批判は才能をつぶすか
『クロサギ』批判への反論によせて



 サイトを読んでくれた人から次のようなメールをもらった。
 『クロサギ』のぼくの感想についての感想だ。

 私としてはこの物語をスーパーマンとかバットマンを見るような感覚で読みました。わたしは詐欺に遭ったことがあり、かなりの額を失いました。クロサギ……は実際に世の中にはいないでしょうが、詐欺被害者は腐るほどいます。私は一人の詐欺被害者として、この物語を楽しむことができました。
 この物語はそういう側面から見れば、今の時代に必要とされている物語のひとつとして評価してもいいと思います。
 遠山の金さん、や、日本昔話のように、「悪は滅びる。」という単純な願望をテーマにすることで、それがひとつのイメージとしてたくさんの人に伝わった場合、常識(コモンセンスと言った方が正確でしょうか)に変化が現れて、ただのエンターテイメントを超えた、社会全体を変えうる力になるのではないでしょうか。
 作品の完成度や、リアリティに関して言えばおっしゃるとおりかと思うのですが、この作品の持つポテンシャル、作者の能力のポテンシャル、は、作者の年齢から考えても高く評価されてもよいと思います。


 現実の詐欺被害者が『クロサギ』をどう読むのかということも実に興味深いのだが、ぼくの注意をひいたのは、さらにその後に続いた一文だった。なぜこうした異見をメールしたかということについて、次のように記してあったのだ。

こんなことをわざわざ書いたのは、才能のある作家がある種の批評によって、折れてしまうことが多々あるからです。レディオヘッドのトムヨークが非難されたように。(彼は元気に立ち直りましたが)


 ホームレス体験を描いた吾妻ひでお『失踪日記』を「絵のせいでリアルさがない」と評していたサイトがあったのだが、これにたいしてサイト「ひとりで勝手にマンガ夜話」の運営者・白拍子泰彦が自分のブログで酷評したことがあった。そのさいに、白拍子は当該サイトにたいして、

「『面白いと感じなくても最後まで読んで批判する、という、マンガの世界では貴重といえる「批判」を、「可能性が高い」マンガの未来の為に役立ててほしい、と考えています。』とさらって言ってしまうのがまたすごいなー。確かに一人でも自分の文章をきっかけに作品に触れたり、新しい知見を与えれればいいなーと漠然と思っているけど。自信あるんだなー。自信ある人ってうらやましいよ」

と皮肉る一文を書いていたことがあった。

 ネットで名も知らぬ個人が書いた漫画評は、漫画家に届くだろうか。そして影響を与えるだろうか。
 
 有名誌で連載したことのある漫画家と知己なのだが、その人は悪評に非常にセンシティブで、ネットでのそのテの言説は絶対に見ないことにしているという。相当ヘコむというのだ。
 そういえば、いくえみ綾の漫画『私がいてもいなくても』で、有名漫画家がネット上の悪評を見て失踪してしまうというくだりがあるなあ。漫画ではないが、筒井康隆はしばしば文芸評論家の存在の「くだらなさ」を書いている。同時に筒井がもつ文芸批評への執着、過剰なまでの関心をそこに見る。筒井は自分の作品が批判されることに敏感だったのではないだろうか。
 創作者は自分の作品への評価に異常と思えるほどの関心を払っているとまず言っていいだろう。

 いくえみの漫画で悪評が書かれているのは「掲示板」で、おそらく2chが想定されている。
 まず、漫画家が自分の作品の評価をみようとすれば、2chのスレッドを思い浮かべるのだろう。
 その次は、検索サイトによる検索であろう。
 最近では作品やキーワードごとに評判を集めることもできる機能もできてきた。

 ぼくも自分のサイトを始めた頃は、まるでつぶやきのようなつもりで漫画評、感想を書いていた。サイト「漫画読者」のなかにその評が編集者や作家に届けられた、という文章があるのを読んで(当該ページ最下段)、雲の上のような話だと感じていた。
 ところが、しばらくして「はてなダイアリー」周辺でぼくのサイトへのリンクが増えてくると、Googleなどで、ある作品を検索すると検索の上位にぼくのサイトが出てくるようになってきた。

 ぼくの頭には「これは漫画家、少なくとも編集者は読むだろうなあ…」という思いが去来するようになる。悪評に敏感になるという気持ちはぼくもわからないわけではないので、そうすると、ある漫画作品にたいして「悪評」を書くことに一旦は躊躇がうまれるのだ。
 ブログ「ARTIFACT@ハテナ系」経由で知ったサイトで書かれていたことだが(詳細な出典を忘れた)、テキストサイトの成長パターンというものがあって、初期のころは無責任ともいえる痛快な批判、「メッタ斬り」が書けるので、快哉を叫ぶ人がファンになって集ってくる。しかし、読者やリンクがふえてサイトの図体がでかくなってくると、いろんなことに配慮するようになってしまい、次第につまらなくなる――というものだ。

 このジレンマを突破するには、ひとつには、サイト「OHP」のように、「面白いと思った作品だけをとりあげる」という基準を課しているところもある(「OHP」自身は相手を傷つかせないようにそうした基準を設けているのではなく、つまらないものはとりあげたくないという運営者の趣味嗜好であろうが)。「OHP」が大手サイトとして人気を持続させているように、面白いものを紹介しつづけるだけでもたくさんの需要はきっとあるのだろう。

 だが、つまらないものはつまらない、というサイトもやっぱり必要だし、何よりも書評をする側の欲求として、そういうもの――ひとの批判を書いてみたいじゃないか。
 しかし、自分の書いたものが何がしかの影響を与えるのではないかと思うと、ブレーキが働くのも事実。そこで向かうべき方向としては、より「ていねいな批判」を心がけるということになる。「愛のある批判」といってもいいが、多くの人が納得してもらえる批判ということだ。

 しかし、そんな難しいものが簡単にできるわけがない
 きれいごとに近い。
 とくに、批判された作者本人は、いくらていねいに批判をしてみたところで、いじける奴はやっぱりいじけてしまうのである。ていねいな批判はしばしば本質的な批判になってしまったりするので、乱暴な批判以上に、逆に徹底的に落ち込ませることになったりする。ううむ。作品はすでに出版され発表された段階で「作者の固有のもの」ではなくなり、社会的な存在になっている。どのような厳しいバッシングに遭おうとも、それを甘受することは発表した者の義務なのである。
 「批判は才能をつぶすか」という表題の問いかけに即していえば、そりゃあ、やはりつぶすだろう

 ところで作者と「知り合い」である場合はどうか。うん、こういう場合だって「作品は社会的な存在なのだから」といって評価をすることが道理だろう。まあでもやっぱりできないだろう、人情として。
 だから、ぼくはできるかぎり、漫画家とも、関連する他サイトとも連絡を(公には)とっていない。やっぱり「どうも」「やあやあ」という関係ができれば、あるいはそれを公にすれば、もしその人を批判することになった時、どうしても切っ先が鈍るだろうと思うからだ。

 やはり、気にせず批判する、ということが結論になってしまうのだろうか。





2006.4.15記
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