勝鹿/浦沢『MASTERキートン』 評論家の関川夏央は、さいとうたかお『ゴルゴ13』を評してこう言った。 「六〇年代から七〇年代初期の日本人は、いつか外国へ行ったらこの殺し屋のようにふるまいたいとひそかに考えていた。そして、外国とは欧米しか当時は意味しなかった。殺人を行ないたいというのではむろんなく、白人に気後れしないためには背が高く筋骨逞しく、どんな外国語にもたじろがずにいたい、それが『ゴルゴのように』ということである。彼のような『不動心』を持って(『非情の心』ではない)外地でたったひとりで商談し、たったひとりで契約し、たったひとりで仕事を貫徹するのである。……かなり頻繁に性行為のサービスがあるのは、『一度金髪と寝てみたい』という、団体観光ブーム初期のさびしい夢に対するサービスの痕跡だろう」(※) 関川によれば、『ゴルゴ13』は、その時代条件が失われるなかでしだいに日本人の憧憬ではなく、水戸黄門のようなパターン化された戯画へと転落していった。 世界のなかで日本人がどうふるまいたいのか、ということについて、新しいモデルが要る。 「デューク東郷」という名前に似た、「平賀キートン太一」という名前を持つ、『MASTERキートン』の主人公・キートン(日本人とイギリス人のハーフ)は、ゴルゴのように、世界中を仕事でとびまわる(保険会社のオプ)。 そして、ゴルゴのように、卓越した軍事的戦闘能力をもっている。イギリス軍の特殊部隊のエリートだったのだ。 しかし、一見して、キートンはゴルゴとはまるで似ても似つかぬことをわれわれは感じるだろう。 ゴルゴの寡黙さにくらべて、キートンは、決しておしゃべりではないが饒舌である。砂漠で生き残るさいに、そのサバイバル知識の広さを披露する様はオタクを思わせる。 英軍特殊部隊エリート、オックスフォード大学修士課程修了、という輝かしい経歴は、キートンの出世人生にまるで生かされず、いつまでもうだつのあがらない大学講師であり、保険会社のオプにすぎない。 だいいち、キートンは「金髪」と寝ない。それどころか、ふられた元妻に未練たらたらで、おまけに娘を溺愛しているのだ。出世において、キートンははっきりと「負け組」、あるいは「降りた組」である。 だが、キートンとゴルゴを分かつ決定的なものは、その歴史スコープのレンジの大きさであろう。 東西「冷戦」のあいだをただ無思想に行き来するゴルゴ。 それにくらべて、キートンは、考古学者として、人類の長い歴史から「今」を測ることを知っている。 ある有能な会計士が「だいたい人間が平等というのが幻想です。共産主義は、能力のない者、怠け者の甘えです。人間には優劣がある。優れた人間がその能力を十分に発揮できる社会、それが理想でしょう」というのにたいして、キートンが言った言葉は、「残念ながら歴史的にみて、多くの文明がひと握りの権力者のものであることは否定できません。でも、これからの歴史はそうであってほしくありませんね」(「禁断の実」) 学生時代の女性の友人が英国の島の遺跡を守るために奮闘しているところに出かけたキートン。「そこは巨大な権力を持つ、王の国ではなく、女性を中心とする平等な母系社会だった。なぜなら住居跡には貧富の差が見られないからだ… 彼らは、ある民主的な法に基づき、巨大な遺物を創造していった。彼らにとって女神とは、豊穣、死、再生の象徴であり、女は弱き者ではなく、生命を創り出す大切な存在だったのだ」(「白い女神」) 「そうだなあ、確かに文明が武器を生み出し、野蛮な戦争をもたらしたといえる… 文明がなくても人々が仲良く暮らしてゆければそれでよかったかもしれない」(「家庭教師キートン」) この最後に引用したキートンの言葉から想起されるのは、エンゲルスの文明批判である。 エンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』のなかで、原始共同体の民主、自由、平等についてのべたあと、文明が「発明」したものをならべる。人間自身を商品とする奴隷制、人間を搾取する制度(奴隷制、農奴制、賃労働制)、金属貨幣と利子、商人、私的土地所有と抵当、奴隷労働、これに呼応する経済単位としての個別家族(一夫一婦制)、文明を総括し搾取者を擁護する国家、農村と都市の対立、財産相続制度としての遺言。「まったくの所有欲が、文明の第一日から今日にいたるまでの推進的精神であった」。 歴史を知っているということは、今の社会が所与のものであるという固定観念にとらわれることがない。いまの社会は未来永劫不変の堅牢な構築物ではなく、やがて次の新しい萌芽に席をゆずらざるをえないということを心得ることができる。 『MASTERキートン』を読む者が上質の外国映画のような爽快感を味わうことができるのは、この射程のとてつもない長さのせいである。 キートンは、出世人生において、うだつのあがらない「敗北者」であるけども、それは情熱や上昇志向を失っていることとは無縁である。 キートンの師、ユーリー・スコット教授はナチがロンドンを空襲し、大学が焼けたときも、授業をつづけた。「さあ、諸君、授業を始めよう。あと15分はある!」「敵の狙いはこの攻撃で英国民の向上心をくじくことだ、ここで私達が勉強を放棄したら、それこそヒトラーの思うツボだ!」(「屋根の下の巴里」)。 スコットはこのエピソードから「アイアン・ボール」(鉄の睾丸)とよばれる。 スコットは、キートンに「どんな状況に置かれても、研究を続け、立派な学者になりなさい」とつげる。 東大を想起させる「東都大学」。そこに就職の話があったとき、キートンは、そこの日本人教授からキートンの論文を自分の名前で発表することを迫られる。キートンはいったんその誘いにのりかける。断れば日本での大学就職は永遠にありえなくなるからだ。しかし、スコットの死の知らせをうけとり、「人間はどんなところでも学ぶことができる。知りたいという心さえあれば……」という言葉を思い起こす。そして、きっぱりと教授の誘いを断るのである。 キートンは、スコットの学問的情熱をまっすぐに継承している。 この情熱において、「うだつのあがらないキートン」ではないキートンが出現する。 学校制度への懐疑とともに、学ぶことは漫画世界のなかでは侮蔑されることが多い。『天才柳沢教授の生活』であっても、それはせいぜい知的好奇心であって、ここまで高らかに学ぶことが称揚されることはなかった。 うだつのあがらない人生、しかし学問への熱情は失わない。長い歴史的視座。 ああ、いいなあ。うん、いい世界観だよ、それ。 ゴルゴが高度成長末期の日本人の憧憬だったように、キートンの姿はぼくの憧れである。 キートンが娘の百合子にユーリー・スコットの話を聞かせるシーンで、「君の名前は先生の名前をもらったんだ」という。 ああ、ぼくも娘に「君」っていってみたい。 |
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