ほしよりこ『きょうの猫村さん』 市原悦子「家政婦は見た!」シリーズの、市原を猫にした漫画。 なんだそりゃ、と思う人もいるかもしれないが、そうだとしか説明のしようがないのである。 全編が鉛筆画のような調子で描かれ、絵のトーンは、天久聖一・タナカカツキ『バカドリル』シリーズや、長尾謙一郎『おしゃれ手帖』を思い出させる。 ネット上でひとコマずつ「連載」し、しだいに人気が出て単行本化されたものである(サイトはこちら)。 「テレビドラマはおそるべき俗論の支配する世界である。見るひとを選ばず(選べず)、誰もが脇見をしながらでもわかるようにつくるのだから無理もない。なにしろタダである。読者に一定の緊張と思考をもとめ得る表現ジャンルであるマンガが、テレビの真似をするのはいかがなものか」 と書いたのは関川夏央(『知識的大衆諸君、これもマンガだ』)。 まさに「テレビドラマのようなもの」を漫画にしてしまった本作は、全編これ驚くべき通俗、ベタさが貫徹されているのである。 猫である主人公猫村の家政婦としての職業的矜持。「ひと(猫)に歴史あり」という猫村の自分史。そしてドラマ。 猫村が奉公した犬神家の娘は「不良」(死語)で、誰にも心を開かず、出来のよさそうでない友人たちを家にひきこんでいる。 猫村は食事をおくが娘はいっこうに食べようとしない。 しかし猫村はめげずにときには娘に説教したりしながら、全力でぶつかっていく。 かたくなに猫村を嫌う娘もやがて置いておいた食事を食べ始め……こう聞けば、どれほどこの物語がベッタベタのベタベタベタベタであるかおわかりいただけるだろう。 ぼくは、いったいこの漫画の何が受けているのだろうかと不思議に思った。 かくいうぼくは、半ばあきれながら、ついに最後(1巻)まで読み終えてしまった。 奇妙な現象は、職場の上司(40代末※)の反応だった。朝くると、『きょうの猫村さん』を熱心に読んでいるのである。「何が面白いんですか」と聞くと、「いやーうちの○○(飼い猫)にそっくりなんだよ。○○がモデルなんじゃないのか」などと“親馬鹿”ぶりを発揮。彼は、あっという間に通読してしまった。 ふたつ考えられる。 ひとつは、意識されたベタさ。 サイト「積ん読パラダイス」で谷口隆一は、ライトノベルである谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』を評して次のようにのべた。 「絡むキャラクターたちもそれぞれが実に類型的。眼鏡をかけた文学好きの寡黙な少女がいて、小さいけれどグラマラスな気の弱い少女がいて、二枚目だけれど妙に人のよい美少年がいて、といった具合に並べればゲップが出そうな面々がズラリ。読む前から役割分担すら想像できてしまうし事実、見かけの役割もそのままズバリだったりする。/けれどもどこかズレている。というよりズラされている。ありがちな世界観の上でありがちなキャラがありがちなドラマを演じていく、そんな物語の中でありがちな安心感に浸ろうと思ってページを繰っているうちに、気が付くととんでもなくねじくれた世界へと身を導かれ、どうしようもなくひねくれたキャラたちによる、とてつもなく壮大にして深淵なドラマを読まされている」 ぼくは、『きょうの猫村さん』を読んで、この感想に近いものを感じた。 徹底したベタを演じ切るなかで、微妙にズラされている世界がもちこまれるのだ。 たとえば、猫村さんが家政婦紹介所ではじめて一軒まかされるとき、興奮のあまり眠れず、思いあまって「爪をとぐ」というシーンが出てくる。酒をあおったり、素振りをしたりするのではなく、「爪をとぐ」という急激な猫らしさがもちこまれて、ベタをマジに演じているのではなく、どこか斜に構えているという冷気が流れ込んでくるのだ。メタな視点をもっているくせに、ほぼ忠実に演じ切ろうとする作者の態度によって、この作品世界に強く吸引されてしまうのである。 斎藤環は、「おたく」の演技性について次のように論じたことがある。 「おたくにはこうした〔マニアのような――引用者注〕『実体』や『実効性』への志向がむしろ乏しい。彼らは自分の執着する対象に実体と呼べるものがないこと、その膨大な知識が世間では何の役にも立たないこと、あるいはその無駄な知識が(とりわけ「宮崎勤」以降)軽蔑され、警戒すらされることを知っている。そして、それを承知の上で、ゲームのように熱狂を演じて見せあうのだ」 「『おたくの熱狂』は『マニアの熱狂』よりも演技性が高いのだ。これはつまり『熱狂』というコードで他のおたくに交信しているような状況を指している。そうはいっても、けっして醒めているわけではなく、かといって我を忘れて熱狂しているわけでもない。この『斜に構えた熱狂』にこそ、『虚構コンテクストに親和性の高い』おたくの本質があるだろう」(斎藤『戦闘美少女の精神分析』) この「演技性」、「斜に構えた熱狂」に通ずるメンタリティが、市原悦子のベタさを徹底してなぞり、ときにズラしてみせる『きょうの猫村さん』にはある。 おそらく、ほしよりことその読者は、高感度なヲタクである。 もうひとつ、この漫画が受け入れられる要因として考えられることは、「猫への愛」である。 これはぼくには信じられないことだが、ブログなどでこの作品について言及したものには、意外にも「猫村さんの猫としての愛らしさ」を核心にしたものが少なくないのだ。 え、これが猫漫画? 猫愛好の奥深さに戦慄を覚えるのは、ぼくだけではないはずだ。 冒頭にものべたとおり、うちの上司の反応の意外さ(異常さ)がぼくにとっては、その経験的証左となった。「いや、この猫村さんって絶対、うちの○○なんだって。ほら、そっくりだろ」などといいつつ、パソコンのデスクトップ画面いっぱいに貼られた猫(○○)の巨大な寝顔をぼくに見せてくる。 ちなみに、ヲタク文脈力のないうちの上司は、『きょうの猫村さん』のベタさを、メタではなく、マジに読んでいるものと思われる。つまり、「金八先生」を見て涙するのと同じ地平で『きょうの猫村さん』の展開するドラマに入れ込んでいるのである。 巻末に、ほしよりこの経歴とともに本作について「幅広い年齢層に親しまれている」と書かれているが、それはヲタク感性+猫愛という、ウィングの広さに秘密があるのだろう。 ※はじめ「50代」と書いていたら、ある日、「私はまだ40代ですが」という訂正要求が! どこで見られているかわかったものではない。 |
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