宮本顕治君のこと



 などと書くと、「そうそう、宮本君はいつも……」と回顧談でもしそうな感じでちょっといい。
 この文章の後につけたものは何でも回顧録っぽくなる。「そうそう、宮本君はいつも『きょうは「かみちゅ!」の発売日だ』と言って、早々に常任幹部会を抜けていったね」「そうそう、宮本君は『涼宮ハルヒ』の熱烈なファンで、『涼宮ハルヒの敗北』を書いてコミケで売っていたよね」「そうそう、宮本君は松屋のバイトにいつも遅れてきて、店長に『ケンジ、おせーよ!』と怒鳴られていたよね」。

 ぼくは、最近、というかこの数年間、「宮本顕治はいつ死ぬのか」といつも思っていた。いや早く死ねという意味じゃなくて、生物学的にどれくらいまで生きるのかなあと。戦前、獄中非転向を貫いたために官憲の拷問でほとんど死にそうになったが、そういうムリムリな若い頃の経歴がありながら、おそろしく長生きしていたのでこれは140才くらいまでいくのではないかと思っていたのだ。
 だから、最近は有名人が死ぬ度に「この人、ミヤケンよりも若いのにもう死んだのか」と、ぼくの中でまるで北斗七星のように(笑)、宮本の年齢を基軸にしてその寿命の長短に思いを馳せていた。ZARDの坂井泉水なんか、宮本の半分も生きてねーなーとか。

 宮本顕治を語ることはそのまま日本共産党を語ることになってしまい、まああまり判然としないのだが、二、三、思いつくことを。

 宮本顕治ことミヤケンが死んだ。「だれそいつ?」というドシロウトのために言っておけば日本共産党三大巨顔の一人(東中光雄、辻第一、宮本顕治)であり、日本共産党の元委員長・議長である。

 生前の宮本と一度だけ会って話したことは前に書いた



なぜ終わった共産党がよみがえったのか


 宮本を考えるとき、一番不思議なことは、「日本共産党という政党は50年問題で完全にオワタ\(^o^)/政党になったはずなのだが、そこからまるで別の生き物のようにしぶとくよみがえってきたのはなんでか」ということだった。つまり、そういう終わりまくった政党をどうよみがえらせたのか、ということだ。

 50年問題というのは、1950年の朝鮮戦争を前後して占領軍は弾圧するわ、それに対抗する方針をめぐってソ連や中国にふりまわされて、党が四分五裂でめちゃくちゃになるわ、なかには武装闘争はじめるやつがでるわ、でもうしっちゃかめっちゃかになった日本共産党の問題のことだ。

 衆院で35議席もあった共産党の議席は次の選挙でゼロになり、この混乱によって戦前の反戦闘争ゆえに存在していた共産党の知的権威が崩壊したのである。アメリカも日本の支配層も、本気で共産革命をビビっていたので、51年の安保条約ではマジに革命を弾圧する条項をもりこんでいたほどだったが(第1条「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を、……日本国は……外部の国による教唆又は干渉によつて引き起こされた日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて……使用することができる」)、しかしそういう危険も50年問題によってもう十分に遠のいた。

 日本共産党は1950年代、一度「終わった」のである。

 共産党にいわせれば正しい綱領路線(政治路線)を敷いたうんぬんという話が出てくるだろうが、まあそういう話は共産党にまかせておこう。



国際共産主義運動を終わらせたソ連への事大主義


 ぼくは、国際共産主義運動を壊滅・衰退に追い込んだのは、なによりもソ連・中国への事大主義(大きなものに仕える=事えるという思想や行動のこと)、これらの国々を擁護する運動に堕落したことだと思っている。社会主義の看板をかかげる国をひたすら守り、カネをもらい、そのメガフォンになってしまうことである。それが左翼の試金石であると前にも書いた

 ところが日本共産党という政党は、50年問題で中ソにふりまわされるのはコリゴリになり、「中国やソ連のいうことはもう話半分で聞くことにしようぜ」という路線をだんだんとるようになった。それまでは日本共産党もやはり他国の共産党同様、そういう病にひどく侵されていたわけで、その結果が50年問題だったのである。
 ただそこからいきなり「自主独立」路線が確立できたわけではなく、あいかわらずソ連や中国、北朝鮮なんかをある程度信頼する態度っていうのは残る。共産党が再起のきっかけになった会議(6全協)以後も、ソ連のハンガリー侵攻を支持したりしているのだ。
 だが、徐々にそこから脱していく。60年代初頭にソ連と大げんかをやり、後半に中国と大げんかをやり、まあだいたい60年代末には基本的に「自主独立」路線が固まっていった。
 いわば「体験」によってつかんだ路線である。「反スターリン主義」のような理論からソ連などに反対するのとはちがう道だ(それゆえに逆にソ連が経済土台自体ももはや社会主義への過渡期ですらなかったと結論づけるのは1994年までかかってしまうのだが)。

 その結果、日本共産党が、ソ連のチェコスロバキア侵攻、アフガニスタン侵略、中国の文化大革命、北朝鮮のテロや拉致を支持せず、批判してきたことは、結局どれか1つ以上にはイカれてしまったヨーロッパの共産党や日本の他の左翼にくらべて卓見というほかない。

北朝鮮の外交戦略  前に紹介したが、重村智計『北朝鮮の外交戦略』(講談社現代新書)で重村は北朝鮮の大韓航空機爆破事件での共産・社会両党の態度を比較してこうのべた。

「共産党の北朝鮮への厳しい対応は、一九八七年一一月二九日の大韓航空機爆破事件でも繰り返された。共産党は、事件直後の早い段階で宮本顕治委員長が新聞記者に『北朝鮮の犯行である』との判断を明らかにした。/一方、社会党の土井たか子委員長は、赤旗が『北朝鮮の犯行』と報じた一九八八年一月二一日に『ソウル五輪を考えると北朝鮮にメリットがある行為とは考えにくい。(韓国の)発表は納得できない』と、まったく誤った判断を示した」

 日本共産党を除籍されいまではすっかり共産党と仲の悪い萩原遼は、自著『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文春文庫)のなかでこのことについて次のように書いている。

北朝鮮に消えた友と私の物語「八八年一月十五日の金賢姫の記者会見をテレビで見た宮本顕治議長が、北の人間にまちがいないと断定して、それまで、まだはっきりした態度をうちだしていなかった『赤旗』の論調を『北の犯行』説に大胆に転換した。/このときの宮本氏の判断の根拠は、『金賢姫が自供しながらもまだ金正日指導者への尊敬を捨てきれない精神状況を示している。こんなことは演技でできることではない』というものであった。金賢姫が長年うえつけられた指導者への崇拝心と、自分の犯した罪への自責の念の葛藤に苦しみながらなおも、崇拝心を完全には捨てきれない心のゆれを見のがさなかった宮本氏の眼力にわたしは感心した。他のことは知らないが、この件にかんしての宮本氏の判断と指導力は卓越していた

 ここには、宮本顕治という政治家が、日本共産党の「自主独立」路線の一つをうちたてるために発揮した政治的イニシアチブがまざまざと示されている。

 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』のなかで、敵・友の区別ということについて「政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それ〔政治的なもの〕に固有の究極的な区別」とのべているが、宮本はまさにこの意味で「政治的」であった。
 敵・友の区別を早い時間でおこない、それを文学者らしいはっきりとした表現の色彩で押し出してしまうのである。この宮本の特性が、日本共産党の自主独立路線を明確なものにしていくうえで大きな影響を与えたことは想像にかたくない。

 批判者からすればこの「自主独立」路線も相当問題があるだろう。
 しかし、50年問題で片づいたと思われた日本共産党がゴキブリのような生命力でしぶとくよみがえってくる基盤をつくるうえで、この「自主独立」路線は大いに資するものがあった。国際共産主義運動が衰退していく最大の要因がソ連などへの追従にあったとさっき述べたが、これは世論に「ソ連の手先」だと見なされるということとともに、理論や路線をソ連からの借り物ですませて、自主的に探求する道を閉ざしてしまうからである。

 この自主的な探求という点で、戦後の日本共産党の「組織拡大」の路線がある。



「赤旗戦略」


 中曽根康弘は、宮本顕治の訃報に接し、宮本について「戦争が終わってから共産党を背負い、いろいろな困難や妨害にも遭遇しながらうまく共産党の骨組みを作り、全国にその力を伸ばしていった」とコメントした。「うまく共産党の骨組みを作り、全国にその力を伸ばしていった」という組織拡大に目をつけるのは、さすが旧内務官僚である。

 電通PRセンターの初代社長・永田久光は、『赤旗戦略―なにが共産党を急伸させたか (1973年)赤旗戦略―なにが共産党を急伸させたか (1973年) 』(講談社)を1973年に書いたが、永田は共産党が70年代に40議席前後に再び伸長した背景に機関紙を網の目のようにふやして支持網と財政網を広げていったことを分析している。
 この本は、「赤旗」を売る青年党員の目が特攻隊員に似ているとか、ル・ボンの『社会主義の心理学』を引いて社会主義者は宗教者と同じで支配されることを熱望しているとか、まあいろいろ書いてあるわけだが、とにもかくにも「赤旗」という武器によって、「まさにマン・ツー・マン方式で、パブリック・リレーション(PR)活動の原点であるツー・ウェイ・コミュニケーションを忠実に実行している」ことに注目をよせている。そして、この「赤旗戦略」を「宮本路線」の所産とみなしている。

「この大会〔1958年の第7回党大会――引用者註〕以後、日本共産党は、いわゆる宮本路線といわれる新しい方向へ歩みはじめる。党のイメージ・チェンジのために最初に実施されたのが『赤旗』を党活動の最前線に押したてることであった。……日本共産党が、いかに機関紙活動を重視したかは、党史の記述によってもわかる。……たしかに一九六〇年代にはいると、『赤旗』の読者の数は非常な勢いで拡大した」
「『赤旗』の拡張がすなわち党勢拡大――日本共産党の最高方針のひとつである。……周恩来が日本共産党を『赤旗』販売株式会社だと語ったと伝えられているが、機関紙『赤旗』を先行、優先させる日本共産党のポリシーからみれば、その表現もまた誤っていない」

 ヨーロッパの共産党の大会での発言は政治路線をめぐる議論が大半をしめるが、日本の共産党の大会というのは、共産党の公刊物を見る限りでは機関紙読者の「陣地」をどうふやしているかという発言がやたらと多い。
 中曽根が永田が注目した宮本流の特異な路線とは、まさにこうした「赤旗」の購読網の構築にあった。
 たとえば宮本自身、「赤旗」をふやすということ、そして、「赤旗」の読者からの集金が乱れていることについて次のように語っている。

「レーニン自身が『西ヨーロッパの諸国では革命をはじめる方がむずかしいが、それは文化の最高の思想が革命的プロレタリアートに対立していて、労働者階級が文化的に奴隷状態にあるからだ』と、こう言っております。そしてまた、『資本主義が発達し、最後の一人まで民主主義文化と組織性が与えられている国』での特別の複雑性に注目しています。今日、日本の大衆は、テレビを見、なんらかの商業新聞を読み、そして、それぞれ政党を支持するという、そういう枠にはめられている。これを変えていくのですから、たいへんな仕事です。
 中国革命のように、一挙にどこに進撃して、どこの町を落とした、だから、ここは解決したというように簡単にいかない。本当に日夜がそういう複雑な思想戦、宣伝戦、組織戦の継続であります。それに耐えるような党でなければ、勝利者になれない。そこで、もっともねばりづよさの要求される英雄主義という、この命題がでてくるわけであります。……死んでもいいとバリケードから飛びでて突撃するという英雄主義でなく、ねばりづよく、敵の思想,文化、組織をうちやぶり、われわれの陣地をふやしていく、ここに最大の英雄主義があるということを言っているわけであります。
 ところが、われわれが機関紙の後退というものに麻痺して、しかも配達の現状、集金の現状が示すように、まったくおどろくべき怠慢、おどろくべき悪慣れ、大衆にたいする無責任、そしてもっとも痛みとしなければならないものを痛みと感じない、非常に大きな官僚主義が、わが党のまじめであるが、やはり前線の活動家にもあるということを率直に認めなければなりません。そういう点では、いまの運動はちょこちょことやってすむものではなく、まさに政治的な組織的なたたかいであり、総合的かつ立体的な活動を要求している」(「赤旗」1981年6月13日付)

 別にこの箇所だけでなく、共産党の方針文書をひもとけば、くり返しこのテの宮本の発言が出てくる。中曽根が驚愕し、永田が瞠目した共産党の網の目のような組織性は、50年問題以後、まったく特異な方法で築かれたのである。



弁証法の見本


 宮本の前の共産党のトップであった徳田球一は、いま生きているお年寄りの左翼に話をきくと、演説が非常にうまく、彼が話せば聴衆は一種のトランス状態になった。なんかその古老に聞いた話では、福岡の球場で戦後すぐに演説し「この球場をぜんぶ私は芋畑にします!」といって大歓声があがったそうである(笑)。なるほど一面的な演説である。今聞けば笑い話にしかならない。だが、そのときたしかに聴衆は熱狂したのである。徳田は一面性を強調し、聴衆の心をたちまちとらえたのだ。
 しかし宮本にはそういう資質はなかった。ぼくも生前一、二度彼の演説を聞いたことがあるが、決して「熱狂」をするたぐいのものではなかった。
 だが、宮本の特長はそこにはない。
 事態の一面性を強調して聴衆をその瞬間とらえるような、投機的な熱い演説ではなく、何十年も耐えうる正確な路線をコツコツと築く、徳川家康のような「暗さ」というか「生真面目さ」が彼の特質だった。

 弁証法とは、よくいわれるような「正反合」の硬直した図式のことではない。あるいは、たとえば「量から質への転化」という弁証法の一つの原則は、量的に単純に連続するような変化が蓄積すると質的な飛躍をおこすということだが、これをドグマのように覚え込んでも意味がない。量的な変化しか見られない石頭の見方ではない、世界の豊かさをとらえる柔軟な発想ができるかどうかが弁証法のポイントであり、「量質転化」は単に一例にすぎない。

 まったく未知の事態に遭遇したとき、どこまで思いもかけないような思考の柔軟性をつらぬけるか――ここに弁証法的思考があるかないかのメルクマールがある。ソ連と中国が社会主義の総本山であるということが、東から太陽がのぼるのとほぼ同じ左翼の常識だった時代に自主独立路線を敷いていったこと、高度成長・大衆社会というまったく新しい事態に遭遇して「新聞をふやすことが革命である」などというとんでもない方針を出して成功したこと──この宮本のなしとげたことはまさしく弁証法の見本だとぼくは思う。

 宮本の功罪についてはさまざま議論があるだろう。しかし、たとえばレーニンについてさまざま功罪があったにせよ、彼がロシア革命という未知の事態においてとった無数の新機軸(革命的敗北主義、二段階連続革命、ネップなどなど)が弁証法の見本であったのと同じことである。





2007.7.20感想記
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