石川雅之『もやしもん』



もやしもん 1 (1)  短い期間だったが、大学に入ってすぐにぼくは自治寮で暮らした。

 部屋がまだ割り振れぬというので、大部屋で雑魚寝をさせられていると、夜中いきなり上回生(上級生)が大量に入ってきて酒をのみだす。まだ入学式前、寮に来て1〜2日の新入生を肴に、である。
 ことし大学8回生という童顔の男が、新入生相手に大ぼらを吹き出したかと思うと、威勢のいい新入生がそれに喰ってかかる。
 やがて酒に酔った寮生数人がいきなり部屋の外で「インタナショナル」を放歌しだす。

 いざたたかわん いざ
 ふるいたて いざ
 ああ インタナショナル
 われらがもの

 「俺も共産主義者なんですよ」などと、ぼくの横の見ず知らずの新入生が告白。向こう側で「おれはアナキスト」「私は民族派だ」というやつが出たかとおもえば、負けじとぼくも「俺もコミュニストです」などと修学旅行の夜ならぬバカな“告白ごっこ”を開始した。

 初日の夜からこのような異常空間にまきこまれた。

 しかし、ぼくはしみじみと「ああ、これが大学だ」と心の底から入学を喜んだものである。

 入学してもサークルの上回生どもは、カントだヘーゲルだマルクスだと衒学趣味のきわみで、読んでないヤツは大馬鹿だとこきおろされて、こっちもあおられて本を読む。
 そうかと思えば、「これおれが書いたんだけど」といきなり「南朝鮮労働党壊滅史」などと大書された趣味的研究文書を渡されたこともあった。そのガタガタワープロ文字ででっかく印字された、コピーの表紙をみただけで、ぼくはあまりの世界の奥深さに、くらくらしてしまった。


 地元ではちょっとした受験エリートだなどといい気になっていた人間は、この種の大学に来て、自分がいかに井の中の蛙だったかを思い知らされる。
 文化的思想的鉄槌をうけ、脳味噌はぐちゃぐちゃにかきまわされるのだ。

 映画「千と千尋の神隠し」のなかで宮崎駿は、「10才の子どもからみた大人社会=労働社会」をファンタジックに描出した。子どもからみれば、器用な釜炊き職人は、手が何本もあるようなクモ男のようにみえるし、客引きをしている人間は妖怪かカエルのように見えるのだろう。
 大学の新入生は10才の子どもではないから、それほどではない。
 しかし、自治寮やサークル棟があるような大学に来たとき、新入生はまさに“異界”にとびこんだように感じるにちがいない。

 『もやしもん』の冒頭で、東京の農業大学にやってきた主人公の沢木直保と友人の結城蛍は、大学構内を「探検」するうちに、不思議な光景に次々出会う。

――背丈ほどのダイコンをはこぶ人々
――豚の行列の後を職人のように糞の始末をして歩く人々
――「BIO HAZARD」と書かれた看板のもとで「防護服実習」をする人々

 沢木が「大学って皆こんな感じなのか?」「何か……東京の大学ってイメージが崩れてくぞ」と激しい違和感を表明する。
 結城の「いや…学校は田舎っぽいけど一歩外に出たら東京だからね」というセリフは、まさに大学のなかが「異空間」であることを端的にしめしている。
 ところどころにはさまれるこの農大の風景の描写も、デフォルメが効いている。
 川と橋、遠景に山、「ザ ザ ザ ザ」と風が渡るのを描いたコマは、たしかにそんな場所もあるのかもしれないけど、東京という日常からは絶対的に隔絶された「異界」だという印象をぼくらに植え付ける。
 とりわけ農大や農学部はそうだろう。大学構内を歩いていて農学部の敷地にくると、突如ブタだのヒツジだの畑だの田んぼだの梨園だのが広がる世界にぼくらは迷い込む。


 『もやしもん』では、「オリエンテーション」の様子も描かれる。まるで農大というシステムの精神を一つひとつ「洗脳」していくような儀式の連続で、参加した新入生たちのカルチャーショックが面白い。つか、「そうだったよな」と大学の新歓(新入生歓迎)期を思い返す。


 きわめつけは、沢木と結城をむかえる農大の上級生や教授たちである。

 2年生の美里薫と川浜拓馬(「ヒゲとデブ」)はその典型だ。
 貧乏学生としてカビだらけの自治寮に暮らし、何か金もうけはできないかと、密造酒を研究・試作して大失敗する。二人は、クチカミ酒をつくったり、そのなかに味がまろやかになるというので、「ある昆虫」の卵嚢をいれて、沢木に飲ませたりする。

 その学問的山師根性。これと結合した野心的でマッドな研究態度。知的猥雑。
 これぞ大学。ザ・大学である。
 つか、教養部生からみた「大学」とでもいおうか。

 この2人に敵対的な女性院生、長谷川遥とあわせて、3人でいい味を出している。物語的安定構造を保っているのは、この3人が「ヤッターマン」の「ドロンジョ・トンズラー・ボヤッキー」的位置関係にあるからであろう。さしずめ樹(いつき)教授は、ドクロベーか。



 沢木には「菌」が見える。
 しかも漫画のような形で「菌」がみえ、菌たちと会話までできるというのだから、実に「マンガ」的だ。実はこの物語の主軸はその沢木の菌の可視能力にあり、そのことを通じて、ぼくらの日常の多くのことがさまざまな菌の力で営まれているのだなあということを実感できる「ウンチク漫画」なのである。

 あまりウンチク漫画が好きでないぼくが楽しめる最大の背景は、この(新入生からみた)大学的雰囲気をあますところなく伝えているからだ。
 たとえば、「アザラシの死体をつかった漬け物キビヤック」や「エイを丸ごと発酵させたホンオフェ」といったインパクトのあるエピソードも、「マッドな大学の上級生(その究極体である教授)がくり出すわけのわからぬ奥深い世界」という衣をまとっているからこそ、いっそう面白く読めるのである。

 ぼくは、空港で買って、行き先でも戻ってきてからもくり返し読んでしまった。
 背景にある空気と、それに乗って描かれるコマがとても印象的なのだ。

 2巻以降が大いに楽しみである。


 余談だが、最近、「キレイな教室だけど、ビルのなかにある大学」とか「サークル棟も自治寮もない大学」というのをよくみる。講義を受けたら帰宅するだけの、大学がまるで専門学校のようになってしまっているのは、大学にとって大変不幸なことであると思う(専門学校が不幸なわけではなく、大学が大学としての重要な本質を失っていることが不幸だという意味。念のため)。文部科学省が自治寮つぶしをずっとやってきたけど、それは支配層にとっても失敗の教育政策ではないかと思う。人間をいちど知的坩堝のなかに投げ込むという作用が、なくなってしまうからである。

 ところで、石川の漫画をすべて見たわけではなく、この本のほか『人斬り龍馬』を読んだ程度なのだが、女性の描き方が少し不自由だ。
 いや『もやしもん』に出てくる長谷川も及川もどちらもぼくの好みでよろしいのだが、パターンがそれしかない、ということ。
 石川は女性の顔のパーツを大きめに描くので、どのキャラも意志的に見え、かならず“凛”とした調子が出てしまう。コケティッシュさがない。別にぼくが女性に媚態を求めているわけじゃなくて、そうなると採用できるパターンが少なくなるということなのだが。

 それとも『週刊石川雅之』あたりを読めば、多種多様な女性像が展開されているのかしら。

 
 
 

※2巻の短評はこちら ※『週刊石川雅之』の短評はこちら

講談社イブニングKC
1巻(以後続刊)
2005.6.20感想記
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