新城カズマ『ライトノベル「超」入門』




 職場の同僚と飲んで(ジョッキにビール1杯)別れたあと、地下鉄に乗っていたら急に気分が悪くなる。激痛。脂汗がダラダラ。「寝不足で疲れているときに飲むと出るアレだよ」と、気が遠くなりながら思う。急性腸炎みたいなやつだ。
 もうダメ。と思った矢先、到着駅が見えてきた。天国の光のようだった。しかし、電車が止まるまでが異様に長く感じられ、ドアが開いたとたん、まろび出て、まずは目の前のベンチにへろへろとたどりつく。
 失禁の危機というのではなく、激痛で倒れそうになるのだ。前、これに遭って、飲み屋(チェーン店系)で救急車呼んだなー。店長らしき男が青くなって「呼ばないでくれ」と叫んだが、ぼくの友人が「何言ってんですか!」と怒鳴った。ありがたいなあ、友人。いやそいつは本当の親友だと思ったね。
 ベンチにすわっていていったん波がおさまる。次の波が来るまでが神が与えたチャンスだと、このときばかりは有神論に転向し、よろよろとトイレになだれ込む。
 どうにか最悪の事態だけは脱するが、家につくや「うう」とうなり、つれあいに布団をひいてもらって倒れこむ。寒気がして熱が38度に。

 これが金曜日の夜。

 というわけで、土曜日は完全にダウン。
 日曜日も仕事柄出る必要があったけども休ませてもらった。
 なのに更新しているんだが、それは書きためたものがあったせいなので、同僚がもしこのページを読んでいたら勘違いしないでくれ!


 さて。ウォッホン。

ライトノベル「超」入門 ソフトバンク新書 この本は、筆者が想定したというターゲットとは完全に外れている。
 筆者の新城が想定している「対象読者」が「はじめに」に出てくるが、

  • 「ライトノベル」という言葉を聞いたことがあるが、なんだかわからなくて気になっている方
  • ライトノベルは昔読んだことがあるが、最近はすっかり御無沙汰で「あれっていったい何だったんだろう」と思っている方
  • じぶんの子供もしくは生徒が最近「妙にイラストの多い小説」を読みはじめたので、どうしたものかと悩んでいる方
  • 四十歳以上の方
  • 平日にネクタイをしめている方

などが並ぶ(もちろん「ライトノベルを書いてみたいなあと思っている方」など項目もあるが)。つまりライトノベルの「外」にいる人を対象にしているわけだ。
 正直、このような人が読んでいるとも思えないし、読むのも不適当だと思うし、読んでもよくわからないのではないかと思う。

 むしろ、新城が「ただし」と書いた、

「ライトノベルは知っているし普段から読んでいるし、それどころか最近急に増えはじめた解説本もぜんぶ目を通しているが、またまた類書が出たというので『どうせつまらんことを書いているのだろう』と思いつつも、つい手に取ってしまった方」

というタイプの人が圧倒的多数だろう。ネット上やブログでの評判はこのテの人々がほとんどである。
 初心者への案内というよりも、専門家のエッセイであり、ブログなどでも書かれている言い方を借りれば「ぐだぐだ話」の面白さなのだ。

 たとえば、新城が最初に書いた「対象読者」が、新城の次のような記述を読んで理解できるだろうか?

「“属性”という表現も、最近は『キャラ』と並行して用いられます。いわゆる『おたく文化』のなかでは、かなりの新参者といえましょう。田丸浩史などの美少女ゲームに発祥し、近年には『げんしけん』などの影響で大いに広まりました。意図的ではないにせよ、『ああっ、女神さまっ』も『属性』という表現を一般化するのに一役買っています」(p.125〜126)

 「属性」「田丸浩史」「『ああっ、女神さまっ』」には註がついているのだが、言葉の意味はおぼろげにわかっても「じぶんの子供もしくは生徒が最近『妙にイラストの多い小説』を読みはじめたので、どうしたものかと悩んでいる方」には感覚がまるでつかめないはずである。

 新城はまず「ライトノベルってなんだろう?」という章をおこし、ライトノベルの「定義」に80ページを割いている。この「定義をめぐるぐだぐだ」はライトノベル議論をするさいに必ずやってしまうことなのだが、「対象読者」的な人からすれば「どーでもいいこと」ではなかろうかと思う。

 新城は冒頭に「時間がない人のための400字解説」をつけ、「ほんとはそうでもないけど」と断わりをいれたうえで「世間的には“アニメっぽいイラスト付きで会話文の多い、若者むけの軽い娯楽小説”」と定義しているのだが、「対象読者」的にはこれで終わりといってもいいだろう(そういう意味では新城が冒頭にこの解説を設けたことは実に適切である)。

 80ページかけて新城がやっているのは、ライトノベルが、いかに他のジャンルとは違うか、あるいはジャンルに収まらないかという話を「ぐだぐだ」しているということで、彼は結論的に「ライトノベルは、いわゆるジャンル・フィクションではない」(p.70)という自分の仮説を紹介する。

「あまりにも簡単すぎる定義は、なるほど主要なものを総括するので便利であるとはいえ、定義すべき現象のきわめて本質的な特徴をその定義から引きださなければならないとなると、やはり不十分である。だから、定義というものはけっして現象の全面的な関連をその完全な発展のうちにとらえうるものではないという、一般にすべての定義のもつ条件的で相対的な意義」(レーニン『帝国主義論』p.115、国民文庫版)

 定義とはもともと不完全なものなのだ。
 あらゆるものが不断の運動のうちにあるのだし、とくにライトノベルのような、発展の激しい分野はこれをとらえることがほとんど不可能だろう。すべてのものをきっかりと境界線を引こうとする悟性的なメンタリティにかかずりあっていると、人生の貴重な時間をつぶす。

 本当に実証研究にもとづく「定義」には厖大な蓄積が必要なのであって、作家たる新城にそういうものは誰も求めておらんのだ。杉浦由美子の『オタク女子研究』のときもそうなのだが、その道にまみれている者が独断でビシリと規定するところに、面白さと、そして思わぬ真実の深みがあるのである。それなのに、このテの本に対するネットレビューには「あれがないこれがない」式の「足りないもの」指摘が多くてうんざりする。

 ライトノベルの独断的な定義といえば、今年(06年)2月14日付に「しんぶん赤旗」で望月倫彦というライターが行っていたものがきわめて深い。

 望月は、

「傾向としてはマンガ・アニメ調イラストカバーと挿し絵がある本、あるいは……」

などとまずは表面的な定義を紹介するのだが、「この説明は『正確な定義はない』と留保をつけられることが多い」とそれをいったんひっくり返し、「そもそもライトノベルとは『1ジャンル』として確定できない要素を含んだ用語と考えなくてはいけない」と、新城と同じ結論に達している。
 そのうえで、望月は、次のように規定する。

「これを私なりに定義づけるなら、ライトノベルとは主に中高生の読者が『こんな小説を自分も書いてみたい(書けるかもしれない)』という共感を抱く作品、およびそのような敷居の低い読者と作者の関係性を指す言葉であり、ジャンルではなく現象なのである。大正時代の若者が白秋や犀星や朔太郎に刺激されて詩を書きたいと思ったような情熱が、今のライトノベルという現象を支えている」

 これはなかなか言い得て妙な定義である。
 実は、新城もこれに近いところまで行っている。
 新城は残念ながら「ライトノベルという手法」という言葉にして章立てをしているのだが、この「手法」という言い方は非常にわかりにくい。本文中で新城がのべているように、

「ライトノベルっていう現象自体は、その名称も含めて狭義の意味では、八〇年代から始まってる新しいことなんですけど、『ライトノベル的な手法』『ライトノベルっぽい考えかた』というのは、歴史上何べんもやられてきている。いろいろな社会経済的条件が一致すれば、同じような文化現象がおきる(こともある)」(p.212)

という「現象」「文化現象」という言い方のほうが、望月に近く、この方が事態をより明確に伝えている。「文化運動」とさえいってもいいかもしれない。

 なぜなら、ライトノベルを読んで、ぼくも「敷居の低さ」を感じて厖大な量の小説を書いたのだからな!(数年前の話だが)

 新城が「手法」という言葉を使っているのは、「四十歳以上の方」「平日にネクタイをしめている方」といった「対象読者」に、ライトノベルのなかにある発想や方法、視線、遊び方が、実は古典小説や文芸のなかでもおこなわれてきたことの「くり返し」、今日的形態なんですよ、ということを言いたいためなわけだが、新城の、寄り道の多いペダンティックな言い回しのなかで、問題の本質がシャープに伝わってこない。
 まさに「ぐだぐだ語り」だ。

 本当に「四十歳以上の方」「平日にネクタイをしめている方」に読ませようと思っているのであれば、第2章のキャラ論やキャラ・属性の類型化はまったく不要なものだった。やるにしても、ごく一部分をていねいにとりだして時間(字数)をかけてかんでふくめるように論じるべきだったのだ。


 ところで、さっきものべたとおり、新聞でもよく何かの事件で、何の事情も知らない作家などがコメントを求められるのは、そういう実証性や専門性ではなく、事態を粗づかみにとらえつつも抉る言葉をもっているのではないかという期待からであって、作家が新書で書く程度のことが何が厳密な実証の上にあるとは、ぼくはとうてい思っていない。

 その点でこの本は「だれか専門家の方調べてください」式のことわりがしつこすぎる。実にしつこい。

  • 「あいにく僕は文化史の専門家ではないので、これはまったくの仮説、というか空想です。どなたか、このあたりの若者画像文化の変動史をまとめて分析してくれると、本当にありがたいんですが」(p.48)
  • 「戦後アニメ史から見たライトノベルにおけるイラスト技法の分析、というのもできるかもしれません。どなたかご専門の方、よろしくお願いします」(p.107)
  • 「コミケについては、とても一言では説明できませんので、脚注を御覧ください。それでも分からない場合は、近所の大型書店にかけこんで関連書籍を探してください」(p.109)
  • 「この本はあくまでも『ほんとに何も知らない初心者むけ』ですので、ライトノベルのイラストの変遷を垣間見ることのできるものを中心に、あくまでも概説としてまとめてみました。けっして『ライトノベルにおけるイラストレーション』のすべてを網羅したわけでもなければ、確立した史観であると主張しているわけでもありません。その点、どうか御了承ください」(p.119)
  • 「もっともあくまで『いくつかをピックアップ』ですから、誤解なきよう。すべてを網羅してきちんと説明することは、この本の二倍の厚さを費やしても不可能だと思いますよ」(p.138)

 最初に一回言えばいい!(ところで、このp.261〜262に経済の話をしてやはり「専門家の指摘をお待ちしております」と述べている箇所があるのだが、この部分が「量的緩和解除」だの「住宅を担保にして盛り上がっていた国内消費」だの「信用乗数」だのという言葉が信じられないくらいに浮き上がっていて、読んでいて可笑しい)

 ただし、たとえば歌舞伎とライトノベルの類似点を比較しているけども、そのときに「といっても、歌舞伎の技法が直接にライトノベルに流れ込んでいるんだとか、おたく文化は江戸期(もしくは平安期)から連綿と続く文化様式の最新の発露だとか、そういうバカみたいな日本文化ショーヴィニズムでは全然なくって」(p.205)のような節度は、たいへん心地よい。すでに議論のある部分にはちゃんとわきまえてますよ、という身振りは簡単にでもあると、ひっかかりなく読めるというものだ。

 まあ、実際にはライトノベルのヘヴィー読者にウケているようだから、当初のねらいは外れたとはいえ、新城としては本望なのではあるまいか。

 




ソフトバンク新書
2006.5.22感想記
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