星里もちる『ルナハイツ』/68点

 「かわい女子と寝て暮らそ」

 日本で最初に発禁処分になったレコードの歌詞である。
 近代の一つの新しい女性像を示した女優・松井須磨子が歌ったトルストイの劇中歌の一節だ。天皇制権力にとって、この欲望は目もくらむほどに危険な思想だったようである。逆にいえば、近代の男性の欲望の原型の一つであろう。

 星里もちるが描いてきた欲望は、『りびんぐゲーム』以来、一貫してこれであった。
 しかも、そのうち、「暮らそ」という点に、多くはアクセントがおかれている。
 『りびんぐゲーム』『オムライス』『気になるヨメさん』は典型的なそれで、かわいい女の子と一緒に住むというテーマが正面から扱われている。
 それ以外の、たとえば、『結婚しようよ』『夢かもしんない』でも、やはり好きな女性と「暮らす」(または「暮らせない」)ことへの執着が強い。
 タッチをガラリと変えたといわれた、近作の『本気のしるし』でさえ、浮世という謎の女との同棲を欲望的に描いている。

 そして、最新作『ルナハイツ』である。

 完結していないので早急な結論は出せないが、『本気のしるし』で変えたはずのタッチを再び元にもどし、『オムライス』でみせた「美女たちとの同棲」というクラシックな星里の作風へ回帰している。星里の一連の作品群をタイトルにつけるなど、ひょっとして星里自身はこの作品で自分のこれまでになんらかの総決算をしめすつもりかもしれないが、第1巻までを見るところでは、星里は自分の得意とする欲望領域へ帰ってきただけのように思える。

 『漫画学のススメ』を書いた日下翠は、『翔んだカップル』『みゆき』にはじまる80年代ラブコメ路線を特徴付けて「優柔不断で優しい男としっかりして頼れる女の子との組み合わせ」「主人公が好きな(本命の)女の子は何故か突然家に来る」「家に来た女性は主人公を無条件で好きになる」とのべた。
 女性に母性を求めようとする日本男性の特殊性を指摘した日下は、岸田秀の次の発言を引用する。

 「自分の下着を女が洗うことが愛の証だとおもえるというのは、やっぱりマザコンじゃないかな」

 『ルナハイツ』はこのほとんどにあてはまる、正統なラブコメである。
 第7話「おひかえあそばせ」のオチは、主人公「南條」のもとにおしかけ同居をすることになった女性同僚の一人、「まどり」が、南條の下着を洗う、というものである。ドンピシャだ。これは、星里的には、禁止的なまでに愛情=欲望表現なのであろう。


愛情表現としての下着洗濯(星里『ルナハイツ』より)

 婚約が突然破棄され、新婚生活するはずだった家は、会社によって女子寮にされてしまう。男性にとって不可避的な運命として、「美女たちとの同棲」という垂涎すべき欲望的日常が「押し付けられる」。
 まどりと南條の間にはやがて恋愛的な感情が芽生えていくであろうことが予感されるが、その必然性は何も展開されない。「好きな女の子は、ある日いきなり家にやって来る」(日下)のだ。

 そして、ラブコメのもう一つの大事な特徴として、日下は、家のなかで演じられる純愛と、家の外での「浮気」のセットをとりあげ(たとえば『めぞん一刻』の響子とこずえ、『みゆき』の2人のみゆき、『翔んだカップル』の圭と杉村、など)、「この、家の中の女と家の外の女とを、妻と愛人と言い換えるならば、なんのことはない、日本の男性にはお馴染みの発想ではないか」と鼻白む。

 星里の漫画の重要な特徴も、この「不倫」「浮気」相手の存在である。
 『結婚しようよ』では、ついにこの浮気相手と寝てしまう。『ルナハイツ』でも、婚約を破棄した婚約者(友美)と新しい同居人(まどり)とのあいだで主人公は揺れる。

 ラブコメの正統的継承者としての星里的主人公は、どれほど意志的に見えようとも、大局的にはハッキリと受け身だ。そして作品の全編が、その受動性にたいする、律儀な言い訳になっている。
 『本気のしるし』で主人公が惹かれる浮世という女性は、男を狂わせてしまうという“魔性の女”として、描かれている。「ぼくじゃない。あの女がぼくを狂わせる何かをもっているんだ」とでもいいたげだ。どれほどタッチを変えようが、『本気のしるし』はミステリーではなく、正統なラブコメである。

 だから、浮気でさえ、多くは星里のなかでは、女性側の能動性の結果、あるいは運命の強制によって、押し切られたものとして描かれる。『夢かもしんない』では、主人公の実家の納屋で、「あたし、加勢さんのこと、好きです!」と部下の女性に突然抱きしめられるのである。

 いやー、都合がいいねぇ。

 苦情ではない。欲望的な妄想として十全に機能していると誉めているのである。
 男性のマスターベーションの妄想は、現実の制約をすべてとっぱらって意識を解放するタイプと、妄想のなかでもきちんと理屈づけたドラマをつけるタイプとに大きく分かれる(本気にしないように)。
 星里の作品世界は、自分が本命の女の子と結ばれる、あるいは浮気相手と恋仲に陥ることへ、堅実な手続きをふみかためていくプロセスでもある。まるで棋士の一手一手のように、「渋面」をつくりながら、話をそこに追い込んでいく。しかし、一歩ずれて、それを眺めれば、あまりに手前勝手な、自分に都合のいい棋譜だとわかる。

 星里のラブコメはことほどさように都合がいい。
 そのドラマの中で、どれほど人間ドラマが展開され、登場人物たちが苦悩しようとも、ぼくにはその苦悩が伝わってこない。ヌルい、都合のいい世界での、「葛藤ごっこ」である。
 くり返すが、それをぼくは非難してはいない。
 ぬるま湯のような世界として、気持ちがいいこと、このうえないのだ。みごとな欲望表現たりえている。

 最後に、日下のラブコメ断罪をのせておこう。

 「少女漫画では、いつか王子様がやってきて、『そのままの君でいいよ』といってくれる。少年ラブコメでは、好きな女の子は、ある日いきなり家にやって来る(彼女以外のセクシーな女の子も言い寄って来る)。この両者に出会いはないだろう。未来は暗いのである」

 「今の十代、二十代の男性でも、なにがなんでも妻になる女性をみつけ、必死で口説いて連れてくるという発想がまだ確立していない。真面目ゆえに、女を口説く(ナンパする)のはみっともない、あるいは不良のすることだと思っている子もいる。……かくして無駄に歳ばかりとって行くということになる。彼らは一つの文化の過渡期にいるのだが、どうすればいいか誰も教えてくれないのだ」

 日下は、少女漫画やラブコメは進化していると希望をつなぎつつも、練習問題としてはもっと大人の恋愛小説をよむべきだ、とすすめる。

 星里の作品を、まじめな人間ドラマや恋愛ドラマとして読んではいけない。
 欲望の開花したすばらしき妄想として読むことがもっとも正しいのである。


 ※2巻の短評はこちら 3巻の短評はこちら

星里もちる『ルナハイツ』1巻(以後続刊)
小学館ビックコミックス(2003.12発行)
68点/100 年配者が読んでも楽しめる度★★★☆☆
2003.11.8記
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