NHK取材班『マネー資本主義』




NHKスペシャル マネー資本主義―暴走から崩壊への真相  「しんぶん赤旗」の書評(共産党国際局次長・田代忠利)で見て、ぜひ読みたいと思った。
 2009年4月から7月にかけて4回にわけて放映したNHKスペシャルを本としてまとめたものである。
 書評でぼくの興味をひいた点は、(1)金融危機の当事者たちのインタビューが生々しく載っていること、(2)〈制裁を受けるまで止まらない〉(書評)という暴走ぶりと〈規制の必要性がよくわかります〉(同前)ということ、(3)〈金融工学の机上の空論ぶりにはあきれました〉(同前)ということなどだった。

 実際に本屋で手にとって目次を眺めた時、4回のテーマのどれもがぼくが生々しく知りたいと思っていたものばかりだったので、即購入を決めた。



「制裁を受けるまで止まらない」



 まず、第1回は「投資銀行」。サブタイトルが〈暴走はなぜ止められなかったか〉とあるように、利潤追求に狂奔する資本がバブルに突っ込んでいてそれを止められないという、マルクスの『資本論』で描かれる資本の本性さながらの様をリアルに証言でつづっているのがよかった。

 以前の投資銀行の雰囲気について、リーマンブラザーズの「社員心得」で本書は紹介する。〈時間をかけて顧客の信頼を築き、儲けだけを優先せずに、社会の脇役に徹することが金融の王道〉(p.16)というものだ。

 これはぼくらが「健全な金融ビジネス」に期待するイメージそのものである。しかしそれが住宅ローンの証券化というアイデアによって激しい競争の場に一変してしまうのだ。

「下位のリーマンやベアスターンズのような純粋な投資銀行は、競争が激しくなっていた。そこで、新奇な商品の開発や高いレバレッジで利益を出すという方法論に、より追い込まれていったというわけだ」(ジョン・ランディング、元ベアスターンズ調査部エコノミスト)

「他社との競争のため、高いレバレッジと複雑な商品に深入りしていくことになりました。この競争を降りると、たちまち仕事を失ってしまう。投資銀行業務も顧客も、すべて失うという感覚でした」(ウォルター・ゲラシモビッチ、元リーマンブラザーズ幹部)

「会社が十分収益を上げていても、それが期待より少しでも下回れば、株式市場やウォール街、世界中で売り叩かれるのです。私たちは、そんな無慈悲な世界に置かれていました」(ゲラシモビッチ)

「理解しにくいでしょうが、金融機関というのは、許されれば極限までリスクを取り続けるものなのです。それは制裁を受けるまで止まらないのです」(ヘンリー・カウフマン、元ソロモンブラザーズ副会長)

 『資本論』を想起させる発言は、第1章にはまだある。たとえば他人資本の導入が投機の冒険に乗り出させる大きな契機となる、という指摘がマルクスの信用論にはあるが、カウフマンの次の発言はまさしくそれである。

「70年代、投資銀行が企業のパートナーだった時代にはなかった考え方が、80年代に株式上場してから主流になった。以前は、資産や負債の所有者は自らの組織と同一化された。しかし、株式会社化されるとその所有者は外部の株主となった。この両者の間では、リスクに対する考え方が変化した。これが借り入れを起こし、自己資本に大きなレバレッジを利かせる誘因になり、最終的に非常に果敢なリスクテイクにつながった」(p.24)

 独占体となった巨大資本の「顧客」収奪も生々しい。

「客を“ひんむしる”のです。商品を売って、大きな利ざやを手にすれば成功でした。年金基金とか保険会社とか、世間知らずの投資家が中身も理解しないまま、膨大なリスクを背負い込んでいました。これは公平なゲームではありませんでした。売り手は買い手より、はるかに情報を持っていますから」(フランク・パートノイ、元モルガンスタンレー幹部)




金余り



 第2章は「超金余り」。
 この問題は、本書には根源的な状況は描かれていない。
 多くの学者が指摘しているところでは、先進資本主義国は高度成長後に基本的なインフラ投資を終えてしまい、世界全体が恒常的に金余り状態になってしまったことに根源的な原因がある。

〈……資本主義経済の確立、発展にともなって金融機構も整備されたのであるが、経済の発展にともなって資金の需要はそのまま正比例的に伸びていくのではないこと、先進国経済が成熟停滞期に入ってからは金融に対する産業の側からの資金需要はむしろ縮小することであった。……これは十九世紀後半に鉄道の建設に始まる産業構造の重化学工業化が進み、鉄鋼、化学、鉱業等の巨大な設備で大量生産を行う産業素材産業が成立し、先進国では再生産構造がひとまず完成したことが基本原因ではないかと思われる。そしてこれ以後、先進資本主義諸国の経済はほとんど恒常的とさえ言える過剰生産に陥るが、それは資本主義が持つ矛盾からの当然の帰結である〉(大槻久志「アメリカ金融恐慌によって露呈された資本主義経済の危機と転換、「前衛」2009.7所収)

 本書にはその点の指摘はないが、本書では時々の金融政策レベルで、金余りがどう生じてきたのかを論じていてそれはそれで興味深かった。




年金基金が資本として暴れ回る



 第3章は「年金マネー」である。
 この章にぼくが持った関心というのは、「現代では資本家というのはいないではないか」という感情的な議論のなかで時々引き合いにだされるのがこの「年金基金」のことだからだ。
 マルクスの『資本論』はもう古い、現代では資本家対労働者という図式はない、その証拠に労働者の老後を潤すはずの年金基金が労働者自身と世界を脅かしているではないか……と。

 まあ、これ自体は微笑ましい誤解である。
 年金基金自体がG−G’を求める資本となって荒れ狂う様はまさに、運用者のどんな固有の人格にも依存せず、むしろ自己増殖を求めて運用者を資本の代弁者にさせてしまうというマルクスの理論をこれほどまでに見事に表している事態はないからだ。

 年金基金という、それがもともとどんな労働者の福祉に役立つ役割をもっていようが、いったんG−G’という資本の本性に委ねられるや、本書のこの章に綴られたような形で貪欲に自己増殖を求めるということが証言によって生々しく語られていく。

「年金基金は非常に強欲だった。高いリスクをとっても利回りを増やしたいと、要求してきた」(ユージン・フラッド、ヘッジファンドであるスミス・ブリーデン社長)

 米カリフォルニア州の退職職員の年金基金であるカルパースが、もともとは慎重な運用をしていたのが、利回りを求めて「もの言う株主」となり、企業を動かして次第に投機にのめり込んでいく。
 やがてそれは〈原油高騰の「陰の主役」〉〈世界各地で暴動を引き起こした穀物高騰にも関わってた〉(p.107)というまでになる。
 そうしたあたりは、『資本論』にはない、現場ならではのリアルさがあるが、逆にいえば、『資本論』の指摘したような事態ががそんなふうなところでも貫徹されることに新鮮さを覚える。

 とくに導入に日本にある「善意」の中小企業むけ小基金がこの狂躁に巻き込まれていくのを取材しているのがいい。いかにこの資本の論理が非情に貫徹されるかを示すものだ。

 卸売市場にあつまる中小業者の集まりであるこの年金基金は、年配の八百屋ばかりになって、給付が苦しくなってきていた。そこで運用をよくしようとして手探りをして大損。あげくにヘッジファンドを紹介されてそれに手を出すのである。

 ヘッジファンドはもともと富裕層むけにやってきたものだったが、「みんなが同じような金融商品に投資するようになったため、利回りが取れなくなったのだ」(アミンカーン・アラディン、ヘッジファンドのアラディン・キャピタル社長)。

〈一部の富裕層のために高い利回りを上げてきたヘッジファンド。ところが顧客が世界中の年金基金になった。利益はならされて配分されるため薄くなった、というわけだ。しかし、高い利回りに味をしめた年金基金は、次の年も、また次の年も同じ水準の利回りを要求してくる。するとヘッジファンドは危険覚悟でいかざるをえなくなる〉(p.122)

 そこでサブプライムローンを組み込んだ金融商品に手を出してしまう、という構図になっている。

 ぼくがびっくりしたのは、ここで紹介されている中小企業の年金基金の現場担当者の認識である。川島という担当者はウォール街のヘッジファンドの事務所を訪れて、こう思ったというのである。

「ウォール街なんか、もう沸騰ですよね。沸騰の経済、資本主義沸騰社会みたいな流れだったのかなと思うんですね。ヘッジファンドの事務所は整然としていて、細かい数字をコンピューター上で、どこに不正がないかというのを常にやっているところを見ていると、これは安心かなというふうに思ってきますよね」(川島英夫、青果年金基金担当者)

 「これは安心かな」じゃねーだろ。
 マネー資本主義とかそういうレベルの話じゃなくて、オフィスが整然としていて、細かい数字を追っているというのはシロウトをだますには大事な要件なんだなーとしみじみ。




金融工学



 第4章は「金融工学」。
 〈とてつもなく優秀な科学者たちによって構築された理論が、どのようにして崩壊し、金融危機につながっていったのか〉(p.155)がテーマである。
 水の浄化システムとサイコロのモデルを使って、リスクを分散したり濃縮したりすることまではわかる。
 
 ただ〈様々なローンを組み合わせるから安全だと言っていたのに、集まるのが住宅ローン債権ばかりになってしまったのだ〉(p.159)。そのことによって〈理論を支えていた前提が崩れた〉(同前)。
 しかしアメリカの住宅価格は30年間上がり続けており、下がり始めるという予測は導かれなかった。〈しかしそんなデータは、この30年間存在しない。存在しないようなことは心配しない、という信じられない判断がまかり通った〉(p.160)。

 ここは正直なところ、よくわからないことが多い。
 住宅ローン債権ばかりになるといったような単一化が進もうが進むまいが、そもそも景気全般が大きく下落したら、いろんな業種や様々なリスクの債権がまざっていてもとどのつまりはダメってことじゃないのか?——という素朴な疑問がわきあがってくるのだ。
 その素朴な疑問のままこの社会的技術の印象を語るとすれば、「平時にはそれなりにリスク管理をするものになるが、非常時には結局役に立たなくなってしまう」ということだろうか。恐慌そのものにはなす術がない、ということである。

 もしそうだとすれば、金融工学はリスクをなくす技術ではなく、ひとに転嫁する技術であって、金融分野の投機性がいっそう激烈なものとなるだけなのだろう。

 金融工学の担い手たちを「クォンツ」と呼ぶ。
 「クォンツ」の一人であるテリー・デュホン(元JPモルガン)が、

「もしGMが15年前に破綻していたら、何十億ドルもの融資をしていた銀行も同時に破綻していたでしょう。しかし今、CDS〔クレジット・デフォルト・スワップ〕のおかげで、そのリスクは大きな金融市場に転嫁できるようになりました。GMが破綻すると巨額の損失が出る。それは確かです。しかしそれは何千もの投資家に分散されるのです。システム全体のリスクという観点で評価すれば、この商品は極めて合理的なものです」(p.153)

と述べていることはわからないでもない。これは「銀行を中心とした金融システムを守る技術」だと読むこともできるが、逆にいえば「銀行が追っていたリスクを社会全体に押しつける技術」だと読むこともできる。

金融危機の資本論―グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか 〈たとえ格付け会社によってトリプルAの格付けがなされても、モノラインによる支払保証がつけられても、債権の証券化というものの本質が、デフォルト(返済不履行)のリスクを他者に転化ママしていくところにあるという点は変わりませんよね。だから、その証券を買った金融機関はデフォルトになる前に利益を得ようとして、すぐにその証券を別の投資家に転売することになる。こうして一気にリスクが世界中に拡散され、なおかつ金融も短期化していったんですね〉(萱野稔人・本山美彦『金融危機の資本論』、萱野の発言、p.89)




マルクスと現代恐慌——無理なあてはめをせずに



 今回の恐慌をマルクスに説明してもらおうとするとき、ぼくはマルクスが想定した恐慌の展開(商業信用による架空需要の積み重なりなど)に無理に「当てはめる」必要はないと思う。

 それよりも、マルクスが解明した資本の本性(利潤第一主義)や信用の投機性がこの事態をひきおこしたという、もっと本質的な部分でマルクスと恐慌との関係を見た方が無理がないのではないかと思う。

 マルクスは恐慌の根拠・原因を「生産と消費の矛盾」にみた。狭く制限され続ける消費と、「生産のための生産」に駆り立てられ暴走し過剰となる生産の間の矛盾として恐慌をとらえたのである。そしてそこに需給メカニズムを働かせない装置として、架空需要の積み重なりや信用が大きな役割を果たすとみなした。

 経済学者の大槻久志は、〈過剰生産を解決し、生産を維持・拡大して利益を得るために、先進資本主義社会が活発に活動を続けたのが二十世紀であった。その要点は生産を拡大することなく消費を拡大することである。その手段は一つは何かの経済主体が債務を負って消費することである。第二には生産を拡大することなく労働者に所得を与えて消費を拡大することである〉(大槻前掲)と述べて、国による消費の拡大(戦争や公共事業)とともに、米国に典型的なローン社会の問題を指摘する。

〈証券化は過剰生産に対する人為的消費拡大の最後の手段であり、それが失敗したらあとが無いという、資本主義存立の根底にかかわるおのであった〉(大槻前掲書)。

 このあたりが手がかりになるのではないかと、ぼくは思う。いずれにせよ、マルクスの恐慌論と現代恐慌を結びつけて論じるのはまだ確定したものはない。

 ただ、本書はその解明をしていくうえでの一つの手がかりを与えるものになっている。




NHK出版
NHK取材班
『NHKスペシャル マネー資本主義 暴走から崩壊への真相』
2009.12.31感想記
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