鶴見俊輔『漫画の読者として』


 尊敬しているサイトから言及されることは、どのような形であれ、あなうれしや。

 そのことについては、最後に。
 以下に書くことにも関係しているので。

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 高校時代、友人が、

「マスオさんは賃上げ闘争もしないし、サザエさんがタチの悪いマルチ商法にハマって悩んだという話も聞かない」

といっていたのを思い出す。
 その友人にとって、「サザエさん」とは没社会性の象徴のような作品なのだ。

 しかし、それは、あくまでアニメ「サザエさん」のことである。
 長谷川町子が描いたもとの「サザエさん」は、新聞連載漫画だけあって、没社会性どころか、随所に社会ネタ、時事ネタを折り込んでいた。

 哲学者であり評論家である鶴見俊輔は、本書の中に収録されている「戦後漫画の思想」(1972年)と題する一文のなかで、「サザエさん」について、ある計算をしている。
 「サザエさん」第1巻(姉妹社版、1946年連載分)のうち、「同時代の社会史にでてくるような事件がサザエさんの家庭でとりあげられる回数」を数えると、78回のうち33回、41%にのぼる。内容は、引き揚げ、占領軍、買い出し、家庭菜園、伝染病、配給、代用食、燃料不足、英語速成コース、不良食品、ヤミ市場、郵便値上げ、男女同権討論会、警察民主化、復員兵、戦災孤児、台風対策、教師批判などである。

 鶴見によれば、「家庭」そのものを正面から扱った「サザエさん」の設定自体が、戦後直後においては、いちじるしく社会性をおびているという。

「大正時代につよくあらわれ、昭和の軍国主義時代には暗渠に入って、新聞の紙面などの公けの場面にはあらわれずに家庭内を流れつづけて来たこの家庭中心主義が、敗戦を機会に、もう一度、公衆の前にあらわれてきたという感じがある。この意味で、サザエさんには、新しさと同時に、それ以上に、成熟と安定がある。長い十五年間の軍国主義調の政府の宣伝にさえおしつぶせなかった民衆の生活思想を表現するものとして、この漫画は現れた」

 サザエさんにおいて、父たる波平は実によく笑われる。
 そのことについて、鶴見はこうのべる。

「この作品でも、父親が、娘に言われて、自分の言ったことのおかしさに気がつき、いちはやく笑いだしてしまうところに、いかにもサザエさん一家の家風があらわれている。このあたりが、戦後民主主義なので、嫌いな人はここのところが嫌いになるのだろう。私には、家庭内に戦前からひきつがれている家長の権威を、このように笑いをもって批判し、権威の側も、みずからをわらうことでかわってゆく過程が、戦後にたてられた一つの理想であったと思えるし、この理想をうまずたゆまず、二十六年くりかえしている長谷川町子に共感をもつ」

 家庭を描くことと、家庭から社会をながめること自体が、明るいリアリティをもったのが、戦後直後であり、それが戦後民主主義の前向きのエネルギーではなかったか、というわけである。


 鶴見は、この論文を書いた1972年の時点にたって、次のようにいう。

「大学でも、総合雑誌でも、戦後民主主義は評判がわるいが、『サザエさん』をとりあげて読みはじめると、戦後民主主義が色あせずにここにあることを私は感じる。政界や論壇の戦後民主主義の代表者の議論のように色あせて見えないのは、それが生活のスタイルをとおしてうったえる戦後民主主義の理想であるからだ」

「…(消費だけでなく生産の場でもあったサザエさん的家庭は)高度成長時代の日本の家庭から見れば一時代おくれた家風をのこしている原因であり、それは時代おくれであるとともに、現代の実際の家庭にたいして、戦後の理想を説くという理想主義的な役割をあたえている」

 鶴見は、1970年代になってもなお、サザエさんは色あせず、時代にたいする「理想主義的な家庭像」として君臨しているという。
 しかし、この結論に、ぼくは違和感を抱く。
 実際、鶴見がこう評した直後の1974年をもって、「サザエさん」は連載終了となる(休筆であったが、そのままそれが最後になる)。
 鶴見がこう書いていたとき、まさに「サザエさん」が色あせ、分解する直前の状態にあったのである。

 鶴見は、そこにのべたように、「サザエさん」的戦後民主主義が、高度成長という目標にとってかわられ、その乖離を大きくしていっていることを実は誰よりもよく見抜いていた。その乖離を「現実批判」として解釈しようとしたのであるが、それはあまりにも無理のある解釈であった。
 くり返すが、その乖離自身は、鶴見はよく見ていたのである。

 鶴見によれば、作品中の社会問題のとりあげ回数も減ってくる。
 1970年の第60巻では社会的事件の入ってくる作品は、96回のなかで27回で、全体の29%となり、1巻(41%)にくらべてぐんと減っている。サザエさん的家庭から社会をまなざすということが、まったくリアリティをもてなくなってきていたのである。
 かぎっ子が「サザエさん」のなかに登場するなど、核家族化が進行し、「およそサザエさんの家庭とはかけはなれた家風をもつ家庭」(鶴見)が満ちあふれ、サザエさんのような“3世代同居、一軒家”という家庭などどこにもいなくなっていく。
 鶴見は、サザエさんがカメラの操作が分からずに、若者に「アタマわりィなァ、もういいヨ」と捨て台詞を吐かれてしまうコマをとりあげ、「サザエさんは、若い姿をしたまま、ほんとうに若い人からとりのこされることになる」と指摘する。サザエさんは、確かに20代の若い女性だったはずだ。

 漫画「サザエさん」は、別の家庭像として、現代の家庭の批判者となるのではなく、単なる「時代遅れ」としてついに消滅していった。
 他方で、社会性をいっさい捨象したアニメ「サザエさん」のほうは生き残り、それどころか、現代にいたるまで「長寿番組」として、むしろ家庭アニメの王座の位置にいる。
 ぼくらは、誰しもがはじめ、カツオやワカメはサザエさんの「子ども」だと思ってあれを眺めていた。三世代の同居だと何かの拍子に知り、奇異な感じをうけたものである。
 かつ、サザエさんの髪型だ。
 あれはもともと、戦後の若い女性がしていた、頭頂部と、左右の末端のパーマを、デフォルメしたものであった。しかし、それが次第に記号化し、今見ると、化け物のような奇妙な髪型になっている。
 だが、誰もがそうしたことなどに奇妙さを覚えずに、見ていられるのが、死後の世界ともいうべき非現実空間「アニメ・サザエさん」である。一種のイコンであり、戦後民主主義の剥製のようなものをぼくらは見ているのだ。

 しかし、鶴見はそうは言わなかった。
 現実と、戦後の理想の乖離を直視しつつも、そこに理想を託そうとしたのが鶴見であった。
 そのような仮託をしたとたん、たしかに夏目房之介がのべたように、裏切られていった70年代評論の一つの典型であるように思われる。



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 さて、ここまで感想を書いてきて、ぼくは、この鶴見の批評を、その結論だけはいただかないにしても、それにもかかわらず、すぐれた批評だと感じている。

 夏目的区分にしたがえば、社会的まなざしをもった批評である。
 しかし、それは、社会批判をもりこんでいるから、社会事件を扱っているから「社会的」なのではない。
 いまのぼくらからすれば、たしかに鶴見の言葉はかなり生硬だ。
 社会批判の道具として漫画をとりあげているようにみえる。
 しかし、実は、そうではない。
 鶴見という個人は、戦争を体験し、その体験のなかから戦後民主主義というものにたいして、一定の期待感をもっている。鶴見にとって、戦後民主主義論は、よそよそしい、「社会」ではなく、「私」そのものである。鶴見は、控えめながら戦後民主主義を擁護する「私語り」をしつつ、「なぜサザエさんは面白いのか」を論じている。戦後民主主義というものを媒介にしながら、作品の醍醐味を語るのは、それが鶴見という「私」にとって自然だからである。

 同じように、ぼくらにとって、自然な「社会へのまなざし」というものがある。
 それがどんなものなのかを、あらかじめ、ぼくが言うことはできない。
 おそらく、鶴見とはまったくちがった「社会へのまなざし」になることであろう。

 サイト「漫画読者」子の言うように、ぼくらという個人は、社会から切り離された個人ではなく、社会的諸関係の総体であり、社会的存在である。
 しかし、それは“自らの社会的存在性に自覚的である”ということと同義ではない。子どもがそうであるように、「私」と「社会」はもっとも原初的な姿では、渾然一体となって「私」の認識なかにある。だからこそ「子ども」的感想においては、ぼくらはまことに無邪気に「私」と「作品」を語るのである。
 しかし、ぼくらは長じて、「私」と「社会」ということを概念的に(あくまで概念的に)分離して考えるようになる。ある時期には、両者はひどく対立したまま、放っておかれる。社会や他者から隔離された「純粋な私」というものがあると信じて、その「純粋な私」を探して彷徨したりもする。
 やがて、ぼくらは、自分が社会の一部であること、自分自身が社会的諸関係の総体であるという認識にいたる。たとえば「戦後民主主義」と「自分」という二つのものが、ある瞬間、自分のなかで統一される
 そのとき、「おとな」的感想ともいうべきものが出現する。
 「私」は、「私」を語りながら、同時に「社会」を見据えることが可能になる。それは一見すれば、子ども時代のように「渾然一体」となった姿のようではあるけども、実は、「社会」と「私」をいったん区別したうえで、再統一しなおした自覚的な姿であり、その人の目に映じているものは、ある意味で子ども時代と同じでありながら、別の意味ではまるで別のものであるといってよい。
 くり返すが、そうやって「私」のなかに再統一された「社会へのまなざし」とは、社会的事件をもりこんだり、社会批判をしたりするという狭いものではない。ある作品がなぜ面白いのか、なぜ悲しいのか、「よくよく考えて記述して、マンガと読者、それを構成要素とする社会のなかに位置づけ」るという作業の中にも、まさに社会へのまなざしは宿りうる、とぼくは思う。

 それがどれだけしなやかな言葉になるか、鶴見流にいえば「思考の柔軟体操」ほどのしなやかさをもつか、それは、「私」が「社会」の中の一人であるということに、どれほど自然でスムーズな認識をもつか、ということにかかっている。

 しつこいけども、その「社会」というものは、人によってそれをあらわす概念や表現はかなり幅があり、自由なものになるだろうと思う。
 漫画を語るさい、外から借りてきた、よそよそしい「社会へのまなざし」の言葉などは、だれも必要とはしていないのだ。


『漫画の読者として 鶴見俊輔集7』
筑摩書房
2004.11.30感想記
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