である。

 改憲派の言説には、そのリアルさがしばしば脱落している

 アメリカは世界の7つの国(そのなかには北朝鮮と中国が入っている)にたいして、核を先制攻撃に使うことがありうるという戦略をもっており、さらに核を使わずとも先制攻撃をしかけるという戦略をもっている。
 日本がその先制攻撃戦略のただなかにすでに「基地国家」「兵站国家」として組み込まれているというリアルを忘れていないだろうか?

 イラク戦争はいわばその「テストケース」であり、2005年3月20日は、その戦争が始まってちょうど2年目にあたる。

 ぼくらは、遠い国の出来事としてそれを迎えることを許されない。

 現実にファルージャで大量のイラク民間人を虐殺している多国籍軍に正式に参加し、私たちの国の首相はこの作戦を「成功させねば」と明確に支持した人間である。そして、私たちの国の自衛隊は、そうした武装米兵を輸送し、軍需物資を運ぶという「兵站」の役割、すなわち国際法上は明確な戦争行為を、「特措法」における正式任務としてくり返し行っている国の「国民」である。
 また、私たちは米軍を毎年2000億円以上もの税金をかけてやしない、土地を提供し、米軍はそこを出撃拠点にしてイラクへ出かけている。横須賀を母港とする空母から、イラク国民を殺すミサイルや戦闘機が出撃している。
 日本が有事法制やミサイル「防衛」システムをそなえアメリカの基地・兵站国家として完成されていくほどに、日本はアメリカがアジアでおこす先制攻撃戦略の拠点として、攻撃をうける危険を高めている。(※1

 アンケートの回答の、アメリカへのまなざしの多さは、この問題をリアルに考えている証左だと感じた。



なぜ鼎談はあぶなかしいと感じたのか

 他方で、池澤・大塚・高橋の対談は、うなずけるところもあったが、全体的にあぶなかしいという印象を受けた。
 はじめに、大塚がおこなっている、自分たちで憲法前文を書いてみる、という試みが紹介される。自分たちが言葉をつむぎだすことによって、もう一度、国の理念とすべきものを生み出そうという「運動」である。そうやって深いところから鍛えられた力があれば、仮に憲法を変えられたとしても、再び自分たちのものに引き寄せることができる、と。
 すなわち、「選び直し」の議論である(憲法を自分たちで選び直そうという議論で、9条も「同じものにするにせよ」、もう一度選び直そう、というもの)。

 そしてその議論をおこなう一方で、会話のはしばしに次のような言葉が登場する。「もし第9条をこのままでやるとしたら護持ではなく、積極的に選び直すわけですから」(池澤)、「もし9条を護れと言うんだったら、話す努力みたいなこととセットじゃないと護れないという気がしますね」(大塚)。
 「もし9条でいくなら……」式の話がところどころに登場する。つまり、少なくとも池澤と大塚には、「9条でいきたい」という気持ちが見えかくれするのである(高橋にはあまりこだわりはないようであるが)。

 そのとき、ストレートに「憲法9条で行こう」「9条を守ろう(護ろう)」という言葉は、出てこないのである。「そう言った時点で一種の判断停止になってしまって、そこにしがみつくだけ」(池澤)になるからだという。

 ぼくは、あまりにも不自然な避け方だと思う。

 この3人の議論の底に、ぼくがしっくりこないものが流れているような気がする。
 「憲法ってこういうものだというビジョンがない状態で改定されるというのが一番マズいんですよね」(大塚)。「こういう矛盾(9条と自衛隊)した状態を五十年以上続けてきたことで、日本人の言語や論理の能力を劣化させてきたような気がする。言語的矛盾は、ボディブローのように聞いてくるんですよ」(高橋)――まるで戦後五十年、そして今も、日本人は憲法についてのビジョンや理念をどういう形でももっていないかのような、そして、彼らはそうは言ってはいないが、まるで何も考えていないかのような日本人像を前提に問題が組み立てられているような気がする。それゆえに、議論を一から始めるような作業の印象を、ぼくは受けた。

 日本人は、言語能力を劣化させてきただけの、あるいは、無ビジョンの、受動的存在だったのだかろうか?



ゼロから始めなければならないということはない

 しかし、考えてみるがいい。

 彼らが口にしている大江健三郎や井上ひさしといった「戦争体験世代」がつむぎ出した理念は、まちがないなく、「あんな悲惨な戦争は二度としちゃいけない」という体験にもとづく理念で、それが戦後60年もの間、その世代の漸次的死滅とともに劣化はしていったが、たえず9条を支え、9条を選び直してきたプロセスであった。

 つぎに、戦後世代はどうか。
 戦争の臭いがもはや完全に消えた世代からカウントするにしても、そこには「専守防衛」という発想があったはずである。「いざというときのための、戦力にはいたらない、必要最小限度の自衛力の保持は、憲法の範囲内である」というくだんの政府見解は、奇妙なことであるが、やはり9条を支え、9条を選び直してきたプロセスだったのではないか。それは「まあ、いざというとき国を守るということに限るんならいいんじゃないの」という俗な言い方に言い換えることができるだろう。

 そして、最後に比較的新しい戦後世代についてである。(※2
 大塚が若い世代が911のあとパッと「反戦や平和」にとびついたことを驚きをもって語っているけども、若い世代のなかに相当数生まれている「殺すな」というシンプルな倫理から9条を支持する流れは、最初にのべた「戦争体験世代」の理念をひとつの源流にしているといえまいか。
 どれだけボロクソに言われようとも「平和教育」や「戦争体験の継承」がそのような意識にインパクトを与えている。「ドラえもん」や手塚漫画をふくめ、一度はその理念にどこかで出会ってくる。
 だからこそ、ぼくらが街頭や学園でアンケートやシール投票をやってみれば、若い世代のなかでの9条を支持する声はいつも高い。

 すなわち、ビジョンがない状態ではなく、これらの各世代の理念が一種の合力となって、いまの9条を支えているということができる。そのような「地力」がすでに存在しているとみるべきである

 とりわけ、二番目にあげた「専守防衛」をかかげる世論を考えてみたとき、仮に自衛隊を専守防衛のために認めるにせよ、冒頭の68人アンケートのところでのべたように、「アメリカに従属して戦争に出かけていく、まきこまれる」ということの危険のリアリティは、強く感じられるという段階にある。「なんでアメリカの戦争に出かけていって戦争したり死んだりしなきゃなんないの」という危惧。「国防のための死ならまだ『いい』けど」という感覚。
 自衛隊(その前身たる警察予備隊)発足後50年ものあいだ、使ってきた解釈(自衛隊は戦力ではなく必要最小限の実力)は、すでに9条をささえるひとつの理念である。
 その放棄は、実は、米軍との海外での戦争に参加するために集団的自衛権にふみこみたいからにほかならないのであるが、そこに多くの人がいま危険を感じているのである。

 東京の北区では「九条の会」という9条を守ることで一致する会に、区議会の自民党をのぞくすべての会派の議員が入った。それは、まさに「専守防衛の自衛隊」論もふくめ、9条を支える理念がどのようなものであるかということを具体的にしめすものである。

 ならば、ぼくは、その到達に依拠して、もっとストレートに「9条を守ろう」「9条で行こう」と言ってもいいではないか、と思うのだ。この3人はその点をあまりにも避けすぎていないだろうか。

 「選び直し」や「自分の言葉で憲法前文を書く」という作業には十分面白い要素があると思うのだが、結句、「9条の擁護」を言えない、一種の知的怯懦が、彼らの鼎談全体をあぶなかしいものにしてしまっていると思う。

 でも、とても大事な企画であった。




この一文について、改憲派の読者のかたからいただいたメール


※1:「北方領土」、竹島をめぐる問題も、軍事がそこでは何の役にも立たぬことを思い知らされるばかりであって、逆に「道理や大義をかかげた外交能力」――それこそ憲法がもっとも政府に義務付けた力であったはずだが――の欠如または必要性を痛感させられるばかりである。


※2:さらにこの世代には、NGOやボランティアのような形での社会貢献、あるいは国家の枠をこえた人と人との交流の芽が育っている。このことは憲法9条とストレートにむすびきつきは必ずしもしないけども、いわば9条を活用していくもっとも未来的な萌芽がそこにある。(たとえば、長年紛争地での国際協力をしてきたNGO「日本国際ボランティアセンターJVC代表理事の熊岡路矢は「日本の平和憲法は、多くの方々の犠牲の上にようやく獲得できたものです。国際協力に従事する私達の指針にもなっています。これからも大切にしていきたいと思っています」とのべているが、他方で、イラクで人道支援活動をつづけ人質になった高遠菜穂子は「実は拘束事件のあと、はじめて憲法九条を読みました。……イラクでNGO活動をしていたとき、私は『九条』についてまったく考えていませんでした」とインタビューのなかでのべている=民主青年新聞05.2.28)


「広告批評」NO.290 マドラ出版
2005.3.21感想記
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