永山薫・昼間たかし編著
『2007-2008マンガ論争勃発』




 児童ポルノ禁止法(児ポ法)の改定をめぐって、政治の動きが活発になっている、っていうのはすでにご存知でしょう。日本ユニセフ協会が児童ポルノの単純所持も罰則をつけさせるとともに、規制すべき児童ポルノ(子どもポルノ)の対象に漫画やアニメもふくめることを要求し、改定の現実味をおびた動きになっています。
 ねらいの中心は単純所持の罰則化であって、アニメや漫画の規制は話題づくりにすぎないとかそういう話もあるんですが、ここでは規制すべき対象に漫画やアニメもふくめるということだけを、考えてみます。

2007-2008 マンガ論争勃発 この問題を考える上で、永山薫・昼間たかし編著『2007-2008マンガ論争勃発』(マイクロマガジン社)は参考になると思います。ってえらそうに書いてますけど、ぼく自身全然シロウトなので、この本なんかで少々勉強したという話なんです。すいませんね。

 この本はエロ漫画を規制することだけじゃなくて、同人文化をめぐる著作権問題とかも扱っていますけど、9つの章があるうちの第四章から七章までは漫画における性的表現の規制の問題について書かれています。
 規制と運動についての歴史を記事風にずっと書いていてそれはそれで勉強になるわけですけども、やっぱり参考になったのは、オビにもあるとおり「いろんな人の話を聞いてきた」という点ですね。
 つまりさまざまな立場の識者の話が、ぼくとしてはとても勉強になりました。

 この問題って、漫画好きにとってはすごく大事な問題なんですけども、ぼくはあまりはっきりとは自分の立場を書いてきませんでした。それはそもそも経緯をきちんとふまえていなかったということと、知っている範囲でも自分の考えをまとめてこなかったからなんです。

 児童ポルノの対象に漫画やアニメをふくめるのかという問題は、よく言われるようにまず「漫画やアニメでは、実写とちがって、具体的な被害者がいない」ということが大事だろうと思います。だからこの問題では、法規制の対象にふくめるべきではない、ということです。




「女性一般にたいする人権侵害」



 しかし、「被害者がいない」という議論は一つの反論にあいます。

 実はいまからあげるのは児童ポルノに限定した話ではなかったのですが、十年ほど前、「アダルトゲーム」のことについて書いた「赤旗」の記事をぼくが読んでいたときのことです。そこには“女性をレイプしたり奴隷的に調教するゲームでは、女性一般の人権がおびやかされているのだ”というむねのことが書いてありました。
 はっきりと記事を特定できないので、正確な表現ではないのですが、「女性一般の人権」という考えにおどろきました。ある一人の女性の人権じゃなくて、女性一般=全体の人権という考え方です。「おどろく」っていうのは、批判的もしくは肯定的なニュアンスじゃなくて、単にそういうとらえ方をぼくが知らなかったということなんです。

 『マンガ論争勃発』のなかでは、p.154〜157の「ポルノはレイプの教科書なのか ラディカル・フェミニズムとはなにか」という項目での中里見博・福島大准教授のインタビューがその観点をもっているといえます。ここにはぼくが感想を書いた杉田聡の『男権主義的セクシュアリティ』(青木書店)も参考文献で出ています。

「私はポルノグラフティによる被害を『制作被害』『消費被害』『社会的被害』の3点で考えます」(中里見)
「制作被害とは、文字どおりAVなどの制作現場で生ずる出演女性に生じる直接的な被害のこと。消費被害とは、ポルノの描く集団に属するそのほかの個人に間接的に生ずる被害のこと(つまりポルノを繰り返し使用した男性による性犯罪・性暴力の被害を女性が受けること)。そして、社会的被害は、ポルノの描く特定集団の地位が二級市民化し、差別の対象になることと定義される」(昼間たかしの解説)

 この分け方は、問題を整理する上でとても大事だと思います。なぜなら、しばしば混同・混乱して問題が扱われているからです。
 まず漫画やアニメの場合、制作被害がないことは、中里見も認めます。そのうえで、「ポルノを繰り返し使用した男性による性犯罪・性暴力の被害を女性が受けること」と昼間がまとめている「消費被害」が焦点になります。予想どおりの反応として、インタビュアーである昼間は、中里見に対して、漫画やアニメで犯罪の原因とされた判例や科学的研究はないんじゃないですかとツッコミます。
 これにたいする中里見の反論は、誘発させるという研究もないが、させないという研究もない。でもこれだけ性犯罪がおきている世の中であふれるポルノが絶対に因果関係がないといえますか、というものです。
 まあ、たぶん規制反対派はこの発言を読んで、そらみたことか、こんなしょうもないことしか言えないわけですよ、と快哉を叫ぶと思います。




「影響はあるけど行動には結びつかない」



 この中里見のインタビュー記事のあとに、精神科医で評論家の斎藤環がインタビューをうけていて、その記事は「マンガは犯罪を誘発しない」というタイトルがついています。
 斎藤は「直接的にその行動を促すというエヴィデンス〔証拠〕は事実上存在してないわけで、その時点で議論は終わっていると思うんですけどね」とあっさり論争を終わらせてしまいます。
 でも斎藤に対しても永山薫はツッコミを入れています。
 「実際に我々はメディアに欲情を刺激されたり、感動させられる。その意味では、紛れもなく影響を受けている」んじゃないですか、と。
 斎藤はそれに対して「情動はゆさぶられても直接行動に結びつくわけではありません」として退けます。しかし、じゃあ暴力シーンをみてリアル暴力の気分になることはあるんじゃないかとか、さらに永山が食い下がると、斎藤は確かに攻撃性は高まるとかあるけどもそれは一時的なもんだ、「やはりその人の行動パターン自体を変えるくらいの影響じゃないと、本当の『影響』とはいえないと思うんですよ」と返します。
 しかし、これにたいしては永山はそこまでやろうと思うと軍事訓練とか、洗脳とかでないと難しくなるんじゃねーの? と批判的なコメントをつけています。

 中里見も斎藤もツッコミには歯切れが悪い印象がありますね。




直対応の連関がないからいいのか?



 ぼくが気になるのは、たとえば「この規制のベースは、『性的虐待の表現を目にすることで、人は性的虐待に走るようになる』という思想が感じられるが、果たしてそうだろうか。……これは、暴力的な表現を見た子供が、そのまま暴力的になるわけではないということと同じである。もしそうなら、1980年代に『北斗の拳』に夢中になった今の30代は、最終核戦争を起こしていなければならない」(※)というたぐいの比喩なんです。

※小寺信良「『児童ポルノ法改正』に潜む危険」
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0803/17/news010.html

 すなわち、直対応の因果がなければ問題なし、とする考えです。
 ブログや掲示板風の言い方になおせば、「現実とバーチャルを混同するなんてねーよ」「虚構は虚構、現実は現実って、オタクはちゃんと区別している」という感じでしょうか。




虚構は現実に対して何ら否定的影響は与えないか



 ぼく自身の実感として、たしかに強姦が欲望的に描かれているエロ漫画を読んで扇情されることはあるけども、そのまま強姦したいと思い、博多の街の人気のない夜道を調べて深夜1時頃に潜伏する、なんていう行動に出ることは絶対にありません。虚構と現実を区別し、現実の強姦がいかに人間を破壊する暴力であるかという文化的制御を意識のなかでおこなっているからです。

 でも、その漫画によって、たとえば「女性は性的な存在でのみある」「性の対象でのみある」というメッセージは自分のどこかに刷り込まれていないかということは自信がありません。漫画を読み終わったあとで、そういうものが自分の心身に付着していないか、あちこち点検してみるのが本当はいいんでしょうけど、もし刷り込まれているなら無意識のなか、つまり自分では気づかない背中の真ん中のあたりとかだから、そういう検証をにわかにやってもムダなわけです。

 まじめにこういう主張をする気はないのですが——たとえば強姦や性犯罪の件数は増えていないとしても、女性を性的な存在であるというふうにのみとらえる見方や性の対象としてのみ見る見方が広がり、女性への意識の上での差別、中里見の謂いを借りれば「二級市民化」が実は意識のうえで広がっていった場合、強姦などの形ではなくて、セクシュアルハラスメントの増加みたいな形で現れるということはないでしょうか。セクハラの労働相談件数は、たとえば東京都だけでも98年は856件だけど、2005年には2325件に激増しています。
 くり返しますが本気でこういう相関関係を主張したいわけではありません。
 直対応ではない形で、エロ漫画は、オタクであるぼくの頭のなかで現実に越境する否定的影響を与えている可能性はないだろうか、ということなんです。
 統計も証拠もありません。
 でも、ぼくはやっぱりそういうことはあるんじゃないかな、という予感だけがするんですね。

 しかも、実は極端な強姦や監禁奴隷調教漫画よりも、現実と地続きにみえるような虚構のほうのがそういう越境を無意識にやってしまう危険度が高い気がします。山本直樹の『フラグメンツ』なんかよりも、『YOUNG&FINE』の方がアブないわけです(笑)。 

 中里見のいうような、消費被害や社会的被害をおよぼす小さな因子が自分のなかに知らずに蓄積されていないか、ぼくはきちんと警戒した方がいいと思います。

 でも。
 そう、ここまで書いてきてお気づきだと思いますが、それは別に性表現に限らず、虚構全般にいえることだと思います。斎藤環はひかえめにしか認めませんでしたが、影響はあるはずです。そして直接行動には結びつかないかもしれないが、何らかの否定的行動に結びつくことが決してないとはいえないとぼくは思います。

 映画『プライド』をみて侵略戦争美化の意識がすりこまれるかもしれません。侵略戦争を「なんとなく・どことなく」支持する心性を刷り込まれるなんて、ある意味で個別の犯罪など問題にならぬくらいに重大な否定的影響を社会に及ぼすんじゃないでしょうか。

 虚構は人間に影響をあたえ、しかも否定的行動を呼び起こす可能性があるんじゃないかとぼくは思うのです(くり返しますがそれは何の証拠も統計もありませんし、ぼくの実感にすぎないことです)。しかし、これを言い出せば、虚構はすべて規制の対象となってしまいます。ゆえに制作被害が生ぜず、少なくとも直接的な行動との因果関係が認められないものは法規制の対象にしてはいけないのだと思います。

参考:「いっそひぐらしのせいでもいいんじゃないのか、もう。フィクションは現実に影響するよ。」(HINAGIKU 『らめぇ』)
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080114/1200283195


 ただ、じゃあ「自分は虚構と現実の区別がついている」といって、漫画やアニメをふくめた虚構が現実に何の否定的影響も及ぼさないかのようにして切り捨てる態度はやはりおかしいんじゃないかということです。
 エロ漫画は消費被害や社会的被害を直対応の形ではないけども何らかの形で引き起こしているかもしれない、という緊張が、それを「愉しむ」者にとって必要じゃないでしょうか(もちろん、他方で、本書で斎藤環や上野千鶴子が言っているように性衝動を代償することで抑止効果を果たしているという、有益な影響もあるんじゃないかという実感もあるのですが)。「虚構と現実をおれは区別している」とか「見た奴がみんな強姦するわけねーじゃん」というだけの態度には、その緊張が欠けているような気がします。

 ラディカル・フェミニストであるという中里見の提起を笑って通り過ぎるだけではなくて、その提起をこたえるモメントを自分の議論のなかに内包していかなくては、本当に説得力のある規制反対論はできないのではないかと思います。
 本書がその点で規制反対派や賛成派をふくめ、さまざまな人の意見を聞き、いろんな角度からツッコミをいれているのは、こうした包括化にむけて大事な礎をきずくことになるでしょう。
 本書で兼光ダニエル真が、今後の活動の重点を「対話」におき、「今後は規制反対連呼ではなく、自分達の立ち位置を踏まえて社会問題への配慮、対処なども議論が必要だ」とのべているスタンスは、ありがちな結論かもしれないけども、実際には忘れられていることの多い態度であり、大変大事だと思いました。

 なお、今まで「女性一般」の問題として論じてきましたが、これを「子ども」に換えれば、同じ議論が成り立つということはおわかりいただけると思います。






永山薫・昼間たかし:編著
コミックマーケット準備会・全国同人誌即売会連絡会:協力
『2007-2008 マンガ論争勃発』
マイクロマガジン社
2008.3.29感想記
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