堀田純司『萌え萌えジャパン』



 本書は、「萌え」をめぐる「先鋭的」な現象をとりあげ、その担い手である人たちと受け手である人たちを取材し、そこにどんな関係が生まれているかを、自身のオタク的思い入れをふくませつつ(本人は厳しく否定w)、「一応」ジャーナリスティックにあつかったものである。

 コンテンツは以下のとおり。

萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造 ・メイドカフェ
・抱き枕
・等身大フィギュア
・アイドル
・美少女ゲーム
・声優


 象徴的な担い手と、象徴的な受け手を取材し、そこから普遍的なものをくみとるというオーソドックスなやり方であるが、作品批評でも、萌え萌えの主観的感想でもなく、しかしそこはかとなく感じられる自身の「萌え」という文体に、絶妙の距離感をつけた、イイ文章にしがあっている。
 とにかく、知っていることも知らないことも、どちらも面白かった。


メイドカフェは素通り、等身大フィギュアはヤヴァイ

 ぼく個人的にはメイドカフェはもうまったく受けつけず、まったくよその世界をのぞくような気持ちで読んだ。後に出てくるアイドルとちがって、メイドカフェは徹底した三次元感がただよっていて、「あそこにいるのはリアルな女性じゃないか」などとわけのわからないことを思う。写真での女性を閲覧するシステムもそこはとなく「フーゾク」を思わせ、あまり好きになれなかった。
 コスプレも同じ“三次元”感がどうもダメである。
 といって、取材は面白かった。自分のお気に入りのメイドが毎日弁当をとどけてくれる、とか聞いて、そうか世の中にはそういうことで萌える人がいるんだ、と感心するばかりで、自分の琴線にはまったくふれなかったのである。

 これにたいして、等身大フィギュアは、読んでいて自分でもヤヴァかったと思う。
 等身大にいく前にまずはふつうのフィギュアであるが、生身の女性がもたない二次元感を、三次元に変換してしまったフィギュアという存在は、二次元の完全無垢なままで自分の愛の所有としたいという純情(劣情?)に訴求してきてしまうのだ。
 まず、本書にふんだんに載っている口絵や写真がイカん。
 くわえて本書の取材の内容であるが、等身大フィギュアは、キャラクターものよりも、推計で6:4くらいでオリジナルなものが多いという。それを所有者にインタビューしているのだ。

「アスカは結局どこまで行ってもガイナックスがつくったキャラクターであって、自分のものではないんですよ。……しかしオリジナルのものであれば、自分が注いだ思い入れがそのまま自分だけのものになる。自分と娘だけの物語になるんです」

 アニメや漫画のキャラクターではない、オリジナルの等身大フィギュアは深化と拡大をとげて、かなり広範な層の心をつかんでいるという。高い自由度を設定し、名前以外のすべてを与えることができる「究極の萌え商品」だと堀田は指摘する。
 メーカー側は「人間ってなにか自分以外のものを大切にしたいと思う気持ちがあるんじゃないかと思うんです」などとインタビューにこたえているが、これも愛ゆえに言っていることなのか、テキトーなでっち上げなのかわからないあたりが、また愉快である。

 そして、結局「すてる」という瞬間が来るのではないか、という問いにたいしても本書は取材をしている。その答えは本書を読んでのお楽しみである。

 なんか、メイドカフェとちがって、等身大フィギュアのほうは自分が所有している姿を決して想像できなくはなかっただけに、自分の心の深淵をのぞいたような気持ちになってしまった。いかんいかん。みなさん、ぼくの部屋をたずねてきたとき、部屋にそんなものがあっても驚かないでね。いや、買わないけどさ。でも、そのあの……


 アイドルのところは、小倉優子へのインタビューを試み、小倉がふつうのアイドルではなく、二次元感をただよわせるアイドルであることに着目し、「貧乳なのに売れた」という視点を取材から明らかにしていく(いやそれは堀田の視点じゃないか)。「現在では、現実の女性に対して『萌え』という言葉が使用されることも珍しくはないが、その多くは小倉優子さんのように、キャラクターエンターテイメント〔漫画やアニメのキャラのこと――紙屋研究所注〕の世界が培養した女性の魅力を、現実でありながら身にまとっている女性に対してであり、単なる美人には使用されない」「考えてみれば〔漫画やアニメの〕キャラクターの魅力は、現実の女性の魅力から抽象されて生み出されているわけであり、それを再び逆転させて現実の人が取り入れ、そこに魅力を感じる人がいるとは、日本人とはつくづく繊細な感性を持つ民族である」。

 美少女ゲームと声優の章は、萌えというよりも、単純にここでインタビューをうけているゲーム会社を起業して販売するまでの過程とか、声優業界の昨今の事情のちがいの紹介が興味深かった。「なるほどそんなふうになっているのか」と。つい最近「俳協」は、自分もちょっとお世話になったのであれあれと思ったのである。
 あと、『ラブひな』『ネギま!』の赤松健の隠れなき計算高さ、商業的媚態にも恐れ入った。読者に徹底してコビを売り、計算するのだということを身もフタもないインタビューで自己暴露する。



萌えとはなにか

 出発点となる「萌え」の定義をどこにおくかということであるが、筆者・堀田は「『この世のものならざる形象』へと抱く恋情に似た気持ちを、現代の日本では『萌え』と呼ぶ」といったん標準的な定義をしめす(03.9.6付の東京読売新聞夕刊では「特定のキャラクター、または制服や眼鏡、関西弁などキャラクターの一部分の要素に対し、深い思い入れを抱いて心が奪われる状態を指す」「その対象は、大抵記号的存在であることが特徴だ」とさらに詳細に定義されていると堀田はいう)。
 しかし、それは「小さいお友だち」の、キャラへの愛とどこがちがうのか、という問題をなげかけ、アニメーション監督・鶴巻和哉の「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」だという定義をひいて、これこそが「萌えるよろこびではないだろうか」と賛意をあらわすのだ。
 
 堀田は、第3章第7節で、鶴巻の言をひいて、「萌え」の本質を究明しようとする。

「最初のころにあった『萌え』という現象は、補う行為だったと思うんです。作品の中に『萌え』が描かれているわけじゃないだろうと。『萌え』は受け手の側にあるもので、受け手の中で勝手に芽生える衝動だと思うんです」(鶴巻)

 つまり、最初はたとえば、「ふつう」のアニメである「ガンダム」のなかに萌えをみたが(本書では蜷川新右衛門のアゴに萌えるという例も紹介されていた)、次第に「萌え」をはじめから意識的に生産するようになっていったと鶴巻はいうのだ。

「現在では萌えは売れるということで、本来は語られざる部分であった萌えを、むしろ作品に描きこもうとしている。それはもう『萌え』ではない。言葉だけが残って語義が乗っ取られた」(鶴巻)

 これは現在の「萌え」を追求するだけの漫画が、萌えだけを一面的に追求していき、おどろくほど作品的には「つまらない」ものになっていく(つまり一般人がみたら、あまりのご都合主義や馬鹿さ加減に本を放り投げる)ことの説明の端緒でもある。


 最初の定義は、定義の宿命らしく「萌え」を包括的にあらわすが、非常に「静的」で、堀田が言うように「表面的」にきこえる。関係ないが、最近、毎日小学生新聞が「萌え」の解説をおこなったと、ARTIFACT@ハテナ系経由で知ったが、ここでもこのタイプの「萌え」定義が使われていた。すなわち初心者用の啓蒙「萌え」定義といえる。

 だが、鶴巻=堀田の「萌え」規定は、萌えの動的なダイナミズムをよくあらわしている。

 以前も書いたが、ぼくは中学時代『すくらっぷ・ブック』を読み、絶望にも似た激しい寂寥感に見舞われたことがある。家庭科室や理科室で授業を受けている最中、あるいは放課後、その作品世界のことを思い起こすたびに胸がはりさけそうな悲しい気持ちに襲われ、肉体的にも精神的にもダウナーになってしまった。
 爾来、そのときの精神状態は、いったい何によって生じ来ったものであろうかと、不思議に思っていたのだ。
 いま考えれば、「自分はなぜその作品世界の一人ではないのだろう」というさびしさであり、すでに物語は永遠に終わっていて、そこには絶対に自分が登場しなかったしできもしないことが明瞭になったということからくるさびしさや「絶望感」だったのだと思いいたる。
 そして、それこそが、まさに「萌え」の始まりだったのだと。

 萌えは、脳内において作品世界やキャラを補完しようとする。
 しかし、それは漸近線に似てどこまでもそのものには達しない。
 対象を自分のものとして所有しようとする激しい意欲が愛として顕現し、それが絶対的に叶わないことから生じる複雑な感情――そこにはたしかに萌えの最前線、最激戦区があったに違いない。

 本書を読んで、ようやくそのことが自分のなかでひとつの像をむすんだのである。
 そんなものをむすんでも、誰もほめてくれないが。




講談社
2005.5.9感想記
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