川富士立夏・黒沢明世『モーニン!』



漫画作品としては…うーん


モーニン!  葬儀屋の話だ。
 主人公の戎富久子(えびす・ふくこ)は、音楽大学を出たが就職先がなく、まったく畑違いの葬祭会社に就職することになる。モーニンmourningとは「(死に対する)悲嘆・哀悼の意」だ。
 主人公が失敗をしながら成長するという物語をベースにしているが、朝日新聞の「マンガ教養講座」でも昨年(05年)2月6日付で南信長がこの作品について述べたとおり、「マンガ表現として突出したものがあるわけでもない」。


 むしろ“ドジで思い入れが強いけど、そんな急角度な失敗を経て一つひとつ成長していくの”という、いかにも「YOU」誌的なキャラクター設定、ベタ展開に少々辟易するほどだ。
 先述の「マンガ教養講座」でも、あるいは松尾慈子でも「漫画偏愛主義」でとりあげられた(05.2.4)シーンなのだが、富久子の教育的批判者の役回りである先輩の戸村井潤子が、自殺者の遺体片を一つひとつ拾い集め、自分の幼少の体験を話すという場面も、漫画としてはあまり胸にこない。



問題提起の鋭角さが魅力


 それでもたとえば、同じ葬祭企業を描いた水野トビオ『まいど御愁SHOW様!!』よりも面白く読めるのは、物語ではなく、その主張の戦闘性ゆえにである。いや「戦闘性」というと、この場合は誤解をまねくだろう。
 原作者・川富士は取材や調査を重ねるなかで、現実の葬儀にたいするはっきりとした「批判」のスタンスをもつ。しかし、同時にその「批判」をすでに受けとめている良心的な企業の存在や、必要に迫られてそうせざるをえない寺院の気持ちを、他方で斟酌しているのである。

 葬儀の現状について疑問をいだいている読者は、これを読むと、あれこれ考えさせられてしまうのだ。つまりこの漫画がおこなっている問題提起が鋭いのだといえる。

 そして、「葬儀」というテーマ自身、実は多くの人が悩んだり不満に思ったりしながらも、これまであまり声をあげたり、交流したり、あるいは言説化してこなかった。

 いま、「しんぶん赤旗」でも「現代こころ模様 葬儀考」という特集がかなり大きな反響を呼んでいるらしく、1000通もの手紙などがよせられているという。すでに「第五部」にわたるという人気ぶりだ。記事への賛否も非常に直截に載せるので、読んでいてかなりの知的興奮がある。
 営利主義に走る葬祭企業のあり方、自分の死については依然「イエ」や他人にしばられる問題、逆に「革新」的すぎる葬祭のあり方と調和の問題など、本当に自分らしく生の決算をするために、多くの人が模索したり悩んだりしているのだなと感じる。

 そこにこの作品はよく応えたのだ。



平均236万円ってどうよ


 だから、ひょっとすると漫画本体よりも、エピソードごとの終わりにつけられた原作者・川富士のコラムの方が面白かったりすることがある。

 冒頭のエピソードは、主人公が世話になっていたピアノの教師が死んだとき、担当した葬儀屋が混乱につけこんでいい加減な見積で、次々とふっかける様を描くのだが、川富士の後のコラムのほうのが、ぼくには興味をひいた。

「平成十五年に、(財)日本消費者協会が発表した資料によると、葬儀費用合計額の全国平均は236万6千円。新車が一台購入できる金額です。新車の購入なら事前に十分検討するでしょう。けれど葬儀に関しては『気が付くとその値段になってしまった』ケースが大半を占めるのです」(p.45)

 200万円をこえるというのは、誰が聞いても高い。
 「健康で文化的な最低限度の生活」(日本国憲法第25条)を営むために、生活保護受給者の「市営葬祭」は、納棺から葬儀の飾り付け、祭壇、司会、霊きゅう車、火葬、骨揚げにいたるまですべてひっくるめても3万7千円(大阪・高槻市の例)であることを考えると236万円というのはいかに途方もない額かわかる。



葬式仏教への批判


 また、1巻の後半は「葬式仏教って何?」という連続エピソードにあてられている。
 カネにがめつい僧侶を登場させ、主人公の「誤解」が事態を複雑にしていく展開だ。
 戒名をつけるのに200万円、などという話が登場し、後のコラムでも戒名の「ランク」による「相場」を紹介している。

 「葬式仏教」という言葉について、川富士は、「生きている人間に釈迦の教えを伝え広めることが僧侶の努めなのに そういう努力をしないで葬式絡みの仕事しかしない そんな現状を茶化して『葬式仏教』って呼ぶんだよ」という富久子の男の先輩の言葉で解説する。

 しかし、この連話では、こうした「坊主丸もうけ」を暴くのではなく、むしろなぜ僧侶はそういう必死の金銭的努力をしなければならないか、ということへの同情をにじませていく。
 たしかに宗教としてかかわるには寺院仏教は縁遠く、かつ、葬儀や法事にまつわるものも無意味に高額に感じられるというのが人情だ。他方で、そうせざるをえない寺院側の窮状も描いてみせることで、結論を出さずに読者に問題をそのまま投げ出してみせている。



新興仏青の「無料葬祭」


 ぼくは、この『モーニン!』を読んで、ある戦前の運動と、自分のかかわった葬儀や法要について思い出していた。


◆葬祭式典の無料施行!!

 刻々に迫る大衆生活の破綻は、煩わしき因習的形式を許さなくなりました。一法要ごとに不可解な、無意義な儀典を以て、時と財とを空しく浪費するの理由がどこにありましょうか。新興仏教青年同盟は時代の現相に鑑みるところあり、決然かかる因習を打破して大衆生活に即したる式典によって故人を送りたいと思います。生の一切を清算して永久に人生の終局を告ぐる最大の記念すべき日、儀礼と虚飾を廃して、“死”の意義を徹底化するため、厳粛明朗なる式典を希わるる方のために茲に祭典部を設けました。

 典則

一、棺前の装飾は清楚なる草花一供を設らえ、供物をなさざること。
二、棺は白布にて蔽い装飾を施さざること。
三、得度、塔婆、法名等無意義なる因習的形式を廃止すること。
四、読経は仏陀の本旨を汲む経典を訓読す。(参列者合唱)
五、本同盟員二名以上参列して弔詞を朗読す。
六、一般参列者の弔詞をうく。……〔以下略〕

 これは1931年に妹尾義郎らを中心に結成された新興仏教青年同盟(新興仏青)がまいたビラである。
 新興仏青は戦前日本において既存仏教団への激しい批判をおこないながら、仏教の革新をうたった団体である。反戦平和、反ファッショをかかげたがゆえにやがて官憲により壊滅的な弾圧にさらされるのだが、その一方で「新興仏青は日常市民の卑近な面からも生活改善の提唱をした」(稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ』岩波新書)。
 葬式だけでなく、結婚式や墓地の改革などもおこない、消費協同組合運動も視野にいれていた。無料葬儀運動は、恐慌のなか貧困にあえぐ民衆の要求に合致したようで「これにはほうぼうから反響」(同前)があったようである。

 廉価な葬儀、「葬式仏教」批判……この新興仏青のビラには、先ほど『モーニン!』でとりあげられたことがすでに顔を出している
 すでに先進的な人々によって、葬儀の問題はくり返し考えぬかれてきたのだろう。しかし、それが本当に社会全体に広がることはなかった。結婚式においては戦後、「イエ」対「イエ」をやめ(もちろん広範にこの慣習は残っているが)、「実行委員会」形式で「個人」対「個人」のものにするスタイルが生まれ、現在ではこうした成果も受けてさまざまな個人主義的スタイルの結婚式・結婚パーティーが隆盛だ。
 しかし、葬儀はまだ結婚式ほどに自由ではない。
 この分野では前近代のスタイルがそのまま踏襲され、そこに資本が一枚かむことによってマニュアル化だけが進んだ。

 けっきょく、ぼくらは葬儀にどうむきあえばいいのか。




自分が葬儀に出て感じてきたこと


 ここ10年くらいで、ぼくの祖父母が亡くなり、葬儀や法事を数々経験した。
 ぼくは喪主ではないので、事務に忙殺されるということはなかった。
 しかし、完全に客というわけでもないので、それなりにかり出されるという立場だ。

 そんな立場で、葬儀の準備、読経、出棺などを見ていたが、万事が手順にしたがって事務的に「つつがなく」すすんでいく。とくに祖父(父方)が亡くなったときはそういう感じが強かった。祖父は80代で亡くなったが年齢からみてほぼ「寿命をまっとう」といえる死であり、葬儀でも出棺、その後荼毘に付されるとき以外は実に淡々としており、談笑さえ見られた(まったく関係ない話題で)。

 ぼくは「おじいさん子」で、労働に忙しかった父母にかわって、祖父に育てられたようなものである。ちびったウンコを始末してもらったこともある。祖父から絵を教えてもらったり、幼少期の知識の基盤の多くをそこに負うていたので、祖父を追悼する気持ちを強くもっていた。

 だが、結果的に、葬儀のなかではそれはまったく果たされなかった。
 祖父のことを思い出すということは、ぼくの頭のなか、ないしはときおり会席者から偶然もれる「思い出の雑談」のようなものでしか実現できなかった。

 浄土宗特有の苦痛とも思える長い読経、弔意を表したことを顕現させる便利な記号としての「焼香」、体裁としての喪主の弔辞――そういう葬儀の場にいながら、ぼくはなぜこのような追悼をしなければならないのかとぼんやりと思った。少しばかりイヤな気持ちで。

 祖母(父方)が亡くなったときは、喪主であった父親はかなり豪勢な葬儀を開いた。
 俗物である父だが、なにかこれで勢力をのばそうとかそういうビジネス上の野心ではなく、お金をかけることを弔意の大きさとみなす、父親なりのピュアな気持ちの現れだったにちがいない。

 ただ、そのなかで、葬儀会館の司会者が祖母の歴史・人柄を、少々物語風にアレンジして読み上げた瞬間があった。
 「じん」とくるような中身ではなかったが(むしろメタな意味では可笑しみがあった)、それでもその瞬間祖母の人生や祖母の生きざまについて、確かにぼくは――そしておそらくは会席者の多くが――思いをめぐらした。

 葬儀とは「追悼」の場所であり、故人を偲ぶ場であるとすればこうした要素が格段に大きくならねばいけないのではないか、とぼくは思ったものだった。たとえば、祖父母は古いものもふくめて比較的写真が多い人だったから、スライドなんかもいいんじゃないかとか。



ぼく自身の考えをあらためる


 しかし、「しんぶん赤旗」の前掲の連載を読むうちに、あるいは、義父母の議論を聞くうちに、そうしたぼくの考えもまた、決して「普遍化」できるものではないと気づく。
 つれあいの母親、すなわち義母は自分の死んだ後の葬儀について、「散骨」を望んでいた。
 ところが、義父は、「散骨は手続きが大変で、残った人が本当に苦労する。もう死んだら何も言えないのだし、葬儀は故人のものではなくすでに遺族のものなのだから遺族がやりたいようにやればいい。だから私は葬儀については何も言い遺さない。好きにやりなさい」といったのだ。

 葬儀は「普遍化」できるものはなく、一人ひとりにとって「いい」ようにどうやって送れるか、ということしかないのである。

 『モーニン!』にもどれば、この漫画はそうした思考をめぐらしていくうえで、まずはかっこうの材料提供になる漫画だろうと思う。





集英社クィーンズコミックス
原作:川富士立夏 作画:黒沢明世
2006.5.27感想記
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