石井淳蔵『マーケティングの神話』、または、山場CMは不快なので商品を買わないか?



 asahi.comに次のような記事が出た。
「正解はCMのあと」は逆効果 視聴者86%「不愉快」
http://www.asahi.com/culture/update/1106/TKY200711060131.html

「場面を盛り上げるだけ盛り上げておいてから『正解はCMのあとで』『最新情報はこのあとすぐ』。こんなテレビの『山場CM』が多い番組に視聴者が不快感を抱いていることが、榊博文・慶応義塾大教授(社会心理学)らの調査で明らかになり近著で発表された」。

 この記事ははてなブックーマークが数多くつけられているが、はてなブックマークのコメントは比較的冷静で、「不快感と購買行動は別」というたぐいのものが多かった。

 これは実はこの調査自身の数字からも裏付けられている。

「山場CMの商品について42%が『好感が持てない』、34%が『買いたくない』と回答。それぞれ60%前後あった『どちらともいえない』を除けば大半がマイナスの評価だった」

 これはまさにまとめ方の「妙」、というか「ひどさ」であって、「60%前後あった『どちらともいえない』を除けば」というのは一体どんなまとめ方なのだ(笑)。「買いたくない」に結びつく人は34%「しか」いないことがわかる。

 ぼくも不愉快か不愉快でないかを聞かれれば「不愉快」と答えるが、「山場CM商品は買いたくないか」と聞かれれば「どちらともいえない」もしくは「そうは思わない」と答えるだろう。せいぜい番組や放送局の不愉快さとして記憶するからである。
 え、だって、便利そうなデジカメだけどそういえば山場CMでムカツクので買うのをやめた! なんていう行動とるわけないでしょ。むしろ、ああCMで見たことあるなあ、CMやるくらいだから「一流」企業だろうなあ、安心できるかもなあ、くらいにぼんやり思いかねない。
 不快ゆえに印象的になる。そして不快さが「記憶」としてむしろ、というかやはりプラスに作用するのだ。



なぜ「連呼」をやめられないか



 ぼくはサヨとして選挙活動にかかわる。
 サヨの選挙にはあまりないのだが、保守系の選挙は宣伝カーによる候補者の名前の「連呼」が多い。
 現法相である鳩山邦夫が昔文京区で立候補していたときはひどかったなあ。

「はーとーやーまー はーとーやーまー  はーとーやーまー はとやまっ はとやまっ はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ  はとやまっ セイジカイカクーばんざーい!」

 これが真の連呼か、田舎で聞いていた連呼などものの数ではない、と自分の不明を恥じた(笑)。
 選挙の苦情の中でも、連呼はダントツである。
 にもかかわらず、連呼はなくならない。
 なぜか。
 それは陣営自らが狂躁的に選挙を戦っていく自己陶酔の役割を果たすとともに、有権者にもプラスの影響を及ぼすからである。すなわち「その候補者の名前を非常によく聞いた→勢いがある・必死である」と感じるからだ。
 街頭に張られている演説会ポスター、事実上の事前ポスターの数の多さも同じである。

 よほど自分は合理的だと強く信じているタイプの人間であれば意識的にこうした候補を投票先の選択肢から排除するであろうが、そんな人間はごく少数だという足し算・引き算が成立すれば、やらずにはおれないだろう。
 左翼候補で連呼が少ないのは「理性的人間」を自認する人が確実な投票行動をする支持者に多いせいだ。それでもポスターにはそういう拒否反応は出ないから、ポスター自体にはどうせ政策も書けないんだしあんまり意味ないじゃんと思っても、票につながるもんだからやらざるを得ないのである。

 あるいは選挙が告示されて以後、公営掲示板に貼る選挙ポスターなんかも、よく考えれば、あそこには本来公約や政策のような文字情報が書かれてしかるべきではないかと思う。
 顔写真と名前だけデカデカと書くのはどうよ、と思わざるをえない。
 しかし、サヨもふくめて選挙ポスターはそのようになっている。
 せめて顔写真と政策(もしくは訴え)を半々にしてはどうだろうかと思うのだが、そのようにはならない。
 合理や理屈とは違った別の事情がそこには存在するのだ。





ヒットした商品のヒット神話のつくられ方



マーケティングの神話 (岩波現代文庫)  石井淳蔵『マーケティングの神話』の冒頭には、花王の洗剤「アタック」、日立の洗濯機「静御前」、東陶機器の「シャンプードレッサー」などがなぜヒットしたかをインタビューしているが、開発担当者・責任者は「いかに消費者の欲望に合致したか」を合理的な物語として明晰に語っている。
 だが、石井は、開発の段階を追ってみる。
 そうすると、消費者の欲望がこうだったから、それにあわせてこういう商品をつくりました、みたいなそんなロジカルなことはまず少なくとも開発段階では行われてねーじゃん、と批判するのだ。

「開発プロセスの現実として語られる消費者欲望理論は、多くの場合、マーケティングが成功したという前提のもとに、事後的に構成された物語にほかならない」(p.15=岩波現代文庫版、以下同じ)

 むしろものすごくあいまいで多義的な製品の能力があって、そのなかの可能性のひとつが現場でいろんなやりとりのなかで花開いたのではないかと論じる。

「製品コンセプトは供給者と使用者とのいわば対話の中で決まってくる。特に、多義的存在である製品に対して消費者がどのようなコンセプトを付与するかをあらかじめ予測することは難しく、むしろ供給者から見て偶発的で不確定なプロセスとなる。消費者の消費コンテクストは実に多様なのである」(p.20〜21)




消費者は自分の欲望をよくわかっていない



 石井は、消費者が固定的・静的しかも合理的存在であることにきわめて批判的である。
 消費者が自分の抱いている欲望をあらかじめ結晶化し対象化するのは、なかなか難しいということを、石井は積水ハウスのとりくみを紹介しながら論じている。
 積水ハウスではこの当時「研究者と顧客が直接対話をする研究所」をつくり、ニーズと開発を結合してしまおうと考えたのである。
 こうしたなかで「積水ハウスの家は壁が薄いので嫌だ」という意見が客から出てきた。実はこの意見は研究所側の当初考えていた改善点に合致したものであった。

 だが、同研究所(納得工房)の所長(専務)は意見は違ったという。

「そのお客さんは、『入念に実験して壁の薄さが問題にならないことを知ったがゆえに気持ちを変えたのではない』、そして『お客さんの気持ちはそんなに単純ではない』、と言うのである。
 その客にとってみれば、『何かうまく表現できないが、積水ハウスは嫌なのだ』という気持ちを、誰もがわかりやすく誰も否定しようもない、『壁の薄さ』という一つのパラメータに集約させたのではないかというのである。何がお客さんの気持ちを変えさせたかわからないが、『何か、積水ハウスに対するもやもやとした気持ち』が納得工房で時間を過ごすうちに晴れたのだろう、と専務は考える。そこのところを理解しないで、『“壁が薄い”という不満がお客さんから出ています、何とかしましょう』ということで家づくりを進めると、『厚化粧』された家しかできないというのである」(p.29〜30=1992年の関西生産性本部のフォーラムでの同所長の発言の孫引き)

 石井は「消費者の口から出た言葉は、果たして信用できるのだろうか」(p.28)と問いを立てる。「厚化粧になるとまでは言わないにしても、お客さんの意見を聞いても、せいぜいのところ他社が新しく出した製品特性が口から出てくるにすぎない」(p.30)、「人間は、自分の思っていることをきちんと表現できない」(p.28)、「われわれは、自らが何をしたいのか、何が必要なのか、あるいは何を考えているか自らに尋ねてみてもよくわかってはいない。そのときに、『なぜか?』と問われれば、例えば『壁が薄い』というひとつの合理化された物語=解釈をつくり上げてしまう。口から飛び出してきたこの言葉は、実は、消費者自身の行為を合理化するものにほかならない」(p.31)。

 消費者がバカだというのではない。「消費者、否われわれは、思う以上に複雑なのである」(p.30)と石井は言う。「一方で、口に出る言葉以上に、いろいろなことが実はよくわかっている。『洗濯機に何か不満はないですか』と言われれば思いつかないが、『音がうるさいでしょう』と言われればその通りだと思う」(同)——というように言葉に対象化されない思いがひそんでいる場合がある。

 しかし、石井の力点は、それ以上に、「ひそんで」さえいないときがあるというところにおかれているのだ。もっと混沌としたものが胸のうちにあり、だれもそれを言語化することはできない。無の場合さえある。しかし、それは関係性、つまり対話などをするうちに化学変化したり、新たに形成されたりするものだ、と石井は考えているのである。

 以前、「ユーザーに尋ねても正しい答えは返ってこない」というエントリをみかけたが、
http://satoshi.blogs.com/life/2007/09/post-8.html

このエントリでさえ、結論は「ユーザーを徹底的に観察すること」という、対象の側に固定した欲望のロジックがあるのではないかというものだった。
 
 石井はそこからさらにすすめて「関係性」のうちに答えは見いだされるものである、としている。
 石井の話は、文化や行動における無意識や非合理の役割へ、つまり構造主義的な文化論へと進んでいく。まあ、そこまで追うのがこのエントリの目的ではないので、石井の本の話はそれくらいで。

 話を最初の「山場CM」の話にもどそう。




山場CMの商品名を覚えているか聞いてみよ



 この記事は終わりの方で日本アドバタイザーズ協会(旧・日本広告主協会)の専務理事にコメントを求めている。つまりこの調査結果によってCMを見直すことになるのではないかというオチを見据えているのである。

 購買行動との関係を完全に調べたければ、「あなたは直近の1日の間にみた山場CMの商品をすべて覚えていますか」「直近の1日の間にみた山場CMの商品をすべて書き出してください」という項目を設けてはどうだっただろう。
 少なくともテレビをあまり見ないぼくはまず書けないし、テレビをよく見るうちのつれあいに聞いても不快感は表明したものの、商品名までは言えなかった。

 山場CMとの関連で商品を覚えているほど人間は合理的ではないだろう。ぼくらはあらゆる商品について、その商品がどのようなタイミングでのCMの流され方をしたかなどということについて、いちいち覚えているわけではないのだ。

 山場CMに不快さを覚え、そこから商品の購買を積極的に拒否するという行動にいたるまで、実はかなりの段階の合理的思考を重ねなければならないのである。

「ブルジョア社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識をもっているという“擬制”が支配的に行われている」(マルクス『資本論』1巻原ページp.50)






岩波現代文庫
2007.11.7感想記
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