第4部:紙屋研究所が好きではない漫画批評サイト

じゃあ、「嫌い」なサイトの話へ。
えー、やるんですか。
なに媚び媚びの口調で言ってるんですか。もう「言えません」じゃ見てる人はおさまりませんよ。あなたが悪口いって、泥沼のようなバトルが始まることを垂涎して待ち焦がれている人間のクズのようなやつらがいるんですから。
うーん……べつに「きらい」ってわけじゃなくて、あんまり、ぼくの趣味じゃないっていうか、ただ方向がちがうだけというか……。
おっおっ!
お前だろ、人間のクズみたいなやつって。
へへ。
まあ、くり返しますが、「嫌い」ということではないのですが、「ぼくとは路線がちがう」ということでいえば、前に楽天でホームページをもっていたときの話ですがね。そこの漫画やアニメの区画に入ったんですが、もうそこにいたのは、小中学生中心の、「わたしはコレが好き!」っていうホームページばっかりでした。えーっと、『犬夜叉』ファンが多かったですね。
それ、だめなんですか。
いや、そのサイトが好き嫌い、ダメいい、とかいうレベルじゃなくて、たんに路線がちがうなあと。なんか「好き!」とだけしかいってない。日常の会話でもこの手の話されると、ぼくは困ってしまうんです。「『犬夜叉』ってすっごくいいよ。好き!」とか。読んでいない場合、どうしろっていうのかと思いますね。で、「へー、どういうところがいいの」とか聞くんですが、「なんか、すごくいいんだよ」とかわけのわからないこと言われたり、同義反復みたいな言葉しかかえってこなくて。「そうですか」、会話終了、みたいな。
じゃあ、あなたのばあい、このサイトに載っているような、ウザい、長ったらしい説明をするわけですか。
いや、リアル世界では、実はぼくは漫画のことはほとんどしゃべらないんです。だいたい、ここにあるようなことをリアル会話で言ったら、なんかすごく恥ずかしいことばっかりでしょ。書いてある中身ということもありますけど、それ以上に、言葉が文章としての言葉だから、ひどく浮くんです。こういうときは、さらっと漫画評を話し言葉で、しかも本質的に言える人を尊敬しちゃいますね。さっきあげた「漫画読者」のサイトとか。
あなたの批評や感想って、本当に言葉がムダですよね。志村貴子や黒田硫黄を読んでいると、言葉を研ぎすますと、短い言葉でこんなふうに言えるって思うじゃないですか。
それは絵の力によるところが大きいと思いますが。いや、たしかにセリフのセンスが絶妙ですけど。しかし、やはり漫画とは比較できないですよ。つーか、長い、ウザい、っていう点で、おまえに言われたかねーよ

「具体的なサイト名でお願いしますよ」

やはり、具体的なサイト名でおねがいしますよ。
ほとんど週刊誌だな。いまはもう更新がほぼ停止状態(掲示板によれば復活が企図されているらしが)なんですが「漫画批評」というサイトは、めざす方向がかなりちがうなあと思います。あの、しつこいようですが、「嫌い」とか「ダメ」ってわけじゃないですから。だいたい、一度も言葉をかわしたことのない相手に「嫌い」とか、何様ですか。
あんた、漫画作品相手にはよくやってんじゃん。
それはプロだからいいの。いや、じっさい、このサイトの志は高いと思います。たとえば、このサイトが何をめざすべきかを書いたところ(「サイトの趣旨」)がありまして、プロの漫画批評家たちがムックとか評論集をだしているけども、そこでの評価の高低と世間の評価――つまり世の中で漫画を愛している素朴なファンたちの評価の高低には激しい差がある、ということを問題にしています。これはすごく大事な問題提起だと思います。
ああ、わかります。このサイトは尾瀬あきら『みのり伝説』をけなしまくっているのを批判しているんですが、おそらくこのサイトが問題にしているムックやパンフが非常に具体的に念頭にうかびますね。
あ、やっぱり? ぼくもです。まあ、もうそういう冊子は捨てちゃいましたんで、正確なタイトルをぼくも覚えてないんですけどね。浦沢直樹の『モンスター』や、小山ゆう『あずみ』をもちあげている批評家は多いんですが、ぼくなんか「そんなにいいかなあ?」というのが率直なところでして。ついこっちのアタマがバカなのかと思いますよね。だから、このズレを問題にするこのサイトの指摘はほんと、すばらしい。
そういうズレをただすべく、シロウトのための批評をめざそうと。
ま、シロウトというか、批評家のための批評でない、といいますか。あと、ネットでは印象批評や感想批評という主観的な批評が多くて、それは漫画批評の発展にとってうらみになるのではないか、という指摘をしています(「漫画エッセイvol.17,27」。その主張の是非はともかく、こういうまじめでまっすぐな問題提起は、かなり貴重なことだと思います。あと、漫画の感想文コンクールをやったり、漫画批評サイト相互の参加をして、その初志のとおり、ネットにおける健全なシロウトの漫画批評を育てようという意気込みが各所に感じられますよね。漫画批評や漫画の感想やってるサイトって、なーんか「ダラダラホゲホゲ」を売り物にして、世の中斜に構えたもん勝ちみたいなところがありますよね。そういうなかでは、異彩をはなっている。
なんかベタぼめじゃないですか。ほんとに「嫌い」なんですか。
いやだから「嫌い」じゃないんだってば! 

どうしてプロの編集者みたいなことをしちゃうのか

にもかかわらず、「路線」がちがうと?
そうそう、そういうことなんです。いちばん端的に現れているのが、このサイトの「徹底レビュー」ですね。
ははあ。作品ごとに、「ストーリー」「キャラクター」「装丁」と分解して、それぞれを評価するというやり方ですか。
そうです。このサイトの趣旨から生じている空気――「主観的なもの」の排除からきている方法論だと思うのですが、対象を要素に分解し、それぞれを自然科学の観察のように突き放して分析しようとしているように見えます。この方法本来がかかえる問題については後で言うとして、まず目につく問題として、これでぜんぶの漫画に機械的な基準としておしつけると非常に無理が生じると思うんです。
たしかに「徹底レビュー」はほとんどすべての漫画をこの基準でやってますよね。具体的には。
たとえば、けらえいこの『たたかうお嫁さま』のレビューですが、エッセイ漫画にまで「キャラ」や「ストーリー」という照準のあて方をしてしまっていて、もちろん、そういう視点で分析できなくはないのですが、けらエッセイのもつ豊かさが殺されてしまっているといううらみがあるのです。けらの漫画がもつおかしみの本質をとらえるには、もっとまっすぐな武器の方がやりやすいと思います。
この共通した基準で作品を評価するという手法は、プロの編集者がやるような漫画誌の新人発掘とか新人の漫画賞づけの方法に似てますよね。
そうですね。漫画家になにがしかの序列をつけて、どこを育てどこを捨てていくべきかを評価するうえでは、こういう分解して、その要素ごとに評価するという手法は有効なんでしょうが、プロにせよシロウトにせよ、漫画批評がもつ生き生きとした叙述を逆に絞殺してしまいかねない。
そういうあんたも、最初の頃、漫画に点数つけてたじゃん。(
ああ、あれは若気のいたりで。「ひとりで勝手にマンガ夜話」サイトで点数序列が批判されているのをみて、そういやあそうだな、なんの意味もないなと思い直したんですよ。
わたしも、この対象を分析、つまり要素に分解したままにしたものを、分解したまま叙述するというのは、どうかと思いますね。
はは。さっきの「この方法がかかえる本質的な問題」ということですけど、まさに、これはあなたも『経済学批判序説』でのべていることですよね。
そうです。目の前の現象は「全体についての一つの混沌とした表象」にすぎない。それを分析してどんどん簡単な諸規定に到達していく。「そこでこんどはそこからふたたびあともどりの旅をはじめて、最後にはふたたび」わたしたちが目にしている現象に到達する。そのときには、全体についての一つの混沌とした表象じゃなくて、多くの規定と関係をふくむ豊かな総体になっている、そういうふうにわたしは『経済学批判序説』でのべました。
ぼくもそれを念頭に言ったわけですが(笑)。「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直観や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現れ、出発点としては現れないのである」とあなたがいっているとおりです。
つまり、レビューでいろんな要素にわけて分析するまでは悪くなかったと思います、わたしも。
ええ、ええ。
しかし、もう一度、そうやって分解して精査した各要素を「総合する」という思考作業をやって、ふたたび作品そのものの全体性をとりもどさないと、「けらえいこ」そのものに迫ることはできないってことですよね。
まったく同感です。このサイトは、感想批評や印象批評を排除しようとするあまり、「全体性」を回避し、要素還元や分析に熱中してしまっているという感じをどうしても受けるんです。

2chでの悪口

ついでにですが、あなたのサイトも2chで悪口を書かれていたとき、「ただの感想文」みたいにいわれてましたね。
「GUNSLINGER GIRL」スレッドですね。
この「漫画批評」サイトでは、印象(感想)批評批判をしているわけですけど、よく「感想文と批評はちがう」とか「ただの感想文じゃん」とかいう言い回しをよく見ます。そのあたり、どう見てますか。たしか、きづきあきらの『ヨイコノミライ』でも主人公が「感想と批評の区別もつかない」という憎まれ口をたたくシーンがありました。この「漫画批評」というサイトは、あなたもおっしゃったとおり、出発点に、いわゆる印象批評が支配的なネットの漫画評の状況を批判することからはじめているわけで、この問題は重要だと思いますが。
「批評」(クリティーク)の問題をあなたからとわれるというのは、なんか口頭試問をうけているようですね(笑)。ここで、ロシア・フォルマリズムや構造主義、受容論について論じろ、と?
そんなのあんたにできっこないでしょ。いいよ。感想と批評の話にしぼれば。
お前、おれのこと馬鹿にしてるだろ。おぼえてろよ。えー、ぼくは、「感想」というのは、作品と自分との距離について書いたもの、「批評」とは世界のなかでのその作品の立ち位置を論じたもの、というふうにいえるんじゃないかと思います。
それはよく言われる「感想とは主観的なもので、批評とは客観的なもの」ということとは違うんですか。
えーと、あんまり世間の用法とちがってもこういうのはよくないので、おおざっぱにいってそう考えてもらっても別にいいと思います。しかしちゃんと考えてみると、そういう区分とはちがいます。だいたい、「批評が客観的」って語法からしてヘンですけど、まああんまり哲学論争やる気はないので。
「作品と自分との距離」を感想と規定していらっしゃいますが、それは「好き」とか「嫌い」みたいな話ですか。
それもふくまれますが、それだけじゃなくて、作中人物の行動や考えについて自分はどう思ったかとか、自分ならどうするということを、無前提で書いたりする文章です。
世間では幼稚・高尚を考えたとき、だいたい「感想 < 批評」みたく扱われるわけですが。
人間の発達を考えたとき、まず「感想的行為」があらわれ、つづいて「批評的行為」にすすむ、ということ自体はまちがいないとおもいます。しかし、作品が社会的にどういう立ち位置を占めているか、という問題を定めたうえで、ふたたびそことの自分の距離をはかる、という行為にすすむことはあると思います。だから、批評的行為をしたうえで、ふたたび感想的行為に新しい次元で立ち戻ることは十分ありうると思うんですね。最初の「感想的行為」を「こども感想」だと仮に名付けるとすると、後の「感想的行為」を「おとな感想」だというふうに区別することができると思います。
すると、ご自分のサイトは「おとな感想」だと?
とんでもないっす。あえていえば、「こども感想」がようやく「批評」にうつろうかというぐらいじゃないですかね(笑)。いや、作品の社会的立ち位置を知らず、無邪気に作品と自分との距離だけをはかっている「こども感想的行為」、作品の社会的立ち位置をしめす「批評的行為」、そして、その社会的に措定された作品の位置と自分との距離をはかる「おとな感想的行為」の3つがあるとおもうんですが、この3つの行為は、概念的にはたしかに3つに判然とできます。しかし、現実の文章はだいたいこの三者が混在したものができあがってくるんですね。どれに重点がおかれているかで、けっきょく決まる。しかし、「こども感想」だから悪い、ってことにはならないですよね。「萌え萌え」とかいっている文章であっても、そこに愛があって、それが十分にこっちに伝わってくるなら、非常にいいわけですから。
その基準でいくと、「漫画批評」サイトの「徹底レビュー」というのは、けっきょく「批評的行為」にかなり重きをおいたものでしょうか。
うーん……。いまいったとおり、この「徹底レビュー」には、たしかに「感想」「印象」といったものを排そうという空気がみえるんですけど、ここであげられている構成力とかドラマツルギーとか、そういう著者があげる諸基準の、社会的にしめている位置の根拠が無前提のままであれば、けっきょくそれは社会の中での立ち位置をしめすことにはならないと思います。
なぜその構成力を「高い」と評価したかというその根拠ですか。
そうですね。そのことがわからないと、いくら「感想」「印象」を排するといっても、けっきょく自分と作品との距離をはかっているだけにしかならないと思います。さっきもいったとおり、それはそれで意味のある行為なんですけど。短い文章だからできっこないという声もあるだろうと思いますが。
では短い文章のなかでちゃんと「批評」までいっている文章はありますか。
ぼくがよく引用する関川夏央の批評なんかその際たるものじゃないかと思いますね。たとえば『おもひでぽろぽろ』批評の一文は、戦後精神や少女文芸というフィールドを設定して、この物語がレトロではないと規定する。そこから、この作品のセリフや設定を解析していくわけですから。みごとな「批評」です。

批評精神が本質じゃねえの?

しかし、あなたから感想と批評の定義のインタビューを受けようとは思いませんでしたね。
実はわたしは、批評や感想の「定義」あそびをやるというのは、好きではありません。
だろうと思いました。あなた「定義」ぎらいですもんね。
批評(批判)はフランス語で「クリティーク」で、これは、もともとギリシア語のクリノ(裁く、判断する)からきています。それから、「クリティーク」には「危機的」(英語のクライシスなどにつながる)という意味もあるように、ある対象にたいして、その価値を再検討してゆらがせる、というニュアンスがもともとありますよね。けっきょく、その「批評的精神」があるかどうかがわたしにとっては大事なんですよ。
ほう。
あなた自身もいってましたが、ヘーゲルの弁証法では、クリティーク、批判というのは、いままで普遍的だと思われていた事物が、実はもっと大きな普遍のひとつのモメントでしかない、というふうにして没落させること、これだと思うんです。だから、あなたの言った「世界におけるその作品の立ち位置をきめる」ということは、たしかに批評精神の最初の部分をいいあらわしてはいるけど、そこからその対象物の価値そのものをゆらがせるような再検討へとすすむこと、そのニュアンスを欠落させているように思われますね。「世界におけるその作品の立ち位置をきめる」というだけでは、機械的な分類のように聞こえます。
うーん…。しかし、マルキストだけじゃなくて、もう少し広い人にも使える定義としてそういったんですが。
そういう配慮自体がよけいなものなんですよ。
いや、手厳しいですねえ。
なにへらへらしてんですか。あなたは、そうやって作品を、この世界のどこかに置いたうえで、その作品にたいして「〈私〉がどうかかわるか」という問題をわざわざたてて「感想」という行為をもちあげています。これはわたしからみるとやはりよけいなことです。漫画批評や文芸批評のばあい、その作品の世界での位置と、その価値や存在の客観的なあり方の吟味がおわれば、もうそれでいいのです。あえて〈私〉という項をたてて問題を論じる必要はありません。現代人はすぐそういうことをしたがる。それをやらないと、「大きな物語」だとかいって批判したがりますよね。
そんなこと言ってないだろ。オマエ、おかしいぞ。
ほっといてよ!

批評は主観的なモンじゃねーよ

なんかわけわからん展開になったので、もういちど話をもどしますが、「批評とは何か、作品評価とは何か」という問題は、戦前、プロレタリア文学において論争になったことがあります。
平林初之輔が『新潮』で「評価の最終の決定者は主観だ」と論じたのに対して、宮本顕治が反論した文章ですね。
ええ。「芸術が人間社会に属している以上、作品の価値判断とは、一に作品の社会的存在価値があるか否かの判断以外でない。具体的に語れば、我々が評価するとは、芸術作品が、読者に与える感動力によって、読者をたかめるかどうか――即ち、社会の必然的発展の行程に沿うべき感性的認識を与えるかどうかの測定である」といっていますね。これはマルキストの批評論です。それをもっと普遍化していえば、「社会のなかでの作品の立ち位置」ということになるんじゃないかと思います。
「評価の科学性について」という論文ですね。いまの評論家とか聞いたら、目をむいて怒りそうですが、意識から独立した客観物として作品を扱う姿勢は私は評価したい。
そんなこと↑あんたにしゃべらせたら、柄谷行人とか、目ェむいて怒るだろうな(笑)。で、この論文のなかで、宮本はしつようにレーニンの『唯物論と経験批判論』をもちだしていますよね。これは、宮本にとって、終生かわらぬ重要な視点だったと思います。
おや、なにか知っているような口ぶりですね。
実は、宮本が元気なころ、彼と会って話したことがあります。非常に短い時間でしたが。
え、そうなんですか。
ええ。そこで「おまえら若いやつらは、『唯物論と経験批判論』をよく勉強しろよ」とかほざいていたのが印象的でした。
なんでそんなことを強調したんでしょうか。
いや、よく聞いときゃよかったんですが、聞きませんでした。だから以下は推察です。現代では、この点がマルキストにとって、そして一般の人々にとって、一番揺れる点だと、このじーさんは思っていたようですよ。つまり、『唯物論と経験批判論』ではしつこいほど、意識から独立した物質という問題が強調されますよね。意識や事物がおりなす弁証法的な豊かな姿をとらえる、という問題は、たぶん、頭のいいやつなら、あるていどできると思うんですよ。しかし、これだけネットやバーチャルなものが発達してくると、ホント、「世界は意識から独立した物質によってつくられている」という根底的な唯物論的立場はたえずゆらぐと思うんです。それがさまざまな誤りをひきおこすと彼は思ったんでしょう。サブカルにかかわっている人間は、たしかにキモに銘じておいたほうがいいですよ。別にその世界観を信じようが信じまいが。意識がおりなす世界と別に、この世界そのものはそこから独立した物質的世界なんだってことを心しておいたほうが。そうすると、たえず自分をひきもどす重りのようなものがつくれると思います。
まあ、こんなとこ、もう誰も読んでねえから心配すんな。