岸孝博『マーケティング カフェ』

 左翼の組織をマーケティングの知識で点検したらどうなるか?


 わずか100ページのこの本をネタにやってみることにしよう。本書は、重厚な理論書では日々の血肉にならんだろうという問題意識から出発し、できるだけ薄手の、すっと頭に入ることを目的としたものである。「2時間で読めて、20年使える」というのがオビのアオリである。



 ビジネスマンでもないぼくだが、こういうものが応用できないかなと思って、ときどきこの種のものを買って読む。そのまま使うかどうかは別だが、脳のふだん使ってない部分が刺激される感じがして、なかなか快感である。



 結論からいうと、けっこう左翼業界でも、別のコトバで組織理論化されていることが多い。そうした組織理論の普遍性に別の形で気づかされる。一例をあげると、しつこいくらいに「消費者を中心におけ」とか「消費者が求めていることから出発せよ」という話が出てくる。これは、こちらの側が「言いたいことから出発するな」「有権者の要求から出発せよ」という原則と同じものである。マーケティング用語に、軍事用語が多いのも似ている。



■■□■ 製品への思い入れで宣伝するな ■□■■
 「プロダクトアウト」ではなく、「マーケットイン」の視点で行え、というふうにもいっていて、これは、開発した商品の「ココがいい」という売り手の思い入れから出発せずに、消費者が求めているものに融和することから始めろ、という意味である。中小企業なんかは自社製品への思い入れが強くてついこうなるわけだが、左翼においてもそういう高圧的な押しつけはついつい生まれやすい。

 だが、そこには違いもある。けっきょく売れればいい、というビジネスとはちがって、政治は、いまは不人気だが本当にこの国の問題を解決するうえではどうしてもかかげなければならないという問題――安保条約の廃棄とか――というものがある。それは政治には放棄できないものである。 ただ、即自的な意識におもねればいいというものではない。

 しかし、たとえば安保が現実に苦難を生み出している問題の根源である以上、それはいやおうなく意識に反映するから、そこがとっかかりになる。アメリカに従属をする安保条約というものが、イラク戦争のような危険な戦争への追随をしていく根源になっているわけで「アメリカに犬のように忠実にしたがうという外交でイイのか」という意識は広範に存在しているわけだ(じっさい「毎日新聞」の1月の世論調査では何らかの安保破棄派は5割を越えた)。



■■□■ 全体性をブランド化する ■□■■
 「ブランド」と「販売促進」。
 とにかくその時期だけでも「売れればいい」というやり方はやはり長続きしない。消費者のなかに、いいブランドとして定着してもらうことが大事だという。一時期の支持拡大、というだけでなく、組織そのものをイメージアップしてブランドにしていく、という作業につながる。

 たとえば、消費税増税ストップというスローガンは、一種の「販促」といえる。これにたいして、「護憲」「福祉重視」「反戦平和」というのが「左翼ブランド」である。

 本書では「販促」と「ブランド」は一種の対立概念であるが、政治においてはこれはつながっている。消費税増税に反対する姿勢は、そのまま左翼のイメージである。

 問題は、その「ブランド」の価値の向上をどのように果たすか、というところにある。たとえば消費税増税反対という「販促」スローガン。それは「くらしのためには頑強に抵抗」というブランドにもなるが、「どれだけ全体利益があっても自己利益のためには反対する」というマイナスイメージにも急接近する危険性がある。

 実は、自民党側のねらいというのは、再分配機能の強い直接税=所得税や法人税の、税収にしめる割合を低下させ、かわりに大衆収奪課税である消費税の比重を高めることにねらいがある。法人税の減税につぐ減税で、大企業の払う税金は空洞化し、この10年で10兆円の減収となっている(むろん不況による影響も入っている)。

 つまり、「くらしのための抵抗」というだけでなく、実は、税制の根幹という国政全体を視野において「消費税増税反対」というスローガンが導きだされるのである。そのような全体性、もっといえば、国政がかじ取りできるという能力をブランド化しなければならないのだ。「国益」を右派のブランドにしてはならない。



■■□■ 全有権者をねらうとき全有権者をターゲットにしたビラをつくるな ■□■■
 本書のなかでもっとも核心となる思想は、「オールターゲットはダメ」という点だ。この点で左翼は考える必要があると思う。

 本書では、「消費者」という概念は、もっとも広い対象を指し、これは政治の世界では「有権者」に相当する。本書はしかし“その消費者全体を相手にするマーケティングというのはありえない。もっとも広いところを狙っているようで、実は誰の心にもとどかないアピールをしているのだ”という。

 「全有権者を視野においた宣伝」というのは、政権をめざそうという左翼であれば、外せない。しかし、それは、ある一つのビラが全有権者をターゲットにする、ということとはまるで別のことである。それは誰の心にも届かない。まじめに全有権者をねらうのであれば、ターゲットごとのビラをつくり、それが全体を網羅する、ということをめざすべきなのである。中心となる論戦は、そのうち、主要とするターゲットに絞り込んだものでなければならない。

 最近は、「無党派層」を左翼もねらいはじめている。無党派層は昔は無関心層とよばれてきたが、90年代前半から、固定した政党支持を離れ新たな託す先を模索している、政治変化を求める層へと明らかに変化している。ここを狙うことは、一つのターゲット化であろう。しかし、だとしたら、その顔や行動が頭にうかび、そこをリサーチしぬくところまで徹底しなければならない。



■■□■ 「しなやかな政治」という言語センス ■□■■
 「言葉のセンスをみがけ」というテーゼもある。言語だけでなく、映像や音楽など、コミュニケートするあらゆる手段にたいする感覚だ。

 「トリビアの泉」というテレビ番組があるが(レスピーギのほうじゃないよ)、これは雑学の知識だけを使っているのだが、「へぇ」というその知識への感動度をあらわす単位で、その衝撃を競わせるところに新しさがある。「知ってトクする雑学知識」などとやってしまえば、同じ材料を使っても、面白さは半減するだろう。使っている材料は「雑学」しかないのだが、それを「へぇ」という単位を媒介にして組み直すことによって、新しさを獲得した。

 小泉「改革」のもとで、リストラや失業などの痛みが国民に襲いかかっている。そのときに、常識的に考えれば「くらしを支える政治を」というスローガンが出てくるだろう。だが、マスコミが黙殺しているという点を差し引いても、これが心をとらえているのか、それとももっと磨かねばならないのか、ということは、迷うところである。

 長野で勝利した田中知事のスローガンは、「しなやかな政治」だった。「やさしさ」でもなく、「あたたかさ」でもなく、「しなやかさ」である。また「反ダム」ではなく「脱ダム」であった。むろん、手垢がついた表現からの脱却という意味もあるだろうが、ぼくは、そこに偏執狂的な固執から解放された、自由な政治姿勢というものを見るのだ。

 公共事業に固執する政治にたいして、その「反対」に固執する政治を対置してはならない。
 住民収奪に狂奔する政治にたいして、その「いやし」に妄執する政治を対置してはならない。
 それは対極の不自由さをイメージしてしまうのだ。

 「しなやかさ」とは、そのようなパラノ的な固執や硬直から解放された自由さがある。と同時に、ある種の強靱さをも含意している。

 共産党が同じ時期に採用した「国民と心の通う政治を」というポスタースローガンは、ひょっとしたら同じような水準があったのかもしれない。政治科学としては中心を射ぬいた。しかし、言語センスとしては、「しなやかな政治」に大きく水をあけられたといってよい。



 キリがないのでこのくらいで。
 レーニンは、ボルシェビキにむけて、資本主義に負けぬ商人になれ、と言った。
 ある条件のもとでは、そこから学ぶことの方がはるかに多いのだ。




『マーケティング カフェ ビジネスはこんなふうに始まる』
2003年2月、PHP研究所
ISBN4-569-62620-3 C0034