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ご自身では、どちらがよかったとおもいましたか。 |
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だんぜん、ぼくのほうです。 |
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ほう。 |
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ぼくは、不破の講義が終わった後、不破はじぶんの講義をテキストにして、サイトにアップするのだとばかりおもっていました。しかし待てど暮らせずそれをしない。「ははあ、ぼくの講義におそれをなして逃げたな」とおもいましたね。 |
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そこまで自惚れられればたいしたものです。
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不破の講義のCS放送を九州でなぜかぼくは聞いていたんですが、不破の講義が終わった瞬間「勝った」とおもいましたね。部分的には「やられた」とかおもったものもいくつかありましたが。 |
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どこが「やられた」と思った部分なんですか。 |
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ひとつは、生産力の向上を人減らしではなく、労働時間の短縮にむかわせる、というたとえを、不破が鉄鋼の話をつかってやったことです。不破は若いころ、鉄鋼労連で書記をやっていました。そのときの体験をまぜながら、簡単な算式でより正確でわかりやすい数字を出していました。 |
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読んでいないひともいるので、具体的に教えてくれませんか。 |
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こうあります。「調べてみると、日本の鉄鋼の生産量は、1960年から2001年までの41年間に、2214万トンから1億0287万トンに、4.6倍に増えました(粗鋼生産量)。ところが、労働者一人当たりの生産量は、同じ期間に、74トンから576トンに、7.8倍に増加しました。生産力がそれだけ発展したのです」 |
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はいはい。 |
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「生産量の増える割合より、一人当たりの生産量(生産性)の方がより急速に増えたということは、資本主義のもとでは、その分だけ、労働者の数を減らすことができる、ということです。実際、生産量は4.6倍にも増えたのに、鉄鋼産業に働く労働者の数は、この期間に、30万人から18万人にまで減らされました。」 |
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ええ、ええ。 |
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「では、生産力が発展したという条件を、労働時間の短縮に活用したら、どんな結果が生まれるかを、考えてみましょう。生産性が7.8倍になったんだから、労働時間を7分の1にしろとはいいません。労働者を減らさないで、30万人という数のままで、1億0287万トンの鉄鋼を生産するようにしたら、どうなるでしょうか。労働時間をこれまでの5分の3に減らしても、1億0287万トン(41年前の4.6倍)の鉄鋼が生産できる、という計算になります。これは、週6日の労働を3日半に減らせる、ということになります」とあります。 |
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なるほど。生産力の発展を労働時間の短縮に使おうというのは、資本主義=利潤第一主義の発想からは出てきませんからね。 |
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これは、共産主義社会を展望したときに、わりとコアになる問題だと思います。なのに、ぼくはあんまりここではいい例や数字はだせなかった。不破のこの数字は単純ですが、きわめて明快です。 |
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ほかに、不破に負けたと思った箇所はどこですか。 |
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えーっと、実は、「マルクスはもう終わった」「古い」といって、その名を口にしただけで石頭扱いしているという状況は、日本だけだ、という点ですね。不破はこの点を、ヨーロッパの有力誌の特集を紹介して反証していました。 |
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え、どんな雑誌ですか。 |
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ちょっと、身を乗り出さないでくださいよ。ひとつは、イギリスBBCのアンケートで「過去1千年間でもっとも偉大な思想家はだれか」で、あなたが選ばれたこと。ふたつめは、アメリカの三大週刊誌のひとつ、「USニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌が「20世紀を形づくった3人の知性」として、その一人にあなたをあげたこと。みっつめは、フランスの「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌が、あなたあの似顔絵を大きく表紙に出して「第三の千年紀の思想家か?」という大特集を組んだことです。 |
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へへへ。 |
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つまり賛否をこえて、あなたに意見をきいてみたい、というのが、欧米ではひとつのあたり前の動きになっているということなんです。日本では、対話すらしようとしない。あるいは、あなたの思想からエッセンスを拝借しているのに、知らぬ顔で「マルクスの限界性」などといったりする。あなたを対話相手にすれば、いろんな知恵やヒントも出てくるだろうに、それをやってないと思うんですね。 |
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ええっと、逆に、じぶんの講義の方がすぐれていたなあと思った点はどこでしたか。 |
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講義の冒頭でいったんですが、いまの人たち、なかんずく若い人たちは、共産主義というものが、ソ連や北朝鮮のようなものだとおもっている、つまりまったく自分とは縁のないものだと思っている。しかし、実は、ぼくらが暮らしている社会の中に、あるいは、ぼくらが「いいな」と思っている社会のイメージの中に共産主義の芽があるんだ、ってことをわかってもらおうと思ったんです。 |
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なるほど。 |
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で、自分がいまやっているとりくみ自体が、実は共産主義につながっている、という、いまの自分と共産主義というものの「つながり」をしめそうと思ったんですね。共産主義というものが何か自分とは別の、遠い未来の話のように感じられてしまうというのは、よくないと思ったし、事実としてもまちがっていると思いました。
で、肝心の裁定ですけど、不破のとぼくのとどっちがよかったですか。
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それはですね… |
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で、肝心の裁定ですけど、不破のとぼくのとどっちがよかったですか。 |
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それはずばり、不破です。 |
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え! ちょちょちょ。なななななんで。 |
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わたしが、いっかんして問題意識をもっていたことの核心というのは、人間の解放なんです。その道筋をあきらかにする、というのが、わたしが若いころから、それこそヘーゲルを学び、それを批判してきたころからの問題意識です。しかし、わたしの理論というのは、なんだか社会設計の理論、とりわけ経済運営の理論に焦点があるかのように、ずっと誤解されてきました。 |
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ソ連のイメージがあったから、なおさらですよね。 |
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あなたの講義と不破の講義をくらべると、あなたのはやはり、社会・経済運営の問題にどうも熱中しているむきがいなめないんです。つまり、共産主義社会とは市場経済をも大いにいかした、社会的理性が発揮された社会だと。 |
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え、だってあなた、まあ、市場経済うんぬんはともかくとしても、生産者の結合様式だといってるじゃないですか。 |
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ええ。だからもちろん、大事な点なんです。しかし、同時に、さっきもいったとおり、あなたの講義では共産主義とは人間の解放である、という問題の焦点が非常に弱い、という印象をうけるんです。 |
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不破の講義でいうとどこですか。 |
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不破は「生産手段の社会化が実現したら、こんな展望が開けてくる」という章をたてて、ひとつは、経済の不合理をやめさせる問題を説きます。これはまあ、あなたと同じですね。そして不破はそのつぎに、「さらに大事なことは」として、人間の全面発達、ということをのべるのです。ここです。ここが大事なんです。「人間は、誰でも、自分のなかに、無数の、才能というか、発展の可能性をもっています。しかし、(もうけ第一主義=資本主義の世の中では)それを伸ばす機会についに恵まれなかった。あるいは、そのごく一部を伸ばす機会しか得られなかった、こういう人が、現在では、圧倒的な部分をなすのではないでしょうか。ここに解決の道を開くのが、未来社会(共産主義社会)なのです。カギは労働時間の短縮です」といって、さきほどの鉄鋼の生産の例の話に入っていきます。 |
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ええ。 |
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「労働時間が半分になったらどうでしょう。1日4時間働いたら、あとは自由な時間になる。そういうことになったら、すべての人が、生活を楽しみもするでしょうが、同時に、自分がどんな才能を持っているか、それを試したり伸ばしたりする機会と条件を保障されるようになるでしょう」「そして、新たに開ける展望は、個人個人の発展にはとどまりません。人間社会全体の活力が、それによって素晴らしく高まるでしょう。だいたい、社会の全体で、みんなが一定時間分担して生産の活動にあたり、残りの時間は自由にスポーツをやったり、知的活動に取り組んだりする、そうなったら、その人たちのなかから、それこそノーベル賞候補に値するような人や素晴らしい絵描きさんが、どれだけ出るかわかりません。本当に社会全体が豊かな活力をもった社会になり、人類社会がすごく豊かな発展力を持つようになります」と不破はつづけます。 |
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人間の全面発達、ということですよね。 |
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この不破の一節は「労働が分配されはじめるやいなや、各人は一定の専属の活動範囲をもち、彼はこれを押しつけられて、そこから抜け出せなくなる。彼は猟師か漁夫か牧人か批評家かであり、生活の手段を失うまいとすれば、いつまでもそれでいなければならない。これにたいして共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ、社会が生産全般を規制する。そしてまさにそえゆえにこそ、私はまったく気の向くままに今日はこれを行い、明日はあれを行い、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批評をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人や批評家になることはない」という、わたしの『ドイツ・イデオロギー』の一節そのものです。 |
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それはあなたの初期の見解ですが、後年、経済学を勉強してから、その見解をまったく違った形であなたはいってますよね。 |
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まあ、「ちがった形」といいますか、人間がある種の職業にしばられて才能を一面的にしか発達させないという状況から抜け出ていく、ということを『資本論』のなかでもう少し裏づけをもっていいました。不破は、とりわけわたしが第三部で共産主義社会では、生産力の発達で、社会を維持するための生産にたずさわる時間は少なくて済むようになるから、のこりの時間は自由時間になって、そこで全面的な人間発達がおこなわれる、と書いたことにかなり注目しています。で、そのついでに、これまでの共産主義理解の「常識」とされてきた、しかも左翼のなかで「常識」とされてきた「共産主義になるとたくさんのモノが生産されてたくさんそれが分配されてユタカになる」という説を、不破は「んなわけねーだろ。バーカバーカバーカ」と批判しています。これは「よくぞ言ってくれた!」ってかんじですよ。 |
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不破はあなたの書いた『ゴータ綱領批判』を解釈しなおしたわけですよね。 |
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そうです。この『ゴータ綱領批判』の読まれ方については、わたしは、地下で死んでいるとき、いちばん歯がゆく思ってたことなんです。レーニンが『国家と革命』を書いているときに、なんかわたしの『ゴータ綱領批判』のあやしい解釈をやりだして「あれあれあれ」といぶかっているうちに、スターリンのもとでの「生産物の分配が低い段階が社会主義、高いのが共産主義」という定式がつくられちゃった。だから、もう個々の左翼のレヴェルになると、「共産主義になるとモノがいっぱいになって、喫茶店の砂糖とおんなじでだれもそれをほしいと思わなくなる」みたいな話になっていっちゃったんですよね。これがモノそのものがない時代にうまくかみあってしまったと思います。それとソ連の「配給」のイメージなんかともうまく重なってね(笑)。 |
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ぼくは2000年ごろに、左翼の友人たちに「共産主義とはなにか」ってアンケートをとったことがあるんですよ。ぼくの友人たちですから、けっこう若いやつらです。そんときでも「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会」だと答えるやつがけっこういましたからね。ぼく自身は、共産主義の本質というのは、社会そのものにたいして人間が主人公となれるという点にありましたから、こういう「もらえるモノ」に基準をおくような社会観はずっげーおかしいとずっと思ってました。 |
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ちょっと話が中断してしましたが、不破の講義のどこがよかったかという話です。あなたは、不破の講義が人間の全面発達、人間の解放、というあなたの問題意識によくこたえていた、とおっしゃった。そのことがあなたのライフワークだったというわけですか? |
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そうです。わたしは、人間の疎外、つまり人間が人間自身のつくり出したものによって抑圧されゆがめられ、自分自身のものでなくなっているという現状をずっと「どうにかならないか」と思ってきました。 |
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「あらゆる解放は、人間の世界を人間そのものへと復帰させることである。個々の人間が個人としてその生活と仕事を個々の関係において、類的存在となったとき、つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組織するとき、そのときはじめて人間の解放は完成されるのである」って、これはあなたの二十代半ばの一文ですよね(『ユダヤ人問題によせて』)。ここでは、たしかに、あなたが先ほどおっしゃられた『資本論』第三部の発言や、不破の一節を思い出すようなことをすでにもう言ってますよね。経済の力を社会に役立てるように組織しなおせば、一人は万人のために、万人は一人のために、っていう社会がつくれるという。 |
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あまりわたしが一貫した思想の持ち主だと考えられるのは困るんですけど、出発点になる問題意識、大きなテーマ(人間の解放)はそれほどかわっていないんですよ。その『ユダヤ人問題によせて』のころは、経済はあまり視野に入ってこずに、一般的に「社会のチカラ」ってな話をしているわけですしね。『資本論』を書くころになってようやく、労働時間の短縮、自由時間、人間の発達という具体的な見通しがついたわけですから。そこでは、早い話、個人の力が社会のなかで生かされるようになってはじめて人間の解放になるって言ったんです。 |
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それが共産主義のめざすところであるとすれば、いまの若い人にとってさえ「なんだ、あたり前の話じゃん」ということになりますわな。つーか、今でもある程度実現しているってことになりますよね。 |
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そうですね。資本主義のもとでは、かなりそれはゆがめられているけども、そういうことが大事だって流れはどんどん資本主義のなかでもできてきます。そうでなければ、いきなり共産主義になりました、さあこっから始まります、という具合に社会が変わるわけにはいかないんですよね。 |