青砥恭『ドキュメント高校中退』



抜けだせない貧困の根っこにある「低学力」


ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書 809)  本書のサブタイトルは「いま、貧困がうまれる場所」であるが、高校を中退する現場が貧困に直結しているという意味ではまさしく「いま、貧困がうまれる場所」というほかない。

 詳しくはいつ頃からかはわからないのだけども、たとえばぼくが社会科学に関心をもつようになった1980年代にはすでに「生活困難層」と「中退」問題はセットで論じられていた。

 岩田正美は『現代の貧困』(ちくま新書)のなかで、〈いわゆる「格差社会」は、そこそこ豊かであった「中流」層の生活基盤を不安定にしているが、だからといって中流層に属する人が一律に貧困化しているわけではない〉(同書p.140)と「だれもが陥りうる貧困の恐怖」といったイメージを批判する。

 そのうえで、〈「格差社会」の進行やその背後にある経済社会の大きな変化が、むしろある特定の「不利な人々」を、真っ先に「貧困という名のバス」に閉じこめてしまい、そこから出られなくしていることに目を向ける必要がある〉(同)と指摘する。

 岩田がその「不利な人々」が共通して抱える状況として、真っ先に指摘する条件が低学歴(=低学力)である。

 青砥の『高校中退』では、高校中退の原因の中核にこの低学力をおいている。随所で指摘されている学力の実態は、小学生の中低学年のときにわからなくなってそのままになっているということだった。

〈〔SA高校では〕生徒の学力は驚くほど低い。この高校では、定員割れすると中学からの成績がオール一でも入学できる。高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は一から一〇〇まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では「五五の次はいくつ?」と聞くと、一〇%の生徒はできない。SA高校の生徒にとって数字の理解は三〇までで、それ以上の数を概念として理解することはむずかしいようだ。一円玉、五円玉、一〇円玉をいくつか出して、「全部でいくらになる?」と聞いてもわからない生徒もいる。「一五三二五は?」と聞いても、高校三年生になっても読むことすらままならない〉(本書p.24)

〈〔C高校では〕かけ算の九九が完全にできる生徒は、全生徒一六〇人中二〇人程度だ。他の段もあやしいものだが、とくに六と七の段はできない。そのため教師たちは分数計算や小数計算を教えることはしない〉(同前p.31)

〈Y高校の生徒の学力は、「高校生なのにどうして?」と思えるほどすさまじいものだ。数学の分数計算は、1/2+1/3など、分母の数が違えば、ほとんどの生徒ができない。九九も相当数の生徒が覚えていない。七の段になると3年生の大塚教諭のクラスでも三〇人中、数名しかできない。アルファベットすら書けないから英語なんてほど遠い〉(p.51)

 いちいちあげることはもうやめるけど、こうした事例がこれでもかと挙げられている。




「9・10歳の壁」問題


 ぼくの実感としては、小中学校の勉強というのは、数学(算数)や英語の場合は、「わからなくなったところまでさかのぼる」というのが鉄則だろうと思う。基礎を積み重ねることで次へむかっていけるのに、それがないためにいくら積んでもまったく積み重ならないのである。家庭教師が「わからない子をわからせる」ということが任務であるとすれば、へたくそな家庭教師は、その生徒の基礎が壊れているのに上へ上へと積み重ねようとする。「わからなくなった」ところまでさかのぼらなければ、むなしいというものである。だが、学校ではそこまでやってくれないのである。〈日本の学校には小学校の低学年で「落ちこぼれた」子どもたちを救う手だてはほとんどない。低学力のまま中学では不登校になり、高校に入っても中退していくのはアメリカと同じである〉(本書p.170)。

 小中学校の勉強でわからなくなる、という地点は共通して、しかも、意外と早くにやってくる。そのことは本書でも次のように指摘されている。

〈小学校の低学年頃まではなんとか勉強できた。ところが四年生ぐらいになるとわからなくなった。小学校の教師たちがよく口にする「九、一〇歳の壁」という言葉がある。この言葉は、算数だと子どもが指を使ったり、おはじきの玉を使って、具体的に数えて「数」を現象的に認識する段階から、九、一〇歳になると、数や量が抽象的になり、概念的な思考が必要になる。学習を続けていくうえで、そこが大きな壁になるのである〉(p.80)




家庭資源の差


 ここまで読んでくると、高校中退の中核にある低学力問題は、本人の学習理解度の違いにあるように見える。そして普通はそのようにしか見えない。

 ネット上で低学力ゆえに私立高校しかいけなかった人や、学校を中退してあまり実入りのいい仕事につけない人に対して、「自分の責任でそうなったのではないか」的な悪罵が投げつけられることがある。
 そしてなにより当の本人が一番そう思っている。
 共産党が面倒をみている民青(日本民主青年同盟)という組織があるが、そこに新たに加入した人の話している中身をみていると、中卒である自分は「バカだからしょうがない」と自分が「ロクな仕事」につけないことを諦観している。だから、「周回遅れ」の自分、貧困に陥った自分は自分のせいなのだから、文句を言っても仕方がないというわけである。言えば言うほどそれは自分を責める言葉にしかならない。

 しかし、低学力の問題を考えるうえで、本書は家庭資源という考え方をする。前述の「九、一〇歳の壁」を指摘したうえで、次のように青砥は続けている。

〈それを簡単に乗り越える子どもとなかなかできない子どもがいる。家族に教えてくれる大人がいれば、まだ可能性があるが、そんなことを教えたりする環境がまったくない子どもだと、その壁は越えられない。ここに家庭資源の差が大きな格差として表出するのである
 小・中学校で不登校になる子どもや高校を中退する生徒の中には、この「九、一〇歳の壁」を越えられないまま、小学校を「卒業」し、中学を「卒業」し、高校に入学する生徒が非常に多い〉(p.80)

 本書のなかの聴き取りで、関係ない箇所であってもこうした「家庭資源の乏しさ」は随所に顔を出す。

〈母親はほとんど漢字が読めず、ひらがなしか書けなかったから、保育所からの手紙など理解できなかった〉(p.141)

 この問題は単に「親が子どもに勉強を教えられない」という狭い問題ではない。それは生活能力の低さそのものだという問題なのだと青砥は指摘する。

〈C高校には朝食どころか昼食もとっていない生徒が相当いる。なかには、隣の町にある児童養護施設の「D学園に行けば飯が食える」という噂が広がり、出かけて行って「何か、食べさせて」と食堂代わりにする生徒もいるほどである。……食生活以外でも、ふつうの生活を送ることはできていない。歯磨きをする習慣がなかったり、子どもの頃から虫歯ができても治療しなかったから、歯並びが悪かったり、前歯が溶けて、歯がなかったりする生徒も少なくない。歯医者に通う金がなく、親も子どもに関心がないからそのようなことが起こるのである。……このように、家庭の貧困は経済的な問題だけではない。食事をすること、歯を磨くこと、風呂にはいることという日常生活の基本がおかしくなっている〉(p.31〜33)

〈低学力は生活能力の問題だということも中退後の彼らの生活の状況から理解できた〉(p.228)

 なぜ生活能力の低さが低学力を導くのだろうか。
 その連関について、青砥は次のように説明している。

〈授業や学校秩序になじめない子どもたちが増え続けている。子どもが育った家庭に人的資源があるか否かで子どもの学ぶ意欲が育つかどうかが決まっていく。幼児期から、親の一方的な怒鳴り声ではなく、双方向のていねいな会話がなされてきたか。聞こえるのは、一日中つけっぱなしのテレビから聞こえる騒音ではなく、親からの語りかけであったか。本や新聞に書かれている内容が、家庭で話題にされてきたか。たまには、家族と一緒に出かけ自然を楽しんだり、旅の中で新たな発見をしたか。
 子どものそういう体験は、新たに知識を学ぼうという意欲を育てるためには貴重である。学ぶことで自分の人生を切り開いたという経験をもたない親たちに、学ぶことの大切さを語れと要求してもむずかしいだろう。「学ぶことは生きること」ということを、親に代わって教える学校や地域のサポートがあればよいのだが、孤立して生きる貧困層にはそのような機関とつながることは困難である。そのように考えていくと、やはり学ぶ意欲を育てるための最大の阻害要因は貧困なのである〉(p.172)

 家庭資源の差は、早い段階から表出してくる。
 だから、本書では第三章にわざわざ「子どもの貧困」という章を設けて、保育園段階ですでに救いがたいような生活困難が広がっていることを論じているのである。

 ぼくが保育園ですすめられて購読している『ちいさいなかま』という保育雑誌(ちいさいなかま社発行、全国保育団体連絡会編集)がある。
 この2010年1月号が「子どもたちの生活は今」と題する貧困問題を中心にした特集であった。
 ここにも保育園にかかわって現れてくる子どもの貧困の具体例がたくさん描かれている。

〈保育園に戻った担任から、「大変! ゴミの山の中で、二人だけでテレビを見ていました!」という報告がありました。「ごはんはどうしてる?」と聞くと、「夕べお母さんが買ってきた弁当を二人で分けて食べた」、「お風呂は?」には「水が出ないしガスも出ないので、お家では入れないの。病院のおじいちゃんのところでシャワーを浴びるの」と言っていたとのこと〉(同誌p.26)




家庭資源の差で貧困に陥るならそれは社会の問題だ


 こういうふうに書いてくると、普通ならば「本人の責任」そうでなければ「親が悪い」という認識にしかならないであろう。
 それは2chだけの話ではない。
 これだけ貧困や格差が騒がれている時代に、民主党の小沢幹事長が、ソウル大学で日本のニート問題について「日本の現状はみんな親が悪い。ぶらぶら遊んでいるのを食べさせている」(2009年12月12日、共同)と放言してはばからないあたりに、こうした認識の根深さが見て取れる。
 政権与党の「最大実力者」から2ちゃんねらーの一部にいたるまで、奇妙な同盟を組んでいるのだ。

 家庭資源の乏しさは、格差というものを絶対的に放逐できない以上、仕方がないといえば仕方がない。しかし、どの家庭に生まれるかでその資源を利用できないということは、生まれてくる子どもの責任ではない。
 しかもそれが人生を送るうえで決定的な問題であるなら、それを本人の問題、個別家庭の問題といって涼しい顔をしていることは決してできないだろう。家庭資源の差によって貧困に陥り、抜けだせないのであれば、それは畢竟社会の問題なのである

 低学力は圧倒的に本人の問題だとされる。本書のもっともすぐれた点は、貧困の生まれる現場=高校中退を引き起こしている低学力問題の根源には家庭資源の差があることを多角的に暴いたことにあると思う
 ただ、その問題に俗な認識でゆきあたらない場合がないでもない。
 「あそこは親が悪いから」という言い方だ。
 その場合、言及した側もだらしのない闇を暴いた気持ちだろうし、言及された側もそれ以上ふみこまれたくない恥部をさらされたような気持ちになるだろう。
 本書はこの問題を貧困という角度から見つめることによって、社会的に開かれたものにしている。

 社会によってその解決を図るほかない、という認識を強く抱くだろう。




宿題・勉強サークルという援助


 その具体的な提案については、本書を読んでもらうとして、本書の提案以外(あるいは本書で部分的にしかふれていないこと)のことを最後に書いておきたい。

 一つは低学力問題のカヴァーである。
 かつて学生のなかにはセツルメント運動があったのだが、現在この流れがあるのかどうなのかぼくにはわからない。少なくとも見えない。ぼくがかかわっている左翼系学生たちは、ほとんどそうした運動をしていない。
 ぼくが育休をとっていたとき、左翼運動をしている同世代の子育て層の女性から、「宿題サークルみたいなものをつくりたいんですが、先生役をやってもらえませんか?」と提案されたことがある。
 ぼくは自分の意欲もあったのでぜひ引き受けようと思ったのだが、そのあとほどなく育休が終わり、その女性も忙しくなってしまったので、話は立ち消えになってしまった。
 しかし、このような子どもたちの「勉強を教える無償の組織」ということは学生などの力を借りてできるのではないかと思う。とくに「九・一〇歳の壁」対策を念頭においてやることは意義が大きいのではないだろうか。




保育園や学校を地域の貧困戦争の拠点に


 二つ目は、地域の社会福祉の拠点としての保育園の役割の強化である。
 実は最近、ぼくは地域の自治会長のようなものをやっている。町内会・自治会というものには民生委員がいて、その民生委員は地域の人たちの実情をつかんでいるがゆえに、福祉や貧困について目配りをできた。
 しかし、今、本当に共同住宅(アパート)などの住民、とくに若い層はまったく自治会や町内会とは無縁で、把握できない存在になっている。そもそも町内会に加入しないし、加入しても昔のようにお互いが日常的に顔見知りというわけではない。年に1〜2回の行事で顔を合わせるかどうかという程度のものだから、生活の深刻なところを相談できるような関係もない。だいたい、年配者にしたって自治会とか町内会なんていうものは何かを「やらされる」組織でしかなく、要求をぶつけたり何かを相談して解決するような存在ではないのである。

 こうしたなかで、子育て層はどこで生活にかかわる相談をしているのだろうか。

 ぼくの保育園にも母子家庭の人たちがいるけども、よく信頼できる保育士さんに生活のグチから仕事の大変さ、親同士の関係でのトラブルなどを相談しているのを見かける。

 先ほど紹介した『ちいさいなかま』の2010年1月号には、保育をするなかで否が応でも浮かび上がってくる家庭の貧困に、保育園そのものが(緊急避難的な)解決に乗り出す様子が描かれている。

〈もう一つの事例は父と二人で過ごしていたHちゃんです。
 父子家庭で父親には定職がありません。どうやら生活保護を受給して生活を送っているようでした〉(同誌p.27)

 園側はジュースばかり飲んでいて体がやせ細っているHちゃんにおむすびを用意するところから実践をはじめる。さらに、父親の勤労意欲を引き出すことまで手がけるのである。福祉事務所からの依頼だった。「それも保育園の役割?」という疑問も少なからず生じたそうであるが。

〈せっかく楽しそうに笑顔で保育園生活を送れるようになってきたHちゃん。その成長を守らなければならないと思い、知りあいの工務店にお願いしてみました。保育園で面接をして、工事の手伝いの仕事に就くことになりました〉(同前p.28)

 同誌には、国立社会保障・人口問題研究所の阿部彩が「保育所は貧困の最初の砦」という一文を寄せてる。そのなかで阿部は、

〈子どもの貧困というと、塾に行かせられない、高等教育を受けさせることができない、などという、学齢期の脅教育面の格差を思い浮かべがちですが、実は、貧困の影響は、学齢期よりももっと前の人格形成の場面から子どもに蓄積されており、思考能力の土台となる乳幼児期における貧困の悪影響が、その後の学習や人間関係の形成などに重たくのしかかっていることが指摘されているのです〉(同誌p.34)

とのべている。そのうえで、

〈このような理解のもとで、多くの先進諸国では就学前教育の重要性が再認識されています。たとえば二〇〇六年、OECDは「SartingStrong II」という報告書で、特に二歳から五歳の公立の保育・教育サービスの重要性を訴えています(OECD2006)。
 就学前教育といっても、字を教えるなどの「学力」を重視したものを提唱しているわけではありません。日本の保育所などでも行われているような、遊びを通じての人間形成、そして、貧困層の課程が抱える諸問題に対して適切なサポートへとつなげていく福祉サービスがとても重要なのです〉(同前p.34〜35)

と保育園がこうした子どもの貧困を防ぐ重要な防波堤、砦となることの意義を説いている。阿部はアメリカの就学前教育の効果を紹介した後で、

〈私は、日本の保育所は、このような就学前教育を行うのに最適の場であると考えます。保育所には、児童発達の教育を受けた保育士がいて、栄養士や看護師などの専門の知識を有するスタッフもいます。また、貧困層の子どももそうでない子どもも入所しているのに、貧困層だけを対象としたプログラムのようにスティグマを発生させることもありません〉(同前p.36)

と強調する。
 ぼくは阿部がその論文の結びとしている〈保育所は、「子どもを預ける場所」というサービス産業ではなく、子どもを育て、家庭の不利があればそれを積極的に解消するという、児童福祉の最前線であることを忘れてはならないと思います〉(同前p.37)という言葉にまったく同感である。貧困と闘う最前線が保育園だ。

 ぼくは、保育士の集まりで漫画について講演したことがあるが、そのときに夢路行『あの山越えて』をあげて、新しい共同体の必要性を説き、その中核の一つとして保育園を挙げたことがある。
 もちろんいまの体制や支援を前提にしていたのでは、保育所がそのような機能を発揮することはおぼつかない。
 そもそも青砥が指摘しているように〈若年出産した若い親たちには支援が必要だが、本当に支援が必要な親たちほど保育士や保健師たちの所にはやってこない〉(本書p.165)という現実がある。保育園で発覚するのは現状では氷山の一角でしかない。
 青砥はこの福祉機能を小中学校に求めている。
 阿部の指摘を考えるなら、就学前教育がおこなわれる保育園から始めるのがもっともよいだろうが、現状の制度では保育園にいく子どもは子どものうちの1部でしかない。どちらも補完しあいながら体制を整えるのが現実的だろう。
 もちろん、保育の「市場化」など論外である。

 子どもを助けることを軸にして、地域社会が貧困を解決するために保育園や学校を軸にする、という構想をはじめなければならない。




いますぐできることをやろう


 しかし、それにいたらないレベルでも、ぼくらが個別にできることがある。
 それは、母子家庭や困難な家庭に声をかけたり交流を広げるということである。できる時間にそうした家庭の子どもをあずかるのでもよい。

 ぼくは今そういう声をかけるのをやろうかな、失礼にならないかな、とためらいながら考えているのであるが。

 貧困の問題は社会の問題である。が、それは逆にいえば、本人や個別家庭の閉じた問題ではないことを意味する。社会の一部であっても、それにむけて何かすることができるはずである。だからこそ、ただ「社会の問題なのだ」といって終わってしまうのではなく、自分に今すぐ何ができるかを問い、即座に行動に移すことが大事だと思う。





青砥恭
『ドキュメント高校中退 いま、貧困がうまれる場所』
ちくま新書
2009.12.27感想記
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