比古地朔弥『ラブ・クラシック』


 奇妙な漫画だ。

 山本直樹が編集長をつとめる漫画誌「エロティクスF」に連載された漫画で、ざっくりいえば、明治から昭和初期にかけての時代設定をした、「官能」漫画の短編集なのである。

 どの話も、題材をみれば、いまのエロ漫画や萌え漫画(?)が好んで題材にしているものが多い。つまり欲望表現の格好の標的なのである。

 たとえば、冒頭の「背中合わせのリルケ」は、ある田舎駅を使って通学する、おたがいに名も知らぬ男女の学生の話で、2人はいつもきまったベンチに背中合わせに腰をおろし、男子学生は女子学生が朗読するリルケの詩を――その声を――聞き惚れている。女子学生はまったく男子学生には気づいていないふうで朗読を日課にしているのだ。
 ここでは、セーラー服を着た女子学生というものへの、もっとも原初的な「禁忌」のイメージが保存されており、男子学生はそこに秘密に欲望をむけている。

 また、「ゆく春の」という短編は、いわば日本的メイドの話である。
 主人公の女性の奉公人が、病弱で体が不自由な「坊ちゃん」の自慰を偶然手伝うようになる話。

 「しらゆり慕情」は、旧藩主の「若様」が正式に婚姻をとげる前に、美しい「女中」を「練習台」として夢のような一夜をとげるという話で、「熟女」に性的に翻弄される少年の悦びという、陽気婢あたりが好んで描きそうな「萌え」である(すいません、陽気婢の悪口をいっているのではありません)。

 が。

 ぼくは比古地朔弥という人の漫画を初めて読んだのだが、『夢幻紳士』などを描いた高橋葉介を彷佛とさせる絵柄で、正直、「萌え」とは縁遠い。「ゆく春の」に出てくる奉公人の女性は、わざわざ「ぶさいく」(サザエさんに出てくる花沢さんのように)に造形されている。
 しかも。
 戦前日本の人間関係がよく描けてしまっているのだ。『サクラ大戦』のように、時代の空気だけを借りてくるというのとはわけがちがう(あ、これも『サクラ大戦』の悪口ではありません。それはちゃんとした『サクラ大戦』の方法論です)。

 時代を「戦前日本」に設定してしまうことによって(※「背中合わせのリルケ」だけは戦後)、「主人/メイド」という人間関係、「若殿/女中」という人間関係は、ファンタジー的なリアリティとはまったく別の、日本的空間における湿潤をもって、奇妙にリアルな形で、われわれに迫ってきてしまう。戦前の日本では、暗く湿った人間関係のなかで、強い上下の圧力を加えられた性関係をむすぶことこそが、現実的リアリズムなのである。
 戦後民主主義(※)が開花し、サブカルや欲望表現、そして欲望が無制限に追求される社会のなかでこそ、「メイド的奉仕」や「セーラー服禁忌」といったテーマは、はじめて、現実にはない、ファンタジーの地位を確立することができる。
 この『ラブ・クラシック』では、斎藤環が「日本的空間でリアリティを支えるものはセクシュアリティである」といったことが、虚構やファンタジーのなかではなく、現実の歴史の空気の中でストレートに響いてしまっているのだ。

 つまり、本作は、「萌え」の題材をふんだんに配しながら、欲望の屹立を許さず、逆に、非常に狭義の意味での「リアリズム」になってしまっているという、奇妙な作品群なのである。

 この単行本のために書き下ろした「白曼珠沙華」は、とりわけそうである。村の遊び人に強姦され堕胎した主人公は、せっかく玉の輿にのって貧困から抜けだせると思ったのに、すべてがぶちこわしになる。
 ここにはセクシュアリティを媒介にして、戦前日本の貧困をリアリズムで描くという、おそらく作者は企図もせぬ手法が浮かびあがっている。エロや欲望表現は、片鱗さえも見当たらない。主人公の貧しさやつらさ、かなしさだけがひたすらに伝わってくる。

 漫画誌「エロティクスF」は、挿入の性交にだけこだわる、貧しい、パターン化されたセクシュアリティ表現をのりこえて、ほんとうに欲望的な表現、日本的空間でリアリティを支えるようなセクシュアリティ表現を追求している、希有な漫画雑誌である。

 『ラブ・クラシック』は、そんな雑誌のなかで、奇妙な古典的リアリズムを突然たちあげてしまった、ふしぎな作品である。ちっともエロくない。



※戦後民主主義という概念は変遷しているし、また現実には全面的に開花したことはない。このあたりは小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』にくわしいが、ここでは非常に俗に使われている言葉としてとりあえず使っとく。

太田出版
2003.12.4記
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