池上彰『高校生からわかる「資本論」』




 これはわかりやすい。
 「週刊こどもニュース」の解説者だっただけある。
 池上の本はこれ以外にも買ったことはあるが、通俗的な解説をさせるなら異様にわかりやすい。本書もその例にもれなかった。

 率直に言って、前後についている「社会主義の失敗」についての結論は通俗的であるがゆえに、左翼のぼくはいただけない。しかし、通俗的な解説を求める人ならこれで「OK」なのだろう。まあ、この部分は目をつぶろう。

 肝心なのは『資本論』本文だ。
 ここの解説がわかりやすい。

 方法としては、『資本論』第一部の中身で、価値論から原始的蓄積にいたるまでのポイントになる原文(もちろん日本語)を抜粋し、現代の問題をからめながらそれをわかりやすい言葉で解説するというものだ。
 的場昭弘の『超訳「資本論」』(祥伝社新書)はこのタイプであるが(あとがきをみると、池上は本書執筆にあたって的場に〈貴重なアドバイスをいただ〉いているようである)、的場の解説が「わかりやすく解説する」ということについて中途半端であるのにたいし、池上はそのことを徹底させている。「高校生からわかる」というのは伊達ではない。ちなみに、あとがきをみると、〈難解な『資本論』を、高校生にも理解できる解説にするため、ホーム社の会議室に高校三年生や卒業生に集まってもらい、授業形式で解説したものをもとに、この本をまとめました〉(p.286)とあるように、実際に高校生に聞いてもらっているのである。学者が自己満足で「わかりやすい」と称しているようなものではなく、非常に厳しい試練をうけて出版されているのである。

 『資本論』の柱や中身を手っ取り早く説明することはできるし、これは各種の解説書がいろいろ出ている。『マルクスる?』や『今こそ「資本論」』などもこうした本である。
 しかし、『資本論』を「読む」ということの真の困難は、『資本論』本文にあたったときにおきる。その難解さに圧倒的多数の人がたじろいでしまうのである。

〈労働はその素材的要素、その対象、その手段を消費し、食べ尽くす。それゆえ労働は消費過程である。この生産的消費が個人消費と異なる点は、個人消費が生産物を生きた個人の生活手段として使い果たすのに対して、生産的消費は労働の生活手段、活動する労働力の生活手段として使い果たすところにある。したがって個人消費が生産するものは消費者自身であり、生産的消費が生み出す結果は消費者とは区別されるのである〉

 これは筑摩書房版(マルクス・コレクション)の訳である。池上はこの『資本論』本文を紹介したあとに、こういうふうに解説をはじめる。

〈また訳のわからないことを言っているよね。もってまわった表現をしていますが、言っていることは簡単な話です〉(p.127)

 この〈また訳のわからないことを言っているよね〉〈もってまわった表現をしていますが〉というエクスキューズ。そして〈言っていることは簡単な話です〉——これこそがこの池上本の魅力の中核なのである。

 池上は本当に本書でこの種の表現をくり返す。

〈何が「したがって」だと、と思っちゃいますね。訳がわからない文章です。こうして冒頭でつまづいた人は多いのです。しかし別にむずかしいことを言っているわけではありません〉(p.44)

〈またわかりにくい言葉だね〉(p.56)

〈またわかりにくいよね。何でこんな難しい言い方をするんだろうと思うのですが、これは、つまりこういうことです〉(p.104)

〈まったく、ややこしい表現だね。こんな文章を一生懸命に読み解いていくと、読解力がつくよね。そう思って、頑張ろう〉(p.170)

 これらはホンの一部である。とにかく全編にこうした調子が入り込んでいるのである。きわめつけは、コレだろう。

〈またわけのわからんことを言ってるね。こういうのは無視していいですからね。これは、趣味でこういう表現をしているので〉(p.213)

 〈無視していい〉〈趣味〉とまで言い切る大胆さに脱帽である。これは講義の中で思わず口をついて出てしまうといったようなものではなく、池上のマルクスに対する基本的な評価なのである。なぜなら、池上は本書をこういって締めくくっているからだ。

〈学生時代には、「『資本論』が読み進めないのは自分の力がないからだ」と思っていたのですが、今になって読み直すと、単にマルクスがわかりやすい説明をしていなかったからだと思うようになりました。該博な知識の披瀝、華麗なレトリックの数々の文章は、いったい誰に読んでもらおうと思って書いたのでしょうか〉(p.287)

 この一文は、「わかりやすい解説を書く」ということをライフワークにしている池上ならではの言葉である。そしてこれこそが池上の本書の真骨頂だといってもよい。
 マルクスの難解な原文に対して、ある意味悪罵ともいえるような「わけのわからん文章ですね」「実はこんな簡単な話なんですよ」的なことをくり返すことによって、聞いている高校生たちはおそらく「ああ、マルクスっていうのは、わかりやすいことをわざとわかりにくく書いた人なのね」という印象を持ったにちがいない。読者にそういう確信を培うことで、読者は逆にその難しさを乗り越えようとする意欲を持とうとするからだ。

 さっき紹介した『資本論』の一節は、池上の本書ではどのように解説されているのだろうか。

〈つまり、労働って、自動車をつくるなら自動車のさまざまな部品を消費するわけだ。自動車部品を消費することによって新しい自動車をつくる。それはさまざまな材料、労働の対象を消費するということなんだけれども、それを消費することによって、実は新たなものを生産することになる。だからそれは生産的消費なんだよ、ということです。
 一方、個人が自分だけのために消費するのは、食べてしまえばおしまい、というところが違う。個人的な消費と生産的な消費というのは、同じ消費という言葉が入っているけれど、違います。個人消費は、食べてしまえば、浸かってしまえばそれでおしまい。生産的消費というのは、労働力を消費しながらいろんなものに対して働きかけることによって新しいものをつくり出す。それが生産的消費なんだよ、というふうに言っています〉(p.217)

 『資本論』を逐語的に解説する本は、実はこれまでも労働運動のなかで様々に出版されてきた。それらをすべて目を通してきたわけではないので、ぼくも偉そうに語る訳にはいかない。
 たとえば今手元に、同じ「彰」つながりで、宮川彰『『資本論』第1巻を学ぶ』(ほっとブックス新栄)がある。サブタイトルに「宮川彰 講義録」とあるとおりに、講義テープの起こしである。
 ぼくは、『資本論』を学ぶ上でこの本にお世話になった。だからこの本が決してわかりにくい本とか粗悪な本であるというわけではなく、逆に『資本論』を学ぶうえではぜひ手元においておきたい1冊であることは強調しておきたい。
 しかし、「高校生にもわかる」という視点からいうと、宮川本の場合、多くの箇所では、原文を「かみくだく」作業をしていないといううらみがある。たとえばこうだ。

〈そして、貨幣において「この外観が完成する」…と言っています。そのように貨幣をうい出したさまざまな社会的な「媒介する運動は、それ自身のうちの結果のうちに消失して、なんの痕跡も残さない」…。だから自然属性のように見えてしまうのです。金銀は一般的な等価物という性質、すなわちなんとでも、いつでも交換できるという性質を持っている。じつはそれは仲立ちする、媒介する運動があってこそ可能になったものであるけれども、もうそういう媒介する運動がすっと消えて後ろに退いてしまって、人々の目に映らなくなっている。痕跡を残していないというような状況になりますと、貨幣がひとり魔物のような性格をふるって、万能の力を備えて、そびえ立ってくる、君臨してくると、こんなような姿に見えてしまうのです。
 そうしますと、「金や銀というこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間的労働の直接的化身なのである。ここから貨幣の魔術が生じる」…というわけです。これが貨幣物神のメカニズムです〉(宮川p.135)

 「媒介」という運動のイメージが難しいんだけども、宮川はそのまま話しちゃっている。おそらく池上ならそこにこだわって解説したに違いない。

 池上解説の意義は、まさにそこにある。
 ぼくもこの池上本に触発されて、本文を読みながら『資本論』を解説するということを最近挑戦してみた。ちょっと時間が長くなってしまったのだが、自分としてはなかなかいい出来になった。この方法は有効だと実感したのである。

 くり返すが、『資本論』の中身はこうです、と簡単に説明する学習会をするのはいいけどもそのあとで本文を読み始めて挫折してしまう——こういうパターンから抜け出るうえで、本書は刺激に満ちているといえる。





『池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」』
池上彰 発行:ホーム社 発売:集英社
2009.7.7感想記
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