的場昭弘『マルクスだったらこう考える』


 いわゆるポストモダンの文脈からマルクスを読み直す、という流れに、ぼくは暗い。そのあたり押さえたいな、と思って市井の本を買うのだが、難解なジャーゴンにまみれていて、率直にいって何が書いてあるのかわからない。いや、それ以上に、全体を見渡す「地図」のようなものがなく、個別の議論は多少追えても、自分が読んでいるものが一体マルクス主義のその後の経過のなかのどこに位置しているのか、さっぱりわからない、といったことがある。

 で、この的場の『マルクスだったらこう考える』であるが、これは、少なくともそういう案内としては、非常に頼りになる入門書だったといえる。
 ウォーラーステイン、レヴィ=ストロース、フーコー、アルチュセール、ロラン=バルト、ラカン、ネグリ、レヴィナス、サルトル、などが登場し、的場が考える「マルクス主義の発展」にとって、これらがどんな影響を与えたのかを俯瞰する。

 マルクスやレーニンしか読んでこなかった人で、しかし、ポストモダンからの批判や議論は押さえておきたい、そのための機会がなかった、あるいは歯が立たなかったという人は、本書によってごく簡単な「案内地図」を手に入れることができるのではないかと思う。
 それだけでもこの本は買う価値のある本である。


 本書の基本は、第1章に要約されている。
 第1章は「『二一世紀型』マルクス主義とは?」である。あとは、ある意味、各論である。

 的場の問題意識は、マルクスのもともとの議論は19世紀後半の国民国家的な資本主義、すなわち一国経済を前提とした一国資本主義論であり、当然その裏返しとして一国社会主義論が前提とされている、これをグローバリゼーション時代にふさわしく発展させなければならない、というものだ。
 「マルクス主義の衰退の原因は、資本主義の力が強まり、その影響力のもとで地盤沈下したからではありません。資本主義の構造そのものが変化したからです」(p.36)

 的場は従来のマルクス主義の要素として「階級闘争論」「弁証法的唯物論」「発展段階論」の3つをあげ、この3つを「絶対不可侵のものとして守る必要はありません」(p.37)として、読み替えを提唱する。
 「階級闘争論」については、この枠組み自体は古くなっておらず、問題はマルクスの時代は一国内での階級闘争が前提となっていたが、グローバリゼーションのもとでは世界的規模で両極分解が生じているとする。
 「弁証法的唯物論」については、そもそもこれはマルクスの方法ではなくスターリンソ連のもとで開発されたものだとして、マルクスは元来、内在的な発展論ではなく外因を重視したとして、的場は世界が内的発展によってではなくグローバル化という外因によって変化にさらされていることをあげる。
 「発展段階論」については、「原始共産制→古代奴隷制→封建制→資本主義→社会主義」という「直線的発展段階論」の「定式」は、たしかにそのような普遍的発展の道があるのかもしれないが、ウォーラーシュテインがのべたように世界は全体として連関の構造をなしているのであり、後進国はその中で遅れたままの地位で封印される運命にあるとのべる。すなわち、いまのべた「定式」は一国の内的発展を前提としたものだが、グローバル化のもとでそれはありえないとするのである。くわえて、こうした一国の内的発展という議論は「生産力の発展と生産関係の矛盾によって社会の発展段階が決まる」という議論と結びついており、これがソ連の生産力至上主義を生んだとされる。

 的場の提唱する「21世紀型マルクス主義」は、このような3つの要素を読み替えたものだというわけである。
 すなわち、地球規模での両極分解と階級闘争の出現をみすえ、マルクスはそもそも弁証法ではないとするアルチュセールの議論をうけて外的ショックによる歴史の変容と世界の一体化を論じ、一国規模での発展や豊かさの追求の無意味さを説くのである。

 ぼくは、次の3つの点で、的場の議論には批判的である。


 第一の批判点は、的場の世界像においては、「グローバリゼーションと世界の人々」という構図が前面に登場し、主権国家の意義や役割がいちじるしく軽視されていることである。
 的場は確かに「グローバリゼーションの時代においても、国家の役割が消滅するわけではありません。……国家は資本の消費過程、生産過程の重要な機軸になっています」(p.67)としその重要性について言及しながらも、その中身にはふれず、逆に、「従来あった国家的なものが形骸化しつつある」(p.104)、「国家の独立性はきわめて弱まっています」(p.102〜103)、「かつては国家こそ安価な統治システムでしたが、今ではかならずしもそうではない。国家では、コストがかかりすぎるのです。資本はあるときそのことに気づき、国家を尻目にどんどん国境を越えてしまいました。そうした方向の先にアソシアシオンがあるとすれば、国家はなくなるかもしれない。……今やそれを望んでいるのは資本自身なのかもしれません」(p.231〜232)という側面を強調する。

 これは、アメリカの覇権、アメリカの「帝国」という、「アメリカ=世界」という的場の世界像とセットになっている。「(アメリカ以外の国は)アメリカの補完的役割、およびアメリカを守る防波堤としての役割しかないのです。その意味で、多くの国家で防衛能力が衰退しています。そしてその事実は、外交分野における国家独自の行動の可能性を奪っています。日本をはじめ多くの国々がアメリカの政策に真っ向から反対できないのは、まさに軍事能力の欠如にあります」(p.67〜68)
 
 なるほど、それは確かに世界の重要な一側面ではある。
 しかし、戦後世界において無数の植民地が独立を果たし、それが非同盟運動などの新たな潮流となって世界史にインパクトをあたえ、イラク戦争においては、ついにアメリカに国連のお墨付きを圧倒的諸国が与えなかったという現実を軽視することになる。
 また、EUにせよ、ASEANにせよ、アメリカの覇権的秩序を根本的に転覆するものではないけども、明らかに「別コース」をあゆむ動きであり、アメリカの思惑どおりのものとは違う世界が展開しつつある。
 くわえて、従来アメリカの裏庭といわれてきたラテンアメリカでは、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラなどで次々と自主的な道をさぐる左翼政権が誕生している。メキシコはついに、軍事同盟を離脱した。
 それらがすべてオーライな政権ではないことはいうまでもないけども、アメリカ的な道とは違った道の模索が主権国家単位で躍動的におきている。

 的場の世界像は、こうしたダイナミズムを十分にとらえることができないように思う。
 グローバリゼーションをすすめるアメリカと多国籍企業から、いきなりそれに対抗する世界の人々、という構図へと飛んでしまう。
 だからこそ、的場の革命論は、「世界同時革命」という戦略しかなくなってしまうのであり(p.159)、主権国家の枠を軽視して帝国の覇権をめざすネオコンが、かつて社会主義者(トロツキスト)だったことと、ちょうどコインの裏表をなすような世界像を描いているように思われる。

 つけくわえておけば、たしかにケインズ主義的な側面を強調する国家イデオロギーは衰退しているけども、逆にアメリカ的新自由主義・グローバリズムのもとで、両極分解が強まり、教育と治安に強力な権限をもつ「強い国家」の復権を求める歪んだナショナリズムが高まっている日米の現実をも見落とすことになる。



 第二に、的場のコミュニズム像は、分配論にところどころで傾斜し、アソシエートについての重視はあるが、それを生産手段の社会化という角度からは問題にしようとしていないことである。その裏返しであるが、「市場」という問題とどうむきあうかという点について、的場の議論は市場とは敵対的な共産主義像を感じさせる。

 「利己的な社会の追求こそ価値法則の基本です。市場社会の価値の原理は、たえまなく広がる利己的欲望と照応しています。資本の運動原理が、産めよ殖やせよならば、利己的原理も同じです。そのため、こうした価値法則を打ち破る集団的分配原理を考えることが重要です」(p.65)

 「(マルクス的構想において)労働が価値をもたなくなるとはどういうことでしょうか。『ゴータ綱領批判』の中で、『各人はその能力に応じて(働き――的場)、各人はその必要に応じて(分配する――的場)」とマルクスが述べているように、これまでの能力に応じた分配から、必要に応じた分配が実現されるということです」(p.225)

 分配を基準に、あるいはそれを重視して共産主義を語る議論は、古いコミュニストに多くみられたのだが、つねづねぼくはおかしいと思っていた。なぜなら、ぼくは、人間の自由こそがマルクシズムのテーマであり、利潤追求に振り回されることからの人間の解放は、「分配」によってではなく、経済に対して社会的理性を発揮することによってもたらされると考えていたからである。
 共産主義が人間の解放をめざすものであり、その主要な契機は経済というものにたいする人間社会の理性の関与である。どのように経済を人間に奉仕するようにうまくコントロールするか。個々バラバラの利潤追求ではなく、「結合した生産者」すなわち社会全体のチエによる関与が必要となる。それはまさに「生産手段の社会化」だ。これこそがマルクスの未来社会展望の核心であるとぼくは思う。分配はその結果にすぎない。

 市場についてもマルクスは市場=商品経済と、資本主義経済を区別して考えている。
 そして市場については――これはマルクスがいわなかったことであるが――、ぼくは、ある分野は適用し、別の分野は適用しない、あるいはこの分野ではかなり手をいれずに市場を放置するけど、別の分野では公正な市場原理が働くようかなり手を入れる、などなど、いわば「市場工学」ともいうべきものを、社会全体が知恵を働かせて組み立てることも可能だろうと思う。

 市場を絶滅させることではなく、市場を一つのモメントに落としてしまう、ということである。

 的場は市場に敵対する。彼は、「利己心と個人とを人間社会の基本原理と考えるやり方に対してのアンチテーゼ(対抗理論)」(p.64)を構想し「資本の効率を重視しない自主管理」「市場社会の中では当然立ち行かな」い、「市場社会の原理そのものに対して抵抗する」原理をあみだそうとする(p.65)。

 的場に限らないことであるが、マルクスの未来社会論をめぐる議論は、あまりに「原理主義的」に語られるむきがある。市場の否定や企業体の否定などにむかう。それは的場がのべているように「アンチテーゼ」でしかない。求められているのは、単なる対抗ではなく、市場経済というものを止揚してしまう「ジンテーゼ」ではないのか。

 何より、あまりに原理主義的な的場の世界像は、いますでに現存の社会のなかに、新社会の芽がどのように息吹いているかということに鈍感になってしまう。
 社会的理性を発揮するということは、すでに資本主義社会のなかにおいても一定程度発達をとげている。一企業体の中で、あるいは地域レベルで、あるいは一国のレベルで、あるいは多国間・世界的レベルで。むろんそれらは、資本の原理によって完全な実現を妨げられている存在でしかないのだが。しかし、すでに資本主義社会の中で芽吹きつつある「新しい現実」がやがて世界を覆うであろうという大局的な楽観がぼくにはある(同じことが対抗の運動をみつめる的場の視点についてもいえる。主権国家の動きを埒外においてしまう的場の視点のなかでは、グローバリズムに対抗する動きが非常に貧弱に映じているように思われる)。


 第三に、的場の議論は、どこまでがマルクスの思想で、どこからがマルクスを発展させたものであるかということが判然としない、という問題である。これは他人事のように的場を責められることではなく、ぼく自身もついやってしまいがちなことであり、むしろ自戒をこめて言いたいことである。
 読者は大したことではないように思われるかもしれないが、古典を現代にいかすさい、これは決定的な問題である。とくにマルクスは、さまざまに「読み替え」がされてきており、それがマルクス主義の様々なヴァリアントと生む原因にもなってきた。
 しかし、マルクスを継承するにせよ批判するにせよ、マルクスののべたことを、マルクスの歴史にそって精確に限界づけておかないと、それはその思想の限界も意義も逆にわからなくしてしまう。「マルクスはみんな平等な社会をめざした」式の「粗野な共産主義」観が横行する原因の一端もこうしたところにある。

 いま述べた「弁証法的唯物論」や「発展段階論」でさえ、的場自身の議論を聞いているといったいどこまでがマルクスの方法で、どこからが発展なのかがいっこうにわからない。

 こうしたやり方をしているために、たとえば的場が家族や性を論じる段になると、致命的な欠陥となってあらわれる。

 「では、(共産主義のもとで)新しい家族が出現すると国家はどうなるでしょう。同性愛であろうと、不倫であろうと、すべてが認められる家族の出現は、国家が正統化された規範をつくることを困難にします。そこでは、国家的モラルや、国家的意識といったものは多様化せざるをえません」(p.193)、「モラルある家族から、モラルある国民が生まれるとなれば、モラルある国民をつくるために、『モラルある家族像』が国民に押し付けられます。そうでない家族を徹底して排除することで、国民的モラルが成立するのです。/そんななか、多様な家族、すなわちマルチチュード的家族の出現は何を意味しているでしょうか。それは国家自体の解体です。国家がひとつのモラルによって成立していたとすれば、そうした価値規範を欠いたところでは国家規範は存立しえません」(p.193〜194)。

 「不倫」を非難するモラルが解体するというのである。

 これは、的場の「マルクス読み」の方法からまっすぐに導かれている。
 すなわち、家族や性にかんするマルクスの「体系的な叙述はどこにもありません」(p.199)として、「彼の書いたものからではなく、彼の生活から断片を拾いだして、彼の女性観、家族観、生活観を探っていく」(p.199〜200)というのである。
 的場によれば、マルクスは「私生児」を生んだり、妻がいるのに別の人を恋したりと、いわばモラルが欠如した人間であり、「彼の恥部であるモラルの欠如こそ、ある意味、時代を超えるものがある」「マルクスの生活に満ちあふれた不埒さ、言い換えれば革新的な部分に、いま一度光が当てられるべきでしょう」(p.197)とのべて、モラルを欠いたというマルクスの行動こそがモラルから人間を解放する原点となるかのように説くのである。

 的場は、『家族・私有財産・国家の起源』を「マルクス主義の家族論として有名ですが、これはエンゲルス一人の執筆によるものです」(p.199)とのべて、あからさまに無視する。このなかには、愛情にもとづく一夫一婦制の再建などという、的場の主張とは正反対の話が出てくるので、的場としては必ずスルーしておきたいところである。
 なるほど、同著は、たしかに大半をマルクスの遺稿である「モーガン『古代社会』摘要」にもとづく「マルクスの遺言の執行」(エンゲルス)ではあるが、叙述はほとんどエンゲルスによるものである。「摘要」を読んでもまさに摘要(ノート)であって、マルクスの見解はほとんど出てこない。前述の「マルクスに拠ってマルクスを読む」という態度からすれば、これをマルクスの見解だというのは確かに許されない。

 しかし、そこまでマルクスとエンゲルスは正反対に違うものかという当然の疑問も湧く。
 そもそもマルクスがメイドに「手をつけて」、「私生児」を生ませたという話も、有力な反証が提出されているのであって、マルクス=性的に放縦という図式も疑わしい。
 くわえて、たとえばエンゲルスの『反デューリング論』には、「階級対立を超越し、階級対立の思い出にもわずらわされない真に人間的な道徳は、たんに階級対立を克服したというだけでなく、生活の実践でもそれを忘れてしまった社会段階で、はじめて可能になる」と叙述してある。
 ここでは、モラルは消滅するどころか、未来社会の奥深くで真に「人間的」なかたちで復建するとされており、的場のマルクス観とは正反対のもとなっている。
 エンゲルスは、この『反デューリング論』を「大部分マルクスによって基礎づけられ」「私が彼に黙ってこういう叙述をしないことは、われわれのあいだでは自明のことであった」として「私は印刷するまえに原稿を全部彼に読みきかせた」とまで序文でのべているものだ。

 もしストイックにマルクスを読むのだとすれば、せいぜいノートから読み取れることは、家族=婚姻形態は固定的なものではなく、歴史的なものであり、かつ、まず一夫一婦制家族があって国家が基礎づけられたのではない、というあたりまでである。
 一足飛びに、そこから「モラルの否定」にまでゆきつくのは、あきらかにマルクスを逸脱するものである。


 以上3点からみてきたが、ぼくは、にもかかわらず、的場個人はよく知らないが、的場のような危機感を感じ、かつマルクスへの可能性を感じている人たちとは、実践的な課題ではいろんな場所で協力をしていきたいと考えている
 そして、理論が発展をとげることと、統一戦線的な共同をすることは、相反するものではない。
 しばしばこれまでは、理論の発展とは理論の「純化」だと思われてきたふしがあるが、それは別の意見を排撃することでしかない。しかし、真理とは多面的なものである。相手の一面性にたいして、別の一面性をぶつけるのではなく、相手の一面をとりこんだより多面的なものとして自らを変容させねばならない。
 理論がより多面的で豊富化されていくためには、的場的な問題提起(21世紀におけるマルクス主義とはなにか)をもモメントとしてとりこんでいく必要があるのだ。




マルクスだったらこう考える』
光文社新書
2005.1.10感想記
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