高杉一郎『極光のかげに』




 シベリア抑留体験の記録を「面白い」と評しては怒られるだろうが、面白いといわざるをえない。山崎豊子の『不毛地帯』のような「苛酷労働」の体験には照準が合わせられていないだけに、なおさらそう言いたくなる。ぼくは仕事で泊まりをしなければならなくなって本書を読み始めたのだが、100ページほどまで止まらなくなってしまった。

 『夜と霧』を書いたフランクル、『アウシュヴィッツは終わらない』を書いたレーヴィ、『俘虜記』を書いた大岡昇平の記録がそうであるが、本書もまた、ラーゲリにおけるすぐれた人間観察である。

〈日本の小市民生活からもって行った私の心理の波長に適合するものを彼らのなかに見つけては、その限りで彼らに親しみを感じていたようである〉(p.313)

 著者の高杉がここでのべているのは、ソ連で接したソ連共産党員たちのことである。高杉が日本の生活の中で出会ってきたあれこれの人になぞらえて、彼らを理解しようと務めたのだ。ちょうど同じことが、高杉が描写したソ連の人々だけでなく、同じ日本人捕虜たちについても言える。
 つまり、ぼくらは、この『極光のかげに』を読む時、ぼくらの〈小市民生活からもって行った〉似たあれこれの人物を見出すのである。ここに出てくるスターリン官僚は、上司のあいつにそっくりだ、とか、この捕虜仲間は友人の某にどことなく似ているではないか、とかそういう読み方である。




「民主運動」の似非インテリにぼく自身を見る



 ぼくが興味をもった一つは、捕虜の中で起こされた「民主運動」である。ソ連側は日本軍の秩序を解体させ、ソ連側の望む秩序と思想を造り出すために、捕虜のなかで「民主運動」をたきつけたのである。

 「民主運動」の先兵になっている日本人は、だいたいにおいて滑稽であったり、バランスが悪かったり、ひどく体制順応的であったりしている。
 収容所で比較的恵まれた労働であった事務労働を高杉はこなしていたが、それを下村という、京都大学出身の才気煥発な、しかし道徳心のなさそうな青年に奪われてしまう。その事務労働をする部屋に〈夕方から数名の青年が集まり、ときどき「天皇制打倒」を叫ぶ大声が壁を通してきこえるという噂〉(p.56)が聞こえてくる。

〈その青年たちは殆ど幹部候補生で、そのなかに候補生好きで有名な副官田村中尉その人が含まれていたことは私を驚かした。
 田村中尉は、地方で女学校の国語の先生だったという噂で、感傷的な短歌をつくった。日朝点呼のとき、いかにも先生らしい持って廻ったながたらしいお説教をした。副官を中心に談話会があり、そのメンバーは概ね年の若い候補生たちであった。私自身も誘われて一度その会に出たことがあったが、歯のうくような気障な雰囲気に一言も発しなかった。こんどパナマレンコの助手になった下村が高坂正顕の受け売りで、モラーリッシュ・エネルギイを論じたりした。
 この談話グループが、殆どそのまま新しい民主会に巣喰ったわけである〉(p.56)

 たとえば、ここに出てくる下村という男の、事務労働という「楽そう」な労働を狙う狡猾さ、知ったかぶりで受け売りをしゃべる似非インテリ性……それがそのままぼくだとはいわないけども、ちょっとでも油断すると出てきそうな自分自身の姿をそこに見るようではある。
 とくに、〈歯のうくような気障な雰囲気〉の話になってしまいそうな自分が嫌になって、すぐに会話を終わらせてしまったりする。下村もぼく自身っぽいのだが、それに〈一言も発しなかった〉高杉の気持ちもよくわかるのである。そういうものに遭遇すると、ぼく自身もいたたまれないような気になる。




狂躁の「自己批判」運動のなかにさえ人間を見る



 「民主運動」が怒濤の流れになり、「批判と自己批判」が狂ったようにおこなわれる。「文革」や連合赤軍でおなじみとなったこうした光景を前にして、ぼくらはおそらく「批判と自己批判」なるものをただの嘲笑や揶揄をもってしか受け取らないだろう。
 だが、高杉は茶番だといってシニカルに、あるいは虫のように何も考えずにそれをやりすごすということはなかった。

 帰還直前、〈ベルトから、むかしそこに日本刀をつっていた留金をとりさることを思いつかなかったらしい〉(p.344)旧将校がつるしあげをくらっていた。「これが、彼がいまだに旧軍隊の階級意識を清算しきれていない証拠である」(同前)と〈ありったけの声を張りあげて〉(同前)指弾されていたのだが、〈ちょうどそのとき、急に両者の建物のかげから、収容所長が大佐の肩章をつけた見知らぬ老将校をともなって現れた〉(同前)。高杉からロシア語で事態の説明をうけた老将校は、みんなを見回しながら話し始めたのである。

「僕にはどうして君たちがそんなつまらない問題に興味をもっているのかわからない。君たちは、四年間も外国で俘虜生活を送ったのちに、いまようやく故郷へ帰ってゆく。おそらくとらわれる前に、一年か三年か五年か日本の軍隊に勤務したことと思う。思えば、ながい年月だ。
 さて、日本に帰って、君たちはどんなふうに生活するか? 資本主義諸国には失業者がたくさんいる。その失業者のなかに放りこまれて、君たちはどんなふうに職業を選択するか? 旋盤工になるか、ブリキ屋になるか、鍛冶屋になるか、それとも技師になるか、教師になるか? 大きな問題だ。
 また、どんな政党に加入するか? 日本にはいろいろな政党がある。ファシスト的な政党、ブルジョワ政党、農民の党、そして共産党がある。どの政党がほんとうに日本の独立と自由をまもる政党であるか。これも重大な問題だ。
 人生の転機にあたって、そういう重大な問題が諸君の前にはたくさん横たわっている。諸君はそれらの問題についてこそ、同志と討論しなければならぬ。それが批判と自己批判だ。
 私もこの少佐とは(大佐は収容所長を顧みて言った)お互いに毎日、批判と自己批判をやっている。しかし、そのためにますます親しくなりこそすれ、仲たがいするようなことは全くない」(p.345-346)

 そもそも日本人をそのように追い込んでいるのはソ連側ではないか、そしてそういう状況下を造り出しておいて何をえらそうに言っているのか、と思うかもしれない。しかし、横で聞いていた高杉の反応は違った。

〈この老大佐のたくまない、わが子に言い含めるような言葉は、私にはたいへんよくわかった。この言葉のなかには、日本の年輪を加えた達人のなかにあるのとおなじものが——たとえ、その思想は異なっているにもせよ——流れているように思うのである。人生の美しい智慧をもった人々がここにもいるという確証は、私の暗い気持ちを救った〉(p.346)

 ここには、時代の怒濤のような流れに流されてた人の硬直しきった思想の姿と、それがすでに失ってしまった原初的な柔らかい姿との鮮やかな対比がある。
 この問題は、別に左翼思想だけに限らない。経済における規制の緩和を説く人の話であったとしても、〈年輪を加えた達人のなかにあるのとおなじ〉ような生活の実感から滲み出てくるような言葉であれば、それはひとを説得するかもしれない、とぼくは思う。しかし、「規制緩和」を万能とする流れに身を委ね、硬直しきった型紙に陥ってしまえば、おそらく留金について声を張り上げて指弾する兵士たちと何ら選ぶところはないであろう。




「民主運動」の活力には本当の民主性も存在した



 ところで、ぼくはこの「民主運動」をソ連側が企んだもののように書いたが、それは必ずしもソ連側の「邪悪な」意図からのみ説明されるべきものではない、ということが本書を読むとわかる。

 高杉はシベリアの生活のなかで旧日本軍の規律がいともたやすく崩壊し、とりわけ将校クラスの堕落のひどさを目の当たりにする。陰で麻袋から小麦粉を頬張っていたソ連の役人に見つけられ、唇や胸のあたりを真っ白にしながらバツの悪そうな顔で立っている若い日本人少尉を見たのである。

〈そのとき私は、シベリアにいる日本の軍隊は、溜り水のように腐り切っている、新しい清水を流しこまなければ駄目だ、と思った。将校はもう規律を維持するなにほどの影響力も持ってはいない。新しい秩序と規律は、このシベリアでの生活そのもののなかから生み出さなければならないだろうし、そのためには古い形骸と化した軍隊的秩序を御破算にする必要があるだろう、と〉(p.63)

 「民主運動」はそのような一面を持っていた。
 兵卒たちは「民主運動」のなかで新しい秩序に活気だっていくのにたいして、将校たちは沈んで澱んでいくのだ。その対照を、高杉はシベリア生活の随所で感じることになる。

〈私は兵隊たちが朝夕元気よくうたっている「国際民主青年のうた」を思いだしていた。なんという鮮明な対照だろう! この将校たちはいま、兵隊たちが一年前に卒業したあの精神的頽廃のなかにおちこんでいる。無気力と無秩序〉(p.219)

 ここには、ソ連であろうが、アメリカであろうが、契機としては外在的なものがその背中を押したのであろうが、兵士たちすなわち日本国民のなかに、民主主義を欲求するエネルギーが内在していたことを見る。それがいかに無様に、滑稽に始まっていこうとも、民主主義のエネルギーは日本人のなかにたしかに潜在していたのだ。高杉はそのことを鋭く観察しているのだとぼくは思う。

 他方で、帝国軍隊がつくりあげた規律や「武士道」がいかに脆弱であったかも、その対照のなかに見て取ることができる。
 日本の兵士たちは労働で疲れて戻ってきても、収容所の環境をよくしようと緑化運動に勤しんだが、将校たちは腑抜けたように麻雀に興じていた。それをみて、兵士たちにまじって汗を流していたソ連の老中尉は怒りを爆発させるのだ。

〈「日本の将校というのは、国際状勢について、なんという無智なのだ。ソヴィエトの国民は帝国主義者の侵略に備えて、ひとり残らずせっせと働いているし、中国人は世界で最も暗愚な民族のひとつだと聞いていたのに、アメリカの軍隊を追っぱらうために、勇敢に戦っている。ところがどうだ。自ら進んでアメリカ帝国主義と戦うために戦場に赴いた優秀な民族だと思っていた日本の将校は、将棋(シャフマタ)を遊ぶよりほかには能がない。おそらく彼らは、嘗て自ら戦ったアメリカの軍隊が近くシベリアに攻め入ってきて、俘虜収容所から自分たちを解放し、ロシアの黒パンの代わりに白パンを支給してくれるのを期待でもしているのだろう」
 これは痛烈な皮肉だった。しかし、日本の将校は、まさにその皮肉に値いしたのだ〉(p.220-221)

〈ここに送られてきた当初は、藤田東湖の「正気歌」や吉田松陰の憂国の和歌を声高らかに吟じて、「サムライ」的な気骨を誇示していた将校が、一カ月の労働ののちには、円匙を握って作業場からひそかに脱け出し、近くにある畑で馬鈴薯を拾う姿が見られた。毎日給与される三五〇グラムの黒パンが、バラックのなかで、その持主が洗面に行って帰るまでの僅かのあいだに消えていたというような破廉恥な事件も一度ならずも起った。そのころ、兵隊たちのあいだでは、絶えて破廉恥罪など聞くことがなかったのに〉(p.221)

 高杉は、軍隊教育の無力さを思い知り、最後に何が人間性を救ったかを観察し、次のように結論づける。

〈私は、命令と鞭とびんたで行われた軍隊教育がいかに脆いものであるかを、ここで痛感させられた。誰にとってもおなじように苛酷な条件と、堪えがたい現実ではあったが、結局その条件に堪えぬいたものは——たとえ受身の弱々しい方法ではあったにしても——少数の将校服のなかにかくされていた市民的な背広の人間の教養であった。
 関東軍の「生ける屍」が放つ腐臭のなかで、私は嘔吐を催しそうであった〉(p.222)



高杉の「小賢しさ」に自分が重なる



 高杉自身の「小賢しさ」の描写も身に覚えがある。このいやらしさは、ぼく自身だ、とまたしても思った。この高名な作家を「ぼく自身」だとは高慢にもほどがあると呆れ返る諸兄は多いだろうが、ほっとけ。
 高杉は、プロパガンダ係のソ連将校の質問をうけ、細心の注意を払いながら相手が最も気に入るように、そして、自分が危険な目に遭わないように答えを用意する。同じような境遇におかれればぼく自身もその猿真似のようなことをきっとやったであろう賢しらさを、高杉は発揮する。

〈……自己流の反ファシズム論を述べることは危険である。そこで、私は冒険をおかさずに、ソヴィエトで公的に認められている基準を利用できる講演をしようと決めた。私は日本で読んだことのあるマルクス主義の文献を想い起しながら、史的唯物論に関する極く平易な解説を書いた。
「なににもとづいて、君はこれを書いたか?」
とパナマレンコから尋ねられたとき、私は専らプレハーノフの『マルクス主義の根本問題』、レーニンの『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』などを挙げ、青年時代に私たちの眼を大きく開いたブハーリンの『史的唯物論』についてはおくびにも出さないだけの周到さはあった〉(p.32)

 ぼくは仕事でクライアントの要領を得ない注文を造形するということをやっている。そのために、相手が何を喜ぶのか、というのをまさにこんな感覚でやっている。触れてはいけないというものも、決してそこでは使わない。
 もし自分がラーゲリに入ったならば、きっとこんなふうに相手の歓心を買おうとするのではないかと強く感じたのだ。




典型的軍人



 他の人間観察も実に生き生きしている。
 高杉が最初に入ったブラーツクの収容所長ジョーミンは、〈なによりも規律を重んずる典型的な軍人であった〉(p.24)。日本の戦前の学校の様子を映した、おそらく軍国主義批判のドキュメント映像をみたジョーミンは、逆に喜んだ。子どもたちが整然と日の丸のもとで整列して登校するシーンである。

「美しい規律だ。まさにあのようでなければならぬ」(p.24)

 そして作業成績の悪い中隊の中隊長が呼ばれてソ連将校に叱られているときに、その日本人中隊長が来月100%遂行を要求されて「できるだけよく働きます」と答えたが、居合わせたジョーミンは声を荒げて言った。

「君はいったい軍人なのか? あの敵を攻撃せよと命令されたとき、君はできるだけよく攻撃しましょうと答えたのか? 軍人ならば当然君は、やります(ヤア・スルーシヤユ)と答えるべきだ」(p.25)

 こうした軍人気質、という人物はどこにでもいるのだろう。高杉はそれほど戸惑わない。ぼくなどは身近に「元自衛隊員」という人はかなり見てきたのだが、いずれもこのジョーミンのような人ではなかった。まあ、そもそも元自衛隊員たちは士官ではなかったのだが。だから、もし軍隊的規律でひとに迫るような人物が身近にいれば、きっと新鮮に感じることになるだろう。
 左翼組織というのは「軍隊的規律」だと信じて疑わない人がいるけども、およそそんな組織ではない。それで動くならもっと「楽」だ(笑)。だから、最近左翼仲間たちと冗談を言っているのだが、軍隊みたいに「命令」と「規律」の「遊び」を取り入れたらきっと「新鮮」なんじゃないだろうか。




ぼくのまわりにもいる「ソヴィエト的人間」



 高杉が日本で遭遇したことがない人間タイプとして驚愕をもって書いているのは「ソヴィエト的人間」である。本書の後半で1章を割いて高杉が会ったカリャーモフという現場監督について書いている。
 カリャーモフは現場のあちこちに現れ、作業効率を誠実愚直に追求し、そのためにどんな憎まれ役も買って出る。

〈主任技師に苦言を呈している場面さえも、私は目撃した。
 主任技師が、その手中にある機械力を有効に利用しないで、人間の労働力にばかり依存しすぎているという意味の「批判」を、近くで聞いていて私は彼の言葉から聞きとった。
「仕事の鬼だ」
と私は呟いた。最初に彼の高圧的な態度に感じた強烈な反撥は、吐け口のないままに、その後の私の心のなかで次第に内攻の度を強めていたが、それと同時に彼に対する新鮮な興味が私の心のなかでますます大きくなって行った。
 相手に嫌われるにきまっている言葉を、たとえ監督する立場にあるとはいえ、いつでもずけずけと言ってのけるのは容易なことではないが、なにがいったい彼にそれを敢えてさせるのだろう?〉(p.309)

 高杉は日本の小市民生活のなかで自分が接してきたあれやこれの人物にたとえてソ連の役人たちを理解しようとしてきたが、カリャーモフこそが自分の理解をこえた「ソヴィエト的人間」ではないかと考えるようになる。

〈カリャーモフの高圧的で、官僚主義的な態度には依然として猛烈な肉体的反撥を感じる私が、一切の感傷と饒舌を無視して、ひたすら実務——労働の組織に没頭している「仕事の鬼」のような彼の態度に、ソヴィエト・ロシアのポジティヴな人間のタイプを見ないわけにはいかなくなったのである。彼は私がいままで日本で想像していたコムニストのタイプとはちがって、饒舌をたのしむというようなところは全くない。その性格に、いわばすこしも無駄がないのである〉(p.314)

 ぼくはこれを読んで不思議に思った。「仕事の鬼」というのはどこにでもいるはずである。なぜ高杉はそれを新鮮に感じたのか。その謎を解くカギは、おそらく上記引用の後半にある。〈私がいままで日本で想像していたコムニストのタイプとはちがって、饒舌をたのしむというようなところは全くない〉という一文には、高杉のコミュニスト像が反映しているのだ。
 高杉にとって戦前日本で接してきたコミュニストというのは、おそらくインテリゲンチャとしてのコミュニストなのだろう、と想像する。黒澤明監督の映画「我が青春に悔いなし」に出てくる、結果的に「転向」してしまう学生あがりの活動家がいるが、ああいう感じではないか。インテリ的に天下国家は饒舌に論じる。サロンで仲間たちとそれを論じたりするのは大好きだが、粘り強い、捲まず撓まずの地道な実践には縁がないというようなタイプである。
 19世紀のインテリ出身の革命家像というのはこういうタイプが多かった、と思う。ロシアでもたとえばプレハーノフなどはこういう西欧的伝統に属する知識人だったとぼくは推察する。

 そうしたインテリ的なコミュニストとは違った形の「コミュニスト」を高杉はカリャーモフに見ようとしたのではないか。

 高杉は、厳寒の日に暖をとるために集会所にたむろしていた日本人俘虜たちが、カリャーモフに追い出されたことを、カリャーモフに抗議する。高杉はカリャーモフに自分について本部に来るように命じられる。高杉は、きっと自分はひどい報復を受けるのだと覚悟して本部に行くと、

〈彼は私を椅子に坐らせ、自ら扉を閉めると同時に、
「君は正しい」
と言いだして、私をびっくりさせた〉(p.320)

 カリャーモフは、温情をもって接しろというお前の意見は実に正しいが、それでは帝国主義者たちの準備している戦争にたいする備えを期限までに建設できない、とソ連が直面している課題について真剣に論じ始めたのである。

〈「……僕がこの現場の作業をよく組織するか、あるいはへたくそに組織するかは、われわれの大業が勝利するかどうかを決定する。僕はどなりたくない。しかしどならなければならないのだ。労働者が一〇分休むところを一五分休んでいたら、僕はどうしてもどならずにはいられない。わかるだろう、君。
 どうか僕の気持をここで働いている日本人の全員に伝えてくれたまえ」
 「ソヴィエト的人間」と言われるもの、コムニストのなかでもとくに光栄をもって「ボルシェヴィク」といわれるもののタイプが、はじめて私にも理解できたように思えた〉(p.321-322)

 カリャーモフは、『鋼鉄はいかに鍛えられたか』などで有名な作家『ニコライ・オストロフスキイの生涯』を高杉に渡し「貸してあげよう。読んでみたまえ」と言った。また、カリャーモフが日本人俘虜の歌う「私のモスクワ」の合唱を聴いたとき、涙を流していたのを、高杉は目撃する。

〈……私は感動した。彼は感傷には全く縁のない人間だと私は決めてかかっていたのだが、それは私のまちがいであった。彼の感傷を触発するものがわれわれの場合と異なるというだけのことである。実は、彼ほど感傷的な人間はいないのかもしれない〉(p.323-324)

 インテリ的なコミュニストから大きな転換をとげたのはレーニンであろう。饒舌とは無縁で、目的を遂げるために思考する機械のようにひたすらそれに没頭し、徹底的に貫徹するというイメージはぼくのレーニンのイメージそのものである。
 ソ連研究者である渓内謙がレーニンについて、まぎれもなく19世紀の西欧的教養知性の最良の部分を受け継いだ存在だと評したように、レーニンにはインテリ的な側面があった。同時にそれを徹底した実践と実務に変換する側面もあった。内戦と干渉戦争を戦いぬいたその近代機械のような貫徹力こそが革命を成功させた一つの原動力であったと思うし、おそらくボルシェヴィキ全体がその両者の結合であったのだろう。
 スターリンもまたその両側面を受け継いでいたのであろうが、後者が格段に肥大化し、実務の化け物のようになっていったのだ、とぼくは推察する。レーニンが「書記長」ではなく、スターリンが「書記長」=事務局長であったのはまさに実務家としての延長に彼が存在し、それこそが官僚国家にはふさわしかったからであろう(そしてどちらかといえば西欧的知性の側面を代表していたトロツキーやブハーリンは「粛清」されてしまう)。

 スターリン的な国家は、ぼくのめざす共産主義ではない、ということはきちんと述べておきたいが、レーニンおよび初期ボルシェヴィキたちのような教養的知性と革命実務の結合は、ある種のコミュニストのイメージではある。
 このようなコミュニストは現代のぼくの回りにたくさんいる。そしてそのようなコミュニストこそ、ぼくがイメージする「優れたコミュニスト」の典型である。カリャーモフはスターリン体制を支える官僚には違いなかったのだが、おそらく高杉がみた不思議な人間形象とは、このようなレーニン=ボルシェヴィキ的な人物であったのだろうと思われる。

 高杉はシベリア抑留という苛酷な体験のなかで理性を忘れなかった。だからこそカリャーモフのような人間の理解にまで到達し、カリャーモフに感動することさえできたのだ。本書における高杉の人間描出が傑出しているのは、まさにそのような理性の力であろう。
 





『極光のかげに シベリア俘虜記』
岩波文庫
青183-1
2010.4.3感想記
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