市川ヒロシ『またタビ』



擬人化漫画への警戒


またタビ 1 (1) (BUNCH COMICS) 本作はトラジという元野良猫と、「あやちん」というイラスト関係の仕事をしている若い女性(とそのパートナー)との物語である。

 小説家の安斎あざみは、内田やすひろ『ロダンのココロ』を評したとき、犬にかんする漫画やエッセイ、すなわち「犬本」の選び方について次のような言葉を残している。
http://www.anzaiazami.com/review/rodan.html

「私がかなり頼りにしている鑑定法として、犬を擬人化しているものはまず避ける、というのがあります。犬の気持ちや思考が人間のそれと同じように扱われ、しかも犬が心内語を喋る安易な描き方は、犬の魅力や犬を飼う素晴らしさを大いに損なうものでいただけません」

 そしてこの基準についての「例外」を次のように述べている。

ロダンのココロ「ところが、簡便な方法に盲点はつきもので、『ロダンのココロ』について私はミスをおかしていました。この作品も単に犬を擬人化したほのぼの漫画だと思っていたのです」

 本作『またタビ』をジャンルに分けるとすると、まさに「単に猫を擬人化したほのぼの漫画」だという形容をもらうことになるだろう。
 そして、ぼくもまた安斎と同様、その手の漫画が苦手なのである。これは安斎と理由を異にしていて、安斎の場合は「犬(ペット)を愛するがゆえにその本質を損なうから」というものであるが、ぼくの場合は「ペットを飼ったことがほとんどないから、入り込みにくい」というのが原因なのである。

 ペット漫画全般が受け付けない、というわけではない。
 なんでもいいけど、まあ、たとえばいまここに立花晶『まんが生活』という体験コミックがある。この巻末には作者・立花が同人誌(オフセット誌)で描いた文鳥日記が掲載されているのだけども、大変面白い。これは擬人化ではなくて、立花家族の文鳥をめぐる客観的な日記である。
 外側から説明するという少々のよそよそしさが、ペット所有経験のない人間にはちょうどよいのだ。擬人化された動物キャラクターは、ペットをもったことのある人間の独りよがりな調子が出てしまってぼくはあまり好きになれないのである。




コミュニケーション不全というテーマ


 ところが安斎は擬人化動物漫画について『ロダンのココロ』を例外とした。安斎はなぜ『ロダンのココロ』をついつい自分は読んでしまうのだろうと不思議に思っていたようなのだが、それを気づかせてくれる評に出会う。それが升野浩一の批評なのであった。
 升野は『ロダンのココロ』についてこう評している。

「内田かずひろの基本にあるのはコミュニケーション不全だ。互いに理解し合えない者同士が、一見なんの問題もなく仲良くしていることの可笑しさ、かなしさ。でもそれが人生だと、ほほえんでいるような凄みが常にある」

 「コミュニケーション」ではなく、「コミュニケーション不全」。
 その理解し合えなさが「可笑しさ、かなしさ」つまりユーモアともペーソスともつかぬ独特の感情を生み出すというのである。安斎はそのことを自分が犬と暮らす「不便さ」とか「絶望」とか「困難」とはとらえずに、逆に「コミュニケーション不全」ゆえに「素晴らしさ」がある、と感じたようなのだ。
 おそらく、安斎はペットと自分が心を通じ合わせている、というようなペット観が嫌いなのだろう。安斎はそのことに立ち入ってはいないけども、そのようにペットの内面を解釈することは支配欲望的、すなわち暴力的であったり、傲慢であったりすると感じられるのではないか、とぼくは勝手に察する。

 そして、本作『またタビ』である。
 2巻以後の展開がどうなるかはぼくはよくわからないのであるが、少なくとも1巻「トラジの飼い猫も楽やない」でテーマになっていることは、「コミュニケーション不全」である。
 飼い主である「あやちん」はトラジにたいして、ある意味勝手な内面の解釈をほどこして、自分の欲望をトラジにかぶせようとする。

 たとえば、「あやちん」はトラジを喜ばせようと思って、「ネズミのおもちゃ」を買ってくる。トラジが興奮するであろうと期待満々でネズミのおもちゃを大声で与えるのである。

「ほら トラくんっ!!
 ネズミよネズミ!!
 チュー チュー チュー!!」

 そのおもちゃをみて、トラジは硬直する。

「クオリティ 低っ!!」

 本物のネズミとはほど遠い動き、形状にトラジはやる気を喪失しまくる。しかし「あやちん」はまるで自分がそのネズミに興奮しているかのように上気した顔でネズミをあやつりつづける。
 トラジは「あやちん」が好きで世話になっているからと、ネズミで興奮するフリを多少してあげるのである。

「わーっ すごい食いつき!!
 やっぱネコはネズミ好きなのね!!」

 万事この調子である。
 逆に、こういうのもある。
 「あやちん」が「肩たたき」で自分の肩をたたいているついでに、トラジの肩……つうか背中をたたいてやると、トラジは「…ちゃう 気持ちええんやない……めっっっちゃ気持ちええ!!」という状態に陥ってしまう。
 「あやちん」はトラジがそのような恍惚にいたっていることがわからない。だから、もっとしてほしいというトラジの要求が十分理解できないのである。




娘との関係を思い出す


 ぼくは、これらをみて即座に思い出したのは、言葉がまだ通じない、まもなく1歳になろうという娘との関係であった。
 娘をペットと同列視するのはどうなんだお前、と言われそうであるが、正直なところペットという感情に近い。

 言葉というツールが使えないなかで、ぼくと娘の間には「コミュニケーション不全」が存在する。
 娘が手をあげている。その手に触ってほしいんだろう、と思って触ってやるが、娘はなにかびっくりしたような顔をしてその手をひっこめてしまう。
 面白いおもちゃを買ってきてあげたぞう、さあ喜んでくれよと、いさんで渡すが少し遊んでもう見向きもしない。それなのに、ミルク缶のフタはお気に入りでいつも触っている。あるいはスーパーによくある薄手で透明のビニール袋をふくらませただけのものもやはりお気に入りなのである。なんだよ、そんなものがいいのか、とびっくりするやらがっかりするやらなのだ。
 「いないいないバア」とやってあげてもきょとんとしている。だめかー、喜んでくれないなーと思ってフトンの上でゴロゴロしていたらいきなり「ウキャキャ」と声をあげて笑い出す。フトンで転がりながら娘に近づいていくのがどうも相当に面白いようなのである。


 だから、ぼくがこの『またタビ』を読んで真っ先に頭に浮かんだことは、自分の娘のことであった。
 掃除機の音をこわがるのは、娘そっくりである。
 疲れ果てて、ありえない超へんなかっこうで寝ているのもまさにうちの娘である。
 少しばかり高い金を出して買ってきたものをあまり喜ばないのも、娘そのものであった。
 寝ているぼくらのそばで転がり回るようにして、ぼくらの睡眠を妨害するのもまさに娘。
 トラジとの「コミュニケーション不全」は、そのまま娘との「コミュニケーション不全」なのである。

 ぼくは言葉が通じぬもの、そしてぼくにとって愛しいものにたいして、何かその対象のなかに「内語」をさせたくなる。もちろん相手はそんなことを本当に考えているわけではない。それは百も承知なのだが、それでも「娘はひょっとしてぼくからの働きかけを『弱ったなあ、あたしがしてほしいのはそういうことじゃないのに』と思って困っているんじゃないか」という気持ちをかぶせてしまうのだ。

 「互いに理解し合えない者同士が、一見なんの問題もなく仲良くしていることの可笑しさ、かなしさ。でもそれが人生だと、ほほえんでいるような凄みが常にある」というほど諦観的な、悟った境地ではない。
 もっと切実な欲望だといえる。
 客観的に相手の感情を見定めたいと思いながら相手の「内語」を勝手に想像(創造)してしまう。そしてそのなかには微量の、あるいは多量のこちらのファンタジーがどこかしらにまぶされているのである。客観的でありたい、しかしやっぱりこうであってほしい、というようなバランスの悪い気持ちだ。

 この漫画のトラジの気持ちの解釈には、ぼくの娘にたいする解釈にとても似たところがある。そういうことを思い出しながら読んだ作品であった。

あかちゃんのドレイ。 1 (1) (ワイドKC) 赤ちゃんの「内語」、あるいは赤ちゃんの「気持ち」というものを前面にたてた赤ちゃん漫画とか赤ちゃんエッセイというのは、寡聞にしてあまり知らない。『あかちゃんのドレイ』にはしばしば赤ちゃん(ヒヨ子)の「内語」「気持ち」が登場するけども、できうる限り悪意に解釈しようとすることで面白味が生まれているので、ここでいう「コミュニケーション不全」を乗り越えようとしてかぶせてある言葉とは別のものである(むしろ『あかドレ』の場合、積極的に「コミュニケーション不全」にしようとしているきらいさえある)。

 この『またタビ』を、一般の人がどう読むかはぼくにはわからない。しかし、娘という「コミュニケーション不全」の存在をもつ身にとっては、そのアナロジーとして読めてしまうのであった。






市川ヒロシ『またタビ』
新潮社 1巻(以後続刊)
2008.6.25感想記
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