吉田基已『水と銀』1巻

 この漫画に萌えているあなたは、それが絵のせいではなく、星クンといい、華海といい、叶といい、そして佐和子といい、すべて、淋しく人恋しい美人だからである、ということを自覚しなさい。

 男キャラたちは、すべてわれわれのふしだらな生活の、分割した人格にすぎず、われわれが萌えているのは、その淋しげな美人たち以外にはないのだ。まさか、この青春群像に感じ入ったなどと言い出すつもりじゃあるまいね。

 美人が淋しさをかかえて人恋しくてたまらないのだ、というのは、叙情ではなくて、欲望的なファンタジーである。そんな女の人、現実にいないんだから。いや、いるのかな。世の中、そんな話も聞くし。というぐあいに、迷いを続けているぼくのような男がハマるファンタジー。

 セックスが好きな人は華海のところで、シャープな知性が好きな人は佐和子のところで、人を傷つけるとげとげしさが好きな人は叶のところで、そして、淋しくて淋しくてしかたがないというのが好きな人は星クンのところで萌えていくのだ。

 男性たちは、つねに女性たちの淋しさをどこかで理解し、最終的には救済する。星クンも、華海も。
 「(美人の)女たちの淋しさをわかってやることができるのは、ぼくだけなんだよ」というのは、最高の欲望的ファンタジーだ。それはたとえば、「援助交際」=買春をされている女性たちの「淋しさ」を理解する言葉と行動があれば、それを救済しうるというファンタジーに通じる。

 そして、淋しさのあまり誰彼かまわずセックスを求めつづけ、淋しさをまぎらわすために哲生とも等閑で欲望的なセックスばかりしている華海のエピソードが一番好きであると、職場から歩いて帰る夜中の道でハタと思い当たったぼくは、やはりかなりセックスというものに強い妄執をもっているのだと思い知らされ、鬱勃たる気持ちを抱えて、ひとり暗い家路を急ぐのだった。

 ぼくって性欲が人一倍強いんでしょうか、って中学生の性の悩み相談室みたいですね。




※『恋風』にかかわる感想 ※『水の色銀の月』の短評

講談社モーニングKCDX
(以後続刊)2004.1.27記
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