夏目房之介『マンガ学への挑戦』



 この本は、表題が示すように、漫画学の課題がどこにあるのか、という問題を、作者→作品→読者という大づかみな流れにそって、その概略的な見取り図を提示したものである。この大雑把な流れの中に著作権、制作システム、市場の問題などが入ってくる。

 しかし、そのなかでも軸になっている問題はやはり「進化する批評地図」という副題にもあるように、漫画批評の問題である。

 夏目は、この本の中で、戦後の漫画批評の方法の変遷をたどりながら、自分の批評方法、すなわち「漫画表現論」ともいうべき方法がどのように先行の批評の批判として確立してきたかをのべる。

 夏目の総括は次のようなものである。
 戦後、漫画批評は「教育論的漫画論」から出発する。すなわち、漫画が子どもたちや教育にあたえる「悪影響」について論じられ、またそれにたいする反論として論じられた。
 1960年代に入り、鶴見俊輔や石子順造などを中心に「大衆文化論的な漫画論」が展開される。読者への影響という立論から、大衆文化媒体としての漫画が論じられ、漫画そのものが論じられる度合いが大きくなる。しかし、ここでも「漫画と社会」があくまで登場項である。
 これにたいして、70年末から、その前の批評の流れとはまったく別に、突如「私語りの漫画批評」が始まる。外在的な漫画批評ではなく、「漫画とはぼくらのことである」としてそれを内在的に語る批評が登場する。しかもそれは先行の漫画批評を批判するのではなく、怒涛のような流れとなって、いわば押し流す形で登場したのである。
 60〜70年代的な批評から80年代以降の批評という流れは、(夏目はそう明示的に言っていないが)左翼文化、その退潮と、かわってヲタク文化の登場を意味している。
 先行の社会論的な批評(大衆文化論的な漫画批評)にも、印象批評(私語り的な漫画批評)にも違和感を覚えた夏目は、いわば批評に普遍的な客観性を与える目的で、コマ割やオノマトペなど漫画固有の表現に注目し、そこから読み説いていくという「漫画表現論」的批評を確立する。
 だが、夏目は「マンガと『戦争』」を著したさい、漫画を「外側から見る必要」にせまられ、自らが排除してきた、漫画の社会受容の問題・方法をとりあげざるをえなくなった。そのことを反省し、社会学的な枠組みの必要性を認めるのである。


 夏目は「大きな波として、外在的な『マンガは社会のもの』論が、教育論から大衆文化論へと次第にマンガそのものに近づき、一九七〇〜八〇年代に大きく『マンガは作者のもの』論のほうにふれて、一九九〇年代後半、ふたたび全体を社会におきなおそうとする動きにあるともいえる」とのべた。ぼくは夏目が大変正直な告白をしていると思うのだが、けっきょく夏目自身が自分が排除してきた「社会」的視座を再導入せざるをえなかったわけであり、いわば仮想敵としてきた相手にたいする降伏である。
 ふたたび70年代のような批評に帰るのか。
 「ここで重要なのは、それは『同じことのくりかえし』ではなく、ことなる条件と主題で成り立っており、社会と作者(あるいは表現)側という左右の足に重心を移しつつ、いわばらせん状に批評主題の中心点を移していると考えるべきである」という夏目の言葉は、マルキストにはすっかりおなじみの「否定の否定」そのものである。
 「発展の新しいより高い段階では、これにさきだつ前段階で廃棄されたものの一定の要素・性質・形式などが新しい条件のもとでふたたびあらわれ、外見上その古いものに復帰するように見えることがある。……このような『低い段階の一定の特徴・性質等々の高い段階における反復、および古いものへの外見上の復帰』(レーニン)をともなう直線的でなく『らせん的』といえる発展、これが否定の否定である」(社会科学総合辞典)。
 夏目がしつこく強調するように、それは流行の変遷などではない。
 「進化する批評地図」という副題どおり、それはいっそう大きな普遍性、全体性へむかっての一契機なのであり、夏目がまさに批評や漫画学のための「絵図=モデル」を描いて、表現論や社会受容論がそのどこに位置するかを確認しているのは、その普遍化のための作業なのである(ここでいう「普遍化」は夏目の言っている意味と少しちがっているので注意)。

 「さまざまなモメントをとりこんで、より普遍的な方向へむかう」──これは漫画批評に限らずどんな知的営為にも共通する発展のスタイルであると思うのだが、ぼくからすれば、夏目が、いや80年代以降の漫画批評の主流が、社会というパースペクティヴを忌避していたこと自体が異常で、ようやく当たり前の流れに復したように思える。
 そもそも、鶴見俊輔の漫画批評を「民衆史観的」とか「民衆を理想化している」などとして左翼文化の一種だと切り捨てる夏目の見方に貧しさを感じる。
 鶴見の『漫画読者として』には50年代から80年代までのさまざまな彼の評論が載っているが、「そりゃ、お前が左翼だからだろう」と言われることを覚悟で言えば、正直いってぼくには夏目の各種の表現論的な批評よりも断然こちらのほうが刺激的で面白い。鶴見の漫画批評を読んで、それを貫いているのは、民衆・大衆へのロマンチシズムなどではなく(宮崎駿がかつて抱いたような)、たおやかでしなやかな精神の自由とその渇望である。鶴見はこれをおびやかす国家権力や硬直した教条といったものをひどく嫌った。諧謔がもつ自由な精神を漫画にみたのである。

 夏目は反省してもなお、自分の「表現論的批評」を、さらに大きなくくりの「美術史論的枠組み」というかたちで、「社会学的枠組み」とならぶ、漫画批評の「二つの流れ」として扱う。はっきりいわせてもらえば、夏目はこうした「表現論」の枠組みを過大に扱っているように思う。社会への眼差しと別個に、「表現論」をこのように大きな柱としてとりだすことは何をもたらすだろうか。
 夏目の表現論が提起した問題の重要さ、その功績は大いにぼくも認めるところである。夏目は、ストーリーやセリフだけにこわだわる文芸批評や映画批評から借りてきた枠組みで漫画を語ることを批判し、手塚治虫によって確立した漫画の表現=「文法」を読み解くという手法を批評にもちこむ。たとえば、夏目はのらくろの眼が内面を表現しえず、手塚によって眼が心理を表現しうるものに発展したことを指摘したり、使うペンのタッチで同じ絵を描いてもまったく違ったニュアンスが生まれることを証明する。「こうした表現上の問題から解いていかなければ、我々はいつまでたってもマンガの核心に触れることができません」(夏目『マンガはなぜ面白いのか』)。
 しかし、それはあくまで批評の方法のひとコマ、道具のひとつでしかない。
 批評はその道具の力を借りて、社会へとむかっていかなければ、すなわち、その作品の社会における立ち位置を定め、その作品と自分との距離を測るという、批評・感想的行為にすすまねば、意味がない。

 夏目には、一貫して「客観性」への志向がある。
 印象批評的な「私語り」の批評の登場に違和感を覚え、そこから「表現論」的漫画批評を組み立てていくときのことを、夏目は「『客観的』な枠組みの提示への移行」と自分で言い表している。
 つまり夏目は、このように客観性をえぐり出す武器として「表現論」を発明したのだ。
 その志向たるや、印象批評のみを無邪気に賞揚する凡百の漫画批評と比べても異彩を放っており、マルキストであるぼくは抱擁せんばかりにこれを迎え入れたいところだ。
 しかし、社会との結合を失った「客観性」、 社会に開かれることを慎重に排除した「普遍性」というものは、まずしい抽象へとむかわざるをえない。

 NHK「BSマンガ夜話」や『マンガはなぜ面白いか』を見ていても、夏目の話は、よくいえばストイック、悪く言えば非常に薄味である。「この空白コマは言葉を受け取った男の余韻のようなものを感じさせます」「多層的な時間が、重層するコマという空間に投影されているのです」(夏目前掲書)といった具合に、それがもつ社会的な意味というものは徹底して排除され、非常に機能的な口調で「効果」に特化したモノの言い方になっている。
 先に鶴見との対比をあげたけど、他にもたとえば関川夏央の批評とくらべても、ぼくにとって夏目の言説はとても退屈である(これは納得したり参照したりする部分が少ないという意味ではない)。
 それは、夏目の選択した方法が帰結するまずしさである。
 夏目のあぶりだそうとする「客観性」は、社会との連関が消え、たえず抽象的なものへむかおうとする。
 客観的なものは具体的である。具体的なものは普遍的である。猥雑な社会のなかにおかれ、日々ぼくらの生活と感性に洗われている「具体的な漫画」は、あらゆる豊かさをふくんだ真の普遍である。
 夏目はそれを避けてきた。
 社会への眼差しとは区別された「表現論」──極端な話、それは批評ではないように思う。
 批評のための道具づくりをやっているということではないか。


 大江健三郎は、自分の作家としての仕事は実は言葉をみがき、みがいた言葉によって自分を表現することだった、とのべたあとで、このように言う。
「それは、社会、世界に向けてただ言葉をみがくだけの、オタク的な生き方とはまったく違ったものです。社会、世界に自分をつきつけることで、内面に根ざす表現の言葉を現実的なものに鍛えることなのです」(大江『「話して考える」と「書いて考える」』)
 小説における言葉は、漫画において絵を中心とした表現全体にあたるものである。
 大江ものべているように、それは言葉や表現が決して「道具ごとき」の軽いものだということではない。核心をなす重要なものなのだ。
 しかし、小説がそのみがいた言葉を世界にむけて投げることを決定的なモメントとするように、批評的な行為とは、表現方法のさらに先にあるものなのである。


 これは、本書『マンガ学への挑戦』が、いったい批評について論じているのか、マンガ学=研究について論じているのか、判然としない、という問題にもかかわってくる。
 客観的に存在する世界の構造を明らかにしようという態度は、まさに真理探究=学問・研究的行為そのものである。夏目のやろうとしていることは、批評というよりも、研究・学問・科学なのである(じっさい、夏目は「批評研究」という、両者が一体となった言葉を平然と使う)。
 むろん、ぼくは、批評という行為のなかには、このように世界を正確に見定めるという精神が欠かせないし、それが批評の大きな部分を占めると思い、その点で夏目のこの態度には大いに共感するのであるが、このようなものだけを批評だとしてしまうと、印象批評や感想というもの(広義の批評)は、どこにも存在する余地がなくなってしまう。

 夏目の志向は、「なぜこの漫画に萌え萌えか」ということを何の客観性もなく私語りを延々とする実に楽しい感想文を、批評の分野から排除し絶滅させようとする、危険な臭いがする。




 夏目の客観志向と、(夏目がこれまで自分に弱かったと告白している)社会への視座をどう組み合わせるべきなのか。

 夏目は問題を複雑に立てすぎている。彼は、作品を間において、作者の視点、読者の視点、とやっているわけであるが、これは非常に問題を複雑にしている。あの夏目の図をみると頭が痛い。

 ぼくは、マルクスとの対談、というかたちでのべさせてもらったように、作品とは作者の手を離れた段階でもはや一切作者のものではありえなくなる、と考える。
 田中芳樹が、自著『銀河英雄伝説』を評して、「もう親=作者の手をわずらわせることはなくなって、自分の手元から旅立った子ども」であると言っていたが(うろおぼえ)、いったん作者が書き上げ、世に放ったものは、もはや作者のものではない。
 いや、絵や文字に落としたその瞬間に、それは作者に反逆する。作品は作者がどのようにつくっても、まず作者の思い通りにはできず(吉野朔実は、自分の頭の中に完璧なものがあって、作品はそこへの接近でしかない、とまで極端なことをいっていた。このヘーゲルめ!)、さらに、いったん外化したものは、社会の中で自立的に作動しはじめ、逆に作者に対立さえする。いわゆる疎外というやつである。

 すなわち、作品とは、社会のなかにおいて、客観的に独立した存在物であって、ある意味、それは作者のものでも読者のものでもない(逆にどちらのものでもあるようにみえる)。
 だからこそ、批評とは、その独立物の社会での立ち位置を定める行為であり、感想とはその作品と自分との距離をはかる行為なのである。
 
 


『マンガ学への挑戦──進化する批評地図』
NTT出版ライブラリーレゾナント
2004.11.11感想記
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