講義の註です。


■マルクス『資本論』 新日本出版 2分冊 p395
資本家としては、彼はただ人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本は唯一の生活本能を、すなわち自己を増殖し、剰余価値を創造し、その不変部分である生産諸手段で、できる限り大きな量の剰余価値を吸収しようとする本能を、もっている。


■マルクス『資本論』 2-p464
“大洪水よ、わが亡きあとに来れ!”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。それゆえ、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない。……しかし、全体として見れば、このこともまた、個々の資本家の善意または悪意に依存するものではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいして外的な強制法則として通させるのである。


■マルクス『資本論』 3-p576
資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。


■マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』
「共同社会においてはじめて、各個人にとって、彼の諸素質をあらゆる方向へ発達させる諸手段が存在するのであり、したがって、共同社会においてはじめて、人格的自由が可能になる。共同社会のこれまでの代用物、すなわち国家などにおいては、人格的自由は、支配階級の諸関係のなかで育成された諸個人にとってだけ、そして、彼らがこの階級の諸個人であったかぎりでだけ、存在した。これまで諸個人がそこへ結合した見かけの共同社会は、つねに彼らにたいして自立していたし、被支配階級にとっては、まったく幻想的な共同社会であっただけではなく、あらたな桎梏でもあった。真の共同社会においては、諸個人は、彼らの連合のなかで、また連合をとおして、同時に彼らの自由を獲得する」(p85新日本)


■マルクス『資本論』 6-p497〜498
社会的悟性がいつも“祭が終わってから”はじめて妥当なものとされる資本主義社会では、つねに大きなかく乱が生じうるのであり、また生じざるをえない。(※全集版では「社会的理性」と訳)


■マルクス『資本論』 1-p133
最後に、目先を変えるために、共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。


■マルクス『資本論』 10-p758
他方では、それ(株式会社)は、これまではまだ資本所有と結びついていた再生産過程上のすべての機能が、結合された生産者たちの単なる諸機能に、社会的諸機能に、転化するための通過点である。


■マルクス『資本論』 11-p1064
最後に、資本主義的生産様式から結合された労働の生産様式への移行の時期に、信用制度が有力な槓杆として役立つことは、なんの疑いもない


■マルクス『資本論』 13-p1435
この領域(物質的生産の領域)における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって……支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点だけありうる。


■マルクス『資本論』 3-p864
工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。


■マルクス『資本論』 6-p1305〜1306
この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と相ならんで、ますます増大する規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的な労働の生産手段としてのその使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへのすべての国民の編入、したがってまた資本主義体制の国際的性格が、発展する。


■エンゲルス『空想から科学へ』 新日本文庫p51〜53
ブルジョアジーは、あの制限された生産手段を個人の生産手段から社会的な、ただ人間の集団によってのみ使用できる生産手段に変えることなしには、あの生産手段を強力な生産力に変えることはできなかった。……そして、生産手段と同様に、生産そのものが一連の個人的行動から一連の社会的行為に変わり、生産物は個人の生産物から社会的生産物に変わった。……(資本主義のもとで)生産手段と生産は、本質的に社会的になっている。


■エンゲルス『空想から科学へ』 新日本文庫p62〜63
強力に発展していく生産力は生産力の資本という性質に反抗し、生産力の社会的性質を承認させようとする強制をますます強めていくが、この生産力の反抗と強制が、資本主義的生産関係の内部で可能なかぎり、ますます生産力を社会的生産力として扱うように資本家階級自身に強要するのである。無制限な信用膨張をともなう産業の好況にしても、大きな資本主義企業の倒産による恐慌そのものにしても、ますます大量の生産手段が、いろいろな種類の株式会社という形で、われわれのまえにあらわれてくるような、あのような社会化の形態をとるようにかりたてる。


■エンゲルス『空想から科学へ』 新日本文庫p51〜53
われわれが(生産力の)本性と性格を理解することを頑固に拒否しているあいだは――しかもこれを理解することに反抗しているのは資本主義的生産様式とその擁護者である――、そのあいだは、この力はわれわれにかかりあわず、われわれにさからって作用し、すでにくわしくのべたように、われわれを支配する。しかし、ひとたびその本性を把握するなら、共同社会に結合した生産者たちの手のなかで、この力は悪魔のような支配者から従順な召使に変えられる。それは、雷雨の稲妻のもつ電気の破壊的な力と電信やアーク灯の手なずけられた電気とのちがいであり、火事と人間のためにはたらいている火とのちがいである。


■自然への人間の働きかけという問題
エンゲルスの「自然支配」概念の多用をもって、マルクスやエンゲルスを自然にたいする搾取者とみなすむきがある。しかし、すでにマルクスは「物質代謝」というカテゴリーでこれをあつかい(前述の註を参照)、マルクスの「生産」概念が、「類的生活の再生産」つまり人間の生活そのものの再生産をふくんでいるように、マルクスの生産力概念を、一方的な自然にたいする搾取だとするのは、当たらない。ハーバーマスが「自然を可能な技術的処理の対象としてあつかうのではなく、可能な相互行為の相手としてこれに接することはできる。搾取するための自然ではなく、同胞としてつきあえる自然をもとめることはできる」(『〈イデオロギー〉としての技術と科学』)とのべている点は、すでにマルクスやエンゲルスのうちに、その萌芽がある。エンゲルスも「自然支配」概念をのべたすぐあとに、「自然の復讐」として、森林破壊による荒廃や洪水、外来植物による腺病の流行を指摘している(エンゲルス『自然の弁証法』)ように、自然の外にあって自然を支配する人間という見方ではなく、主眼は自然の法則的認識による制御にある。『現代に挑む唯物論』(学習の友社)の久野秀二「環境問題と史的唯物論」が参照になる。



■レーニン「ロシア革命の五カ年と世界革命の展望」 全集33 p444〜445
わが国でわれわれが建設してきたような国家資本主義(革命ロシアのこと)は、独特な国家資本主義である。それは、国家資本主義の普通の概念には合致しない。われわれはすべての瞰制高地をにぎっている。われわれは土地をにぎっている。……われわれは土地をばかりでなく、工業のもっとも重要な部分をもすべて、プロレタリア国家の手ににぎっているという点で、わが国家資本主義は、文字どおりに理解された国家資本主義とはちがっている


■日本の自動車公害対策の問題をみるうえでは、東京都『東京都環境白書2000』p23〜31「1 我が国の排ガス規制の問題点」、柴田徳衛・永井進・水谷洋一編著『クルマ依存社会 自動車排ガス汚染から考える』(実教出版、1995)の「第6章 健康影響評価の現状と今後の課題」「第7章 自動車公害汚染防止へのシステムズアプローチ」などが参考になる。また、東京都『東京都環境白書2000』p49〜53で過度の自動車依存から脱却するとして紹介している、イギリス、フランス、アメリカの都市交通政策が比較する場合、参考になる。


■ヴォルコゴーノフ『勝利と悲劇――スターリンの政治的肖像』(朝日新聞社、1992)
■メドヴェージェフ『共産主義とは何か』(三一書房、1973)


■日本経団連「企業行動憲章
たとえば、「第6原則 従業員のゆとりと豊かさを実現し、安全で働きやすい環境を確保するとともに、従業員の人格、個性を尊重する」。
この日本経団連加盟企業であり、申告所得で全国11位(2002年)と都市銀行を大きく上回る利益をあげる、サラ金「武富士」の“営業指導”テープ(文中の「武井」は、オーナー武井保雄氏の次男、武井健晃専務=33才)をおききいただきたい。(しんぶん赤旗2004年1月25日付)

【2003年6月9日】
武井「回収いくらだ?」
男性「2710(万円)でございます」
武井「全然回収してねえじゃん」
男性「申し訳ございません」
武井「この野郎。ボケてんのか、この野郎」
男性「本部長、申し訳ございません」

【2003年7月23日】
武井「回収、いくら、今」
男性「回収、830でございます」
武井「約(返済の約束)は?」
男性「2900」
武井「全然足りねえじゃん」
男性「申し訳ございません」
武井「何でやらないんだ、おまえ」
男性「本部長、やります。申し訳ございません」
武井「引き返してやりいや」
男性「やります」
武井「おまえら、何でやらねえんだ、おらーっ」
男性「やります。絶対やります」

【2003年8月】
武井「何もやらねえじゃん、おめえ」
男性「いや、やります」
武井「全然ダメだよ」
男性「申し訳ございません」
武井「ダメな人をいつまでおいといてもさ、ダメになるよ」
男性「本部長、やります」
武井「ズルズルやるなよ、おまえ」
男性「やります。申し訳ございません」
武井「おまえ、ラリ公みてえなやつだな」
男性「やります」
武井「おまえ、無理なんじゃないの」
男性「絶対やります」
武井「辞めたほうがいいんじゃないの?」
男性「絶対やります」

武富士を告訴する元社員によれば、これは罵声と檄をあわせた「バキ」とよばれるもの。「どんな屈辱的なことをいわれても『申し訳ありません』といわなくてはならない。反抗したら降格されたりする。ノルマを達成しようと(違法業務などの)無理をするようになる」。
これが日本経団連のうたう「従業員のゆとりと豊かさ」「安全で働きやすい環境」「従業員の人格、個性を尊重」なのだろうか。




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※不破の講演は全文が公開され次第リンクします