おおの藻梨以『くにたち物語』



●「わしが司会をしていたら、V子がマイクを『持ってあげるわ』と言ってくれた。ただの善意だとは思うがうれしかった」(11/5)
●「このごろV子に会うと汗がどっと出る」(6/13)
●「生徒会室のそうじをやったが、V子がこなかった。つかれたし、V子がおらんかったので、つまらんかった」(10/24)
●「盆おどりにV子がきているか見に行った。いないんだ」(8/12)
●「今日は生徒総会だった。席がV子のとなりだったので、汗が出てしょうがなかった。会話はあることはあった。しかしあれだけではどうこういえない」(10/9)
●「今日は生徒議会があった。V子とはよく話せたし、至極満足である。また、Qの話だと、机を運んでいるとき、V子がこちらをジーッとみていたそうである」(11/7)


 これは、ぼくの中学時代の日記である。


 久々に読んで、どうやら、好きだった女の子(V子)を「V子殿」とリアルで呼んでいたらしい……と我ながら絶句。
 恥ずかしさのあまり、身悶えし、日記を抱えたまま、部屋中をごろごろと転がり回る。

 認めたくないものだな、自分自身の、若さゆえの過ちというものを…。

 他方で、自分が生涯でおそらく2度しかない、女子から告白されたという話も、その片鱗がこの年の日記に登場する。

 『ハチミツとクローバー』よろしく、そのどの恋愛感情もついに成就することはなかった(ぼくのも、ぼくにむけられたものも)。
 現在はどうなのか知らないけど、いまから20年ほども前の農村の中学生生活においては、恋が実ることのほうが希有だった。だれかがだれかを想う気持ちというのは、えんえんと抱えつづけられたあげく、けっきょく表現されずに20年後の同窓会まで封印されるか、都合よくベクトルがむきあわずに「契約成立」にまで至らないものばかりである。

 おおの藻梨以『くにたち物語』は、そんなぼくの、80年代農村中学生ライフを思い起こさせる。

 『くにたち物語』は、主人公の松下友子こと「モコ」の一種の成長記録である。東京の下町である町屋に小学3年生のときに暮らしていたときの様子からはじまり、そのとなりに越してきた保科家の姉弟との交流がまずはたっぷり描かれる。『くにたち物語』とはいいながら、6巻あるうちの2巻までは町屋での話である。
 そして、東京の多摩地域である国立市に移ってからは、モコの思春期である小学校5年生から、中学時代が描かれる。

 そこで轟(トッド)という少年と出会い、子どもとしての出会いからやがてそれが初恋の感情にかわっていくまでを、実に、実にぜいたくなページを割いて、綿密に描いている。

 そう、まことにぜいたくである、とぼくは思う。

 普通の少女漫画の展開は、この過程がわずか数ページだったり、いきなり前提だったりする。
 それを、400ページもある単行本4冊ぶんをつかって、これでもかという具合に描いていくのだ。

 そして、この漫画が優れていると思うのは、ページ数において膨大というだけでなく、それを描く視点が、まさに「子どもが見たリアル」、すなわち「モコが見たリアル」だから、である。
 たとえば、それは、志村貴子や安野モヨコのように、大人が見たリアルではない。きっちりと説明がつけられ、きわめて冷徹な客観の視線があるわけではないのだ。
 あるいは逆に、そこらに転がっている少女漫画のように、少女の「欲望」や「願望」の脳内妄想を最大限に引き延ばしたご都合主義の世界でもない(批判の言葉ではありませんよ、ちなみに)。
 または西炯子の『STAYプラス』のように、男側にリアル、女側に虚構を置くという離れ業でもない。

 まさに、中学生がもっている中途半端なリアルさとでも言おうか、そう、ぼくが日記に書いたような、一面は現実と願望の落差を静かにみつめながら、半分以上は、成就しない自分の願望にうだうだとつきあいつづけているという、あの中途半端さである。

 冒頭に紹介したように、ぼくの日記には、好きだった子がどういう仕草をしたかということと、それがいっこうに実らないことへの不平や不安が飽きもせずくり返しくり返し流れている。
 一瞬一瞬をきりとってみれば、1ミリの進展もしない、不毛な片思いの円運動のなかにいるように思えたものである。

 たとえば3巻のおわりで、家族とはずみで「賭け」をしてしまい、モコはトッドの家にバレンタインのチョコをとどけるハメになる。その日の学校の帰りには、モコは、

「バレンタインなんて あたしには関係ないことコトかもしれない…… カンケイナイ……」

と確かにいったん捨て鉢になったはずである。
 しかし、成り行きでトッドの家の周りをうろつくモコ。

「なぁんでこんな時間にこんなところ歩いてるんだろう……
 やばいなあ……本当にチョコあげるのかなあ
 ……マジメにやばい☆
 あ〜やだ なにブツブツゆってんだろ あたし……
 まっ☆ どーせポストにポイしてくるだけだもんね
 名まえも書いてないし…… 気持ちよ 気持ち キ・モ・チ」

 しかし、ふと思いいたる。

「“本当の気持ち たった一つだけ贈りたい……”
 “ス”と“キ”と……
 “本当”ってムズカシイよ……」

 家が近づくにつれ、ふりつもる雪の中、無音の世界にひびいていた自分の足音さえも消え、自分の心臓の鼓動だけが大きくなっていく。
 また躊躇する。

 おおの藻梨以は、そのプロセスを、ていねいにていねいに描く。
 なんとぜいたくなつくりではないか。

 これは一例にすぎない。
 モコは、3巻以降、このような無意味とも思える逡巡、舞い上がり、落胆を、無限ループのようにくり返す。

「人を好きになるということが けっこうつらいことだとわかった」

「“仲直り” そう見える? そうなったと思う? 
 〈ムシコ〉ちゃんじゃなくなったと思う
 〈よしみ〉ちゃんぐらいにはなれたと思う
 “仲よくケンカ” まえみたいな感じがした…… うん そんな感じ
 だったら……
 スッゴク ウレシイ」

「大きな上級生の中でもトッドは……
 だれよりもカッコイイ!
 トッドがいっちゃん光ってるっ
 男のコにこーゆーゆい方って ヘンかもしれないけど……
 トッドきれい!」

「考えるコト 思うコト 頭の中はトッドでいっぱいなのに……
 自分で自分がイヤになる
 トッドがバカにするの あたりまえだ……」


 しかし、それは鬱陶しいリピートではない。
 そのたびに「ああ、おれの/わたしの中学時代ってまさにこうだった」と読者を切ない気持ちに導く、貴重な瞬間の連続なのである。



 ああそうだ。
 中学時代、時間はたしかにこんなふうに流れていた。



 トッドの側は、バスケとバンドにしか興味がない。
 ――ように見える。少なくともそのように見えるのが、「モコから見たリアル」なのである
 いまの少女たちが読む少女漫画の少なくない部分には、この「中途半端なリアルさ」、すなわち中学生のリアルさがない。「そんなものを求めちゃいないんだよぅ」というツッコミがあるし、別に、なくても少女漫画としてマーケティングは成立するだろう。
 しかし、ぼくが今読みたかったのは、まさにこの中途半端さである。

 おおの藻梨以のすごさは、このような「中学生から見たリアル」を貫いて、まるで終わりなき片思いの無限循環の中を生きながらも、学年を1つ終えてみれば、なるほど確かに成長しているというあたりをきちんと描いていることである。
 かわらぬルーティーンのように見える日々の中でも、部活動でくやしい思いをしたり、定期テストを共同で乗り切ってみたり、後輩たちを部活動で教えたり、近所で痴漢にあったり、友人と恋敵になってしまったりと、無数の事件が用意され、そのなかでモコは確実に成長をとげていくのである。なるほどその瞬間は成長しているとはとうてい思えないのであるが。
 
 ああ、なんてぜいたくなんだ!
 これはもう一大叙事詩である(叙情詩というより)。

 おおのが方法にどこまで自覚的かはわからないけども、おおのの根底にはかなりしっかりとした客観的な視線があるのだと思う。最初に述べたことと違うことをいっているように聞こえるかもしれないが、正確にいうと、客観的な視線をもちながら、わざわざ中学生の中途半端なリアリズムを用いているのである。「中途半端なリアル」というものをしっかり描く――変な形容であるが――そういう方法を持っている。複眼というか、二重底というか

 複眼。そう、おおのは、単眼ではない。現に、『くにたち物語』の初期のころは、モコの視点ではなく、明らかにモコのお母さんの視点である。この視点がまたモコの幼少の成長を的確にとらえるうえでは、抜群の視点なのである。
 そして、モコが成長し、モコの人格にとって「母親」のしめる比重が低下するに従って、お母さんの役割もまことに自然に薄くなっていく。やがては、モコをオムレツで釣るという、すでに大きくなったモコには有効でないコントロールの手段をとる様子(つまりいつまでもモコをコドモ扱いする)も描かれ、母親の役割が中学生のモコのなかで基本的に終わっているということもしっかり書き込んでいる。

 初期の巻(1巻)では、祖父の死をモコがどう感じるかというエピソードが圧巻で、死んだ祖父から遅れて自転車が届く話は――手法としてはよくあるものなのだが――もう涙なしには読めない。

 あれほど欲しかった自転車。お礼の電話をしようとして祖父が「いない」という事実を「忘れていた」モコは、そこで初めて本当に「死」の意味を知るのだ。
 それは葬式の場面で幼いモコが感じたような、「こわい」とか、「もう二度と起きてこない」、という単純なものではないということを。
 うれしいという気持ち、感謝したいという気持ち、そういう届けたいという気持ちを永久に伝えられなくなった、あるいは伝えてもらえなくなったことが、その人の「死」なのだということを知るのである。


 ぼく自身、国立に住んでいたこともあって、描かれている町並みも出てくる固有名詞も、一つ一つが懐かしい。こういう余計な事情もくわわって、いっそうこの作品を読んでいる間は思い出に浸るような、メランコリックな気分になれる。

 実はこの作品は1992年で停止している。
 おおのが長きにわたって中断しているのだ。
 再開を宣言したそうであるが、まだ現実のものとはなっていない。

 もしこれがモコがたとえば結婚するまでを描いたとしたら、本当に、真の意味で一大叙事詩となるであろう。
 商業的事情がそれを許すかどうかしらないが、もし、この作中時間のテンポでぜいたくに描き続けるなら、日本の漫画史のうえでもたいへん重要な足跡を残す作品となるのではないか。
 大いに期待したい。



『くにたち物語―Memorial street』(講談社漫画文庫)
1〜6巻(以後続刊、のはず)
2005.1.13感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る