吉田秋生『ラヴァーズ・キス』

※いちおう、前々回前回のつづきなのです。




 吉田の『BANANA FISH』を実家の蔵に入れてしまったために、仕方なく漫画喫茶で読み直したのだが、やっぱハマるわー、これ。ぼくは、その瞬間、マンハッタンの住人の一人でした。

 関川夏央は、『BANANA FISH』を評して、「この物語の登場人物はすべて体臭を持たない」と述べた(※1)
 アッシュと英二という二人のハイティーンの男性が主人公格で登場するが、彼らにたいしても、「アッシュは性的虐待の被害者ではあっても、ホモではない。英二はいつしかアッシュの妻のような位置を占めるが、性行為は存在しない」「登場するすべての少年たちは女性に関心を示さない。悪魔のような美少年アッシュの描写はきわめて性的だが、性行為は一回も描かれず、アッシュを含めて全員が女性を憎んでいるようでもある。しかしその一方で彼らは男性的であろうともしない」と評している。

 「体臭のない痩せた少年たちばかりの世界」――これが関川が『BANANA FISH』の核心だと見た点である。


 関川が「体臭」と表現したものは、いわゆる豊かな現実の根であって、それをバッサリいったん断ち切ることによって、表現は鳥のように自由になれる。性を超え、民族と言語を超えた「童話」たりうるのだ。

 前回、ぼくがヲタ的表現を、「現実との連関をバッサリ切った」といったのは、必ずしも悪口ではないわけである。虚構が持つ自由さのためには、必要なことなのだ。ヲタが、虚構が現実ほどダサくならないと思い定めている底には、この自由さがある。


 吉田秋生『ラヴァーズ・キス』の登場人物たちも、やはり「体臭」を持たない。

 湘南の高校を舞台にした、オムニバス形式の物語で、タイトルの通り、恋人たちがかわす、あるいは恋情を抱く人間がつくりだす「キス」がどの短編でもメインにすわる。
 まさに、その「キス」の美しさを描き出そうというのが、この作品のテーマで、それは見事に成功した。管見ではあるが、恋愛漫画のなかでも、屈指の美しさをもつ、といえる。

 本編は3つに分割されている。
 ひとつは、boy meets girl. 美形だが悪い噂の絶えない藤井朋章と、川奈里伽子の物語。
 ふたつめは、boy meets boy. 藤井に恋心を抱く藤井の後輩の鷺沢高尾(男)と、高尾にやはり恋心を抱く関西弁のゴツい男、緒方篤志の物語。
 みっつめは、girl meets girl. 里伽子の親友でやはり里伽子に恋心を抱く尾崎美樹(女)と、里伽子の妹で、姉に反発しながら、美樹を密かに慕う川奈依里子の物語。

 「体臭」を持たない――すなわち、現実がもっている余計な夾雑物は極力排除された、水晶のように美しい世界が展開される。
 吉田が『ラヴァーズ・キス』で描くコマの多くは、白みが多く、そのことが余分なものを一切切り捨てている印象を与える。ぼくらが体験したような汗と精液と鼻水とヨダレにまみれた高校生活は、ない。ここには美しいものしか描かれていないのだ。

 登場人物が体臭を持たないがゆえに、読者であるぼくらは、性の壁さえ楽々と飛び越えることができる。
 ヘテロであろうがホモセクシュアルであろうが、ここで描かれている恋愛をどれも美しいと思うのはぼくだけではないはずだ。

 鷺沢が線路をまたいだ向こう側のホームで、見つめあって微笑みあう藤井と里伽子を見つける。「昔 こんな光景を見たことがあった」――鷺沢のモノローグ。小さいときに高熱を出して早退するとき、まったく似た光景を鷺沢は駅で見たことがあった。
 やはり高校生のカップル。
 まなざしだけでお互いがどんなに愛しあっているかが、わかる。
 それを鷺沢は子どもの時に見た、というのだ。
 その男女は、電車が来たとたんに消えた。
 鷺沢はそれを「幽霊を見た」と総括した。
 そして、「幽霊」こそが、幼かった鷺沢には「何よりも確かなものに思えた」という。「おれはあんなふうに だれかを好きになりたいと思った」――それは、儚いようにみえる愛こそが最も確かなものだという、「唯愛論」ともいうべき確信の、見事なまでの表現である。

 だからこそ、鷺沢は、対岸のホームで見つめあう藤井と里伽子を見て、そっと涙を流す。「同じ思いでだれかを見つめ 同じ何かを共有したかった」という鷺沢の子どものころの強い思い。眼前で繰り広げられているその幸せな光景の中に自分はいないのである。
 この涙の美しさ、そして哀しさ。


 『ラヴァーズ・キス』は確かに、煩わしい現実の芥をできるかぎりそぎ落としたところに成立する美しさではある。セックスが終わった藤井と里伽子が描かれている、あるいは、各エピソードの扉絵に非常にエロそうなイラスト(パンティを脱ぐ瞬間とか)が配されているけども、そんなものはちっとも生々しくない。
 セックスに本当のエロティシズムなどないのだ、といいたげだ。
 『ラヴァーズ・キス』のなかで、セックスにおいてさえ「体臭」は脱臭されている。

 しかし。

 冒頭で、関川夏央が『BANANA FISH』の主人公アッシュは「体臭を持たない」が「きわめて性的」だと述べたのを紹介したけども、『ラヴァーズ・キス』においても、吉田は随所に性の臭いのチップをうめこんでおり、作品の表面はガラスのように美しいのに、その奥底から性の臭いが立ち上ってくるのである。

 吉田はいつも「体臭」のほとんどないような人間を描いているわけではない。
 その逆で、吉田は、たとえば人間にまとわりついている「性」の臭いというものに、もっとも自覚的で敏感な創作者の一人であろうと思う。
 『櫻の園』では経血臭までが漂ってきそうな空気を描きながら、魔法のようにそのなかから美しさだけを抽出してくる。『河よりも長くゆるやかに』では、精液の匂いが充満する男子高校生のリアルにまで下降してみせる。
 「日本的空間において、リアリティを支える最も重要な要因は、セクシュアリティである」(※2)という斎藤環の言葉のとおり、そのボリュームを自在に操ることができる人間は、日本的虚構の空間を制することができる。
 その「体臭」、「性の臭い」のボリュームを、吉田は作品ごとに自在におそらく調節できる。


 そのようにして、吉田は、目に見えないリアリティの装置(あるいははっきりと目に見える)のうえに、見事な「美しさ」を演出することができるのだ。
 だからこそ、吉田の描く美しさは、いわゆる「絵空事」には、ならないのである(ほら、なんかハズカシい言葉だけ描いて「美しい」場面を描いた気になっちゃうやつっているでしょ)。



 吉田はキスによって、ヲタ=甘詰留太は『年上ノ彼女』においてセックスによって、愛情の結晶を表現しようとした。
 ヲタクの表現は、その点で身もフタもない。
 だだ漏れ
 そうである以上、ヲタの表現は、犬小屋でお気に入りの骨をしゃぶるイヌのごとく、自閉している。一片の普遍性もない。吉田がその無臭性によって童話的な普遍性をかちえていることと対照的である。
 いや、別に、おれもそのイヌだからいいんだけどさ。





※1:関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文春文庫)
※2:「ユリイカ 詩と批評」2001年8月臨時増刊号

ラヴァーズ・キス小学館文庫
小学館 別コミフラワーコミックス
全2巻
2005.2.6感想記
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