紙屋研究所は2004年2月11日、反動的「建国記念の日」に、桃源郷ホールで聴衆3人を前に約1時間22分の講演をおこなった(2万1817字=実際に計測)。不破は予定では2時間の講義だという。しかも共産党論をこれにくわえているだろうから、それを差し引くと、だいたい同じくらいの時間だろう。
 以下はその大要である。

 なお、「意見してやる」「どこのデータだ」「そりゃおかしい」など、ごたくが好きな人は、それぞれの箇所でリンクをはって「註」をつけたので、それを参照してほしい。



はじめに――この講義の獲得目標

 わたしが、きょうお話しするのは、第一に、「共産主義とは何か」、第二に、「共産主義を実現するにはどうしたらいいか」、第三に、「そのためにわたしたちはいま具体的に何をすればいいのか」という3点です。もしきょうのわたしの話がおわったあとで、この3点が明確にならなければ、すなわち、みなさんの頭のなかではっきりしたイメージがもてなければ、わたしのお話は失敗したということになります。

 青年のみなさんからは、よく「友だちに共産主義の話をどうやってしたらいいかわからない」というとまどいをききます。ふつうに生活しているなかで、わたしたちは共産主義というものを意識することはありません。言い方が妙になりますが、共産主義がなくても生きていける、とふつう思われています。きょう買い物にいく、あす友人とご飯を食べる、あさって仕事に出かける、そういうわたしたちの現実にとって、自動車は要るかもしれない。あるいは、お金は要るかもしれない。しかし共産主義は必要あるだろうか。
 それどころか、せいぜい、テレビから流れてくる北朝鮮や旧ソ連の報道によって、「恐ろしい全体主義の体制」として、二度とふれてはいけないものとして記憶されるだけだろうと思います。

 しかし、わたしは――あえて妙な言い方をしますが――「共産主義がなければ生きていけない」ということをいいたいのです。


 いま、わたしたちがくらしている世界に目を転じてみます。するとこの世界では、これを解決しておかなければ、たいへんなことになるという問題が山積みしています。わたしは、3つほどの問題をとりあげてみたいとおもいます。

0. わたしたちの生存と生活をおびやかす資本主義の3つの問題に共通するもの――モウケ最優先の社会原理

 ひとつめは南北問題、ふたつめは地球環境の問題、みっつめは失業の問題です。

 ところで、唐突なんですが、わたしは、よくコンビニをつかいます。コンビニ依存症といわれるくらいに。とくに奥が深いのはセブンイレブン。シュークリームはかなり深まっています。
 さて、そのコンビニなんですが、じつは、いまのべた三つの問題は、すべてこのコンビニとむすびついています。

(1)南北問題、とくに飢餓。なぜ一方に飽食があり、他方で飢えるのか

 みなさんがコンビニを使うさいにお弁当とかをよく買うんじゃないかと思います。わたしの職場のちかくでも、昼休みのコンビニは、弁当を買うサラリーマンや予備校生、専門学校生でごったがえましす。
 あのお弁当なんですけど、いついってもだいたいありますよね。まあ、ないときもありますけど。とにかくいつでも弁当がおいてある状態にしている。コンビニではコンピュータやデータをつかって、かなり精確に売れる量を当てられるようですけど、それでも途切れることのないようにつくっておいておくので、けっこう無駄になります。
 どれくらいがムダになっているか。
 コンビニで賞味期限がすぎて捨てる食品は、年間700万トンだそうです。これはどれくらいの数字なのかといいますと、1340万人分、チリの国民全員の年間分に匹敵する食糧です。
 これ以外にも、たくさんの外食産業が日本にはありますし、そういうものをぜんぶあわせると、カロリーでいうと、全食品の24%がムダに捨てられているといわれています。アメリカはもっとすさまじいですよ。年4360万トン、じつに8000万人ぶんの食料が捨てられています。(月尾嘉男『縮小文明の展望』p256〜257)

 他方で、世界には、飢えている人がたくさんいます。ある国連機関(FAO)のしらべたところによると、8億2800万人もいるといわれています。アフリカと東南アジア、ラテンアメリカに集中していますね。

 で、コンビニのお弁当品目をみると、「とびっきり竜田揚げ弁当」(ファミリーマート)、「ヘルシーハンバーグ弁当」(am/pm)、「カツ丼」(ローソン)、「ジューシーハムサンド」(セブンイレブン)と、まあ、肉をつかった品目が目白おしです。魚介類もけっこうありますけどね。野菜だけ、っていうのはなかなかない。ほんと、肉が好きですね、みなさん。わたしも好きですけど。
 こうした肉や乳製品のための家畜を育てるうえで、穀物を大量に使います。世界の穀物生産のうち30パーセントが家畜のために消費されています(前掲『縮小文明……』p46)。日本は、たいへんな穀物輸入大国になっていて、トウモロコシを大半は家畜のエサとして輸入していますが、じつに世界の輸出総量の22%を輸入しています(前掲『縮小文明…』p32)。

 この現状について、国連ではたらいてきた、世界でも有名な飢餓問題の研究家である、ジャン・ジグレール博士は、「国際的な穀物の商取引きは、すべて『穀物メジャー』といわれる商社、むかしでいえば穀物商人の手ににぎられている。……ほんの数社だが、想像を絶するほどの力をもっていて、かれらの思惑によって世界中の穀物の買値と売値が決定されるしくみになっている」「…ひとにぎりの金融資本家が農産物を買い占め、貯蔵倉庫にため込んでは市場価格を操作しているんだ」とのべています(ジグレール『世界の半分が飢えるのはなぜ?』p63)。

 ここには、お金やモウケということを最優先する経済のしくみが、一方で8億人もの飢餓を放置しながら、他方で家畜のエサと莫大なムダを生み出しているようすがまざまざとしめされています。


(2)環境、とりわけエネルギー問題。化石燃料をこのまま浪費し続けるのか

 それから、そのコンビニなんですが、品物を切れ目なく補充するために、たえずトラックで商品を補給していますよね。とくに夜中によく見るでしょう。
 ジャスト・イン・タイム方式といいまして、店ごとにムダな在庫はおかないかわりに、つくってすぐ車で補充する。だいたい1店あたり十数台の車を1日使います。つまり、コンビニに、トラック・自動車は欠かせない存在なんですね。つまり、その燃料である石油に依存している。さいきんは天然ガス車も使っているようですけど、どちらも「化石燃料」とよばれるものですね。
 それから、コンビニは24時間明かりを煌々とつけていますよね。わたしなんか、明かりに群がる蛾のようにすーっと深夜3時のコンビニに入って立ち読みしてしまうんですが。くわえて冷房もガンガンです。わたしの住んでいるところは冷房がないので、夏は40度ちかくになります。おまけにフロもない。なので、やっぱり、こう、どうしても吸い寄せられてしまうのです。
 こうした電力というのは、日本では石油・石炭・天然ガスなどでまかなわれています。あわせて発電量の6割くらいはこうした化石燃料をつかっています。電力だけでなく、燃料などをふくめた全エネルギー総量でいうと、8割をこえます。(一次供給ベース/エネルギー資源庁のサイトより)


 クルマに依存する社会というのは、大量の自動車交通をうみだします。当たり前ですが。その結果、大量の排ガスがはきだされ、たとえばこの東京でも、その沿道ぞいにすむ住民たちの肺をおかしていきました。ほんとうにこれは深刻で、夜中に息がとまるほどの咳と発作にみまわれ、生き地獄になる人が続出しました。いま、各地で国や自治体、自動車メーカーを相手どって訴訟がおき、つぎつぎに住民側勝利の判決がでています。
 化石燃料の問題は、わたしたちの身近なところにとどまりません。地球規模で破滅的な結果をもたらそうとしています。
 聞いたことがあるかもしれませんが、化石燃料を燃やすと、二酸化炭素がでます。二酸化炭素は熱の発散をおさえるはたらきをして、これまではちょうどいい割合で大気中にあった。それが化石燃料がどんどん使われるなかで、バランスをこわすほどに放出されて、地球を分厚くとりまいて、熱をにがさないようにしている。ちょうど、地球が温室のようになっていくんですね。有名な「地球温暖化」です。
 これは、南極や北極の氷をとかし、海面を上昇させ太平洋の島々の国を消滅させつつあり、世界中に深刻な異常気象をまきおこしています。
 すぐにそうなるという数字ではないのですが、もし海面が1メートル上昇すれば、日本では2339平方キロ、410万人が土地を失います(前掲『縮小文明…』p105、地球危機管理委員会編『地球が危ない』p22)。
 石油は、地球上にそれほど豊富にのこっているわけではありません。石油鉱業連盟が2002年に出した数字ではこのままのスピードでいけば33年分、新油田発見や技術革新があっても79年で枯渇するといわれています。天然ガスは63年。これはあとから発見されるものもふくめても、そう大きな数字の変動がみこまれるわけではないのです(共産党『議会と自治体』誌2004年2月号p17、前掲『縮小文明……』p51)。
 いま、化石燃料をつかって、エネルギーの浪費をしているのは、いわゆる先進国が中心になっています。しかし、こんご、発展途上国も、もし同じようなエネルギー利用をしたら、地球はどうなるでしょうか。アフリカの一人当りのエネルギー消費を1とすると、北米では20にもなります(前掲『縮小文明……』p22より計算)。当然パンクしてしまいます。

 聞くだに深刻な話なのですが、世界は手をこまねいてみているわけではありません。世界中の国々があつまって、化石燃料を使うのを減らしたりして、二酸化炭素の排出をおさえようじゃないか、という会議がもたれ、1997年にそのとりきめができました。とりきめをしたのが日本の京都だったので「京都議定書」といいます。ところが、アメリカにいまのブッシュ大統領の政権ができたら、そのとりきめには反対だといいだしたのです。
 ブッシュさんは、アメリカのテキサス州の知事をやっていたのですが、ここには実は化学や石油の産業が集中していて、そこの財界・大企業が彼の最大の支持基盤になっています。ブッシュさんは、テキサス州の知事のときに、工場の出す排ガスの規制をゆるめて野放しにしました。その結果、アメリカ最悪の公害州にかわってしまったのです。イギリスが出す二酸化炭素は年間1億4700万トンですが、テキサス1州だけで1億7500万トンにものぼります(不破哲三『二十一世紀と「科学の目目」』p50〜51)。
 ここでも、モウケを最優先させる経済のあり方が、わたしたちの生きる基盤さえも破壊していくというなまなましい実例をみることができます。

 いま起きているアフガニスタンイラクの戦争でも、その背後に化石燃料をめぐる利権がある――むろんそれは一因にすぎませんが――といわれています。イラクには世界で二番目に豊富な量の石油がねむっています。中央アジアには莫大な天然ガスが埋まっており、それを輸送するパイプラインをアフガンをつうじてひきたいと考えているのです。

 あるNGOによれば、イラク戦争にかかわって1万人の民間人が殺されたといわれていますが、まさに「モウケ最優先」という経済が戦争にまでつながっているのです。


(3)失業問題。なぜ一方に膨大なフリーターがいて、他方で過労死がうまれるのか

 またコンビニの話にもどりますが、コンビニはたいていアルバイトのにーちゃん、ねーちゃんによって支えられています。
 これは、ものすごい安い賃金、無権利によってささえられています。関東でみても、時給800円台です。それから、無権利が横行しています。わたしの聞いた話ですけど、ある有名コンビニの店鋪。そこでは、アルバイトで雇われてから「研修」「見習い」「正式」という3段階にわかれており、「研修」中は賃金が出ない。「見習い」で涙金、「正式」――正式といっても正社員じゃないですよ、そこになってはじめて時給がでるというのです。完全な労働基準法違反です。

 日本には、こうしたアルバイトや派遣社員、あるいは職そのものがないという人をふくめた「フリーター」とよばれる人が417万人もいます(03年国民生活白書)。
 他方で、日本の長時間過密労働は、極限にたっし、サービス残業とよばれる違法なタダ働きが横行しています。総務省の「労働力調査」をみると、日本の年間総労働時間は2200時間をこえます。これは国際比較するとダントツの数字です。とりわけサービス残業はそのうち350時間もあります。


 しかもそのなかで、いちばんひどいのは、30代、若者です。政府が定めた過労死ラインといわれる年3000時間にたっする人は、この世代で4人に1人にものぼります。(赤旗国民運動部『仕事が終わらない』p84〜85)
 こういうなかで、過労は個人の心をむしばんでいきます。いま大企業を中心にうつ病などがふえており、「心の病」にかかる従業員が増えていると回答した企業は、千人未満の企業では34%ですが、三千人以上になると、61%と倍にはねあがります。企業のメンタルヘルス、心の健康づくりをサポートしているある会社が出した調査によると、「働く人の自殺予備軍は223万人」という結果が出たそうです。(前掲『仕事が終わらない』p58〜59)

 これは過労死させられ、両親が労働災害申請をしている、ある大手レンタルビデオの店長代理だった27才の人の話ですが、給与の明細書だけでも月58〜86時間の残業が記録されています。サービス残業はまったくふくまれていません。アルバイトの人員が極端にきりつめられ、2店鋪をまかされるという過重負担のなかでくも膜下出血で亡くなったのです。

 できるだけきりつめるために、人を雇わない、雇っている人には徹底して安い賃金や長時間の労働でしぼりあげる――ここにも、人間の健康や命ではなく、「モウケを最優先」するという経済のあり方がもろに出ています。


(4)共通する「モウケ最優先」の経済原理――資本主義の本性

 いまわたしは、コンビニを軸にしながら、南北問題(とりわけ飢餓)、環境問題(とりわけエネルギー)、失業問題をお話ししてきました。どれも、世界にとって、あるいは地球にとって、あるいはわたしたちのくらしにとって、すなわち、人間が生存していく条件を守るうえで絶対に放置できない問題です。

 そして、そのカゲに、どれでも、人間の命や生活を犠牲にすることも考慮せず、あらゆるものにたいしてモウケを最優先させるという経済の論理がひそんでいる、ということも見てきました。むろん、それだけが問題だというわけではありません。しかし、そのことが共通する原因のひとつとしてうかびあがっていることは、うたがいようもありません。

 産業革命がおこり、どでかい工場が歴史上に登場するようになった時代から、こうした経済の問題は多くの人に問題にされてきました。一方で貧困があり、他方で富が蓄積されていく、という経済のあり方が批判されはじめたのです。
 こうした経済のありかたを批判し、それをのりこえる経済のしくみをめざす運動や考えは、社会主義あるいは共産主義とよばれました。そこにはさまざまな流派がありました。
 そのなかで、この経済のしくみを研究し、それをのりこえる新しい社会を社会科学の目で展望したはじめての人が、マルクスとエンゲルスでした。
 わたしたちは、この二人のいったことをそのまま鵜呑みにする必要はまるでないのですが、かなりこの経済のしくみを念入りに研究した人間なので、いまでもずいぶん参考になります。かれらの言ったことを気にとめながら、この経済のしくみ、あるいはそれをのりこえた社会のことについて考えてみたいとおもいます。

 マルクスとエンゲルスの前の人たちのなかには、どうも資本家とよばれる人たちのなかで、労働者のことをちっとも考えずむちゃくちゃに働かせる「悪いやつ」だからそうなるんじゃないかと思った人もいたようで、もっと労働者に愛をもってむかおうじゃないかと説いた人もいます。

 わたしは、経営者の哲学として、こういう立場をもつことは大事なことだとおもいます。
 Sという居酒屋チェーン店がありますが、ここでは、年休をもうしでたアルバイトを首にし、組合をつくろうとした若い女性たちを徹底して弾圧したということがありました。こういう経営者がいたかとおもうと、あるアルバイトが年休を申し出たらそれを認め、共産党系の新聞にも登場して、こういう権利を保障するのは経営者として当然だと言ったPというコーヒーチェーンの経営者がいます。「愛」ということとはちがうのですが、経営者として、労働者にきちんとリスペクトの態度をとるというのは、たいへん大事なことです。

 しかし、社会全体でみたとき、たんにこうした資本家がイイ人か悪い人かというだけではすまない問題になる、とマルクスやエンゲルスは研究の結果、そう結論づけたのです。
 とにかくモウケること、モウケをとらないと競争で自分たちが負けてしまう――そのために、とにかくあらゆることに優先してモウケをあげることを考える、こういうことが経済の原理としてあるんだ、ということをつきとめたのです。それが「資本主義」という経済のありようだというわけです。
 資本主義、とはわたしたちがそのもとでくらしている経済体制をさすことばですが、よく見ると奇妙なことばですよね。
 これは資本というものが、自動的にたえず「もっと大きなモウケを、もっと大きなモウケを」と意味もなくそして際限なく追求する社会システムである、そのことが社会の最優先原理になっている、ということをあらわしている言葉なのです。
 資本家がいくら善人であっても、社会全体としては、モウケが最優先される。
 化石燃料にしがみつづけ、8億人の飢餓をほっておき、過労死するまで働かせる――この経済のシステムのもとでは野放しにしておけばそんなことが横行するのです。
 この資本の本性を研究したのが、マルクスの有名な『資本論』です。

 もう少しくわしくみてみると、それぞれの企業がモウケモウケとモウケを最優先にして追い求め、社会全体をみわたすと、だれもそれをブレーキをかけたり、方向付けたり、注文をいって直したりする存在がいない。その結果、経済がモウケを最大の目的にしてでいとなまれ、その原理が社会をおおいつくす、こういう社会が野放しの資本主義経済だというふうにみたのです。



1. 共産主義とは何か――モウケ最優先の経済原理をあらため、人々が共同して知恵や力をだし、経済や社会にとりくむという考え・運動・世の中

 ここで、本日の第一の問題、「共産主義とは何か」ということを考えてみましょう。

 バラバラでモウケのことばかり考えるというシステムをあらためる。つまり、社会のみんなで知恵をだしあい協力しあって、「そういう人間を酷使するような生産のしかたをしてはいかん」とか「化石燃料をじゃんじゃんもやすんじゃなくてもっと低エネルギーでの生産をかんがえなさい」とか「飢餓に苦しむ人のところにちゃんと食料がいきわたるようにしなさい」とかいうふうに、理性をはたらかせる。
 マルクスは、この共産主義を「共同社会」とか、「結合された自由な生産者の生産様式」、「社会的悟性」などというふうによびました。
 共産主義のことを英語でコミュニズムcommunismといいますが、これは「コミュニティ」という言葉と同じ意味合いをもっています。共同体とか、共同してできた社会、というような意味ですね。英語でcom-というのは、「いっしょに」とか「共同して」とか「組み合わせて」という意味がありますが、まさに、みんなで力をあわせるという社会、すなわち共同社会を意味しています
 てんでバラバラにモウケを追求しあって、餓死が出ても地球がほろんでも過労死してもおかまいなし、あるいは、だれかがだれかを支配し搾取する、そういう社会ではなくて、そういうモウケ最優先の原理をのりこえて、みんなで共同して、知恵と力を出し合い、社会全体としての理性――社会的理性――を発揮する。こういう世の中をめざす思想や運動、あるいはそうやって実現された世の中のことを、「共産主義」とよびます。



2. 共産主義をどう実現するか――青写真を描くものではない。すでに資本主義のなかに現実に育ってきている新社会の目をのばしていく

 わたしがお話ししたい第二の問題は、「では共産主義の思想をどうやって実現するのか」という問題です。


(1)創価学会のおばあさんの話。みんなが信じると変わるのか

 しかし、これは、まったくゼロから社会を根本的につくりあげる、という作業ではない、とわたしは思います。共産主義という思想を外側からもちこんで、それによって社会を作り変える――それはわたしは空想だろうと思います。できっこありません。
 よく宗教の一部で、みんながこの教義を信じれば、世界は変わるという人たちがいます。「いまにね、みんなが創価学会に入る日がくるんですよ。ほんとですよ。いいですか、日本のほとんどの人、世界のほとんどの人が創価学会に入るんです。ええ、そうなんです。わかりますか、お兄さん。池田先生の(以下略)」――これはある創価学会のおばあさんをたずねたときに、いわれた言葉です。現実にそうやって変わっていくことはありません。思想が外側から押し付けられて、そのことが世界を覆いつくして世界を変えていく、というのは、夢想だろうと思います。

 わたしは、共産主義とはそのようなものではないと思います。

 共産主義とは、すでに資本主義のなかにうまれつつあり、そして広がりつつある、新しい現実であり、そしてまたそうでなければ、新しい社会の原理たりえないだろうと思います。マルクスやエンゲルスも、資本主義のなかで生産が社会的な性格をおび、次の時代のさまざまなものを準備するという見地をつらぬきました。


(2)資本主義の現実のなかで次の社会を準備するものが育つ――環境問題を例に

 たとえば、環境の問題をみてください。
 世界の人々が共同しあって、「モウケ最優先」という原理を修正しようという動きは、二酸化炭素の規制という動きの中ではっきりとあらわれています。さきほども、世界中の国々があつまり、排出する二酸化炭素の量を制限し、そのために経済活動をコントロールしようという合意がむすばれましたというお話をしました。これを骨抜きにしようとする動きはさかんにあるわけですが、とにもかくにもそのような合意がむすばれ、その実現のために世界の人々が力をあわせています。
 それは世界という大きな舞台だけではありません。
 化石燃料にたよらないエネルギーをうみだそう、という運動は、世界中、この日本でも草の根からどんどん起きています。くりかえしつかえて、自然にもやさしいエネルギーを、自然エネルギーとか再生可能エネルギーといいますが、たとえば、風力とか太陽熱とか地熱とか、あるいはバイオマスとよばれる生物に由来するエネルギーをつかった発電などがそうです。

(2)資本主義の現実のなかで次の社会を準備するものが育つ――労働時間を例に

 労働時間の問題でもそうです。
 日本では、残業代を払わない「サービス残業」は、いちおう法律では禁止されているのですが、ほとんど実効性をもっていません。その法律にたいして、政府が本腰になり、世論もその問題について厳しい目をむけていく――こういうふうに社会全体がそのように動いていく中で、経済に理性を働かせていくことができます。
 さいきん、中部電力がサービス残業代を65億円払ったとか、サラ金の武富士が35億円払ったとかというニュースがさかんに流れますが、これは労働者のあいだから運動がもりあがり、それと政府のほうの規制の運動がかみあってこうしたサービス残業をなくしていく動きが活発化したものです。


 これはまさに、生産の現場にふみこんで経済に社会的な理性を働かせている、ひとつの例です。
 マルクスも、『資本論』のなかで、労働者があまりに働かされすぎるという現実の前に、労働者の大闘争がおこりとうとう労働時間を規制する歴史上はじめての工場立法が成立することをかなりくわしく叙述し、「新しい社会の形成要素」だといいました。

 ここにみられる動きは、まだ環境や労働というかぎられた分野のものですが、とにかくモウケのことだけを考えて経済をいとなめばいいという考えをあらため、人々が協力しあって、そこに社会の理性――モウケだけでなく社会全体のことを考える精神を働かせよう、という動きです。
 このように、資本主義のなかで生まれ育ってきているコントロールのしくみや社会的なルールは、日本でも世界でも膨大なものになっています。
 それは社会全体を覆う「モウケ最優先」という社会原理全体をくつがえすことはできていないのですが、部分的にわたしたちのくらしや権利や財産を守るという働きをしています。
 共産主義とは、この現実を最大限にのばしていって、社会が、もちろんモウケのことも考えるけど、それをあらゆるものに最優先させるのではなく、社会全体の利益を考えるという理性が働くようになった瞬間、社会の原理がかわった瞬間に、はじまる社会です。

(3)共産主義社会へむかっても市場経済を大いに活用する――瞰制高地という考え方

 共産主義について聞いたことのある人は、「それは私企業をやめて、ぜんぶ国有化するということなのか」「市場をぜんぶ廃止するということか」と疑問をもつ人がいると思います。
 そうではありません。
 経済というのは、生き物です。動物にたとえてもいいでしょう。
 ほっておけば、それは荒れ狂う猛獣のように人々に被害をおよぼします。しかし、かといって、がんじがらめにしてオリに閉じ込めてしまうような飼い馴らし方をすれば、活力を失って死んでしまいます。
 大事なことは、その経済という生き物の習性をよくつかんで、その活力を最大限に引き出しながら、同時にうまくわたしたちに役立つように手なずけることです。
 オリに入れたほうがいいのか、それとも鎖でつないぐていどがいいのか、あるいは放し飼いにしつつ餌や鞭で手なずけるのか――そのやり方は、さまざまです。

 わたしは、市場、あるいは市場経済というのは、経済の活力を生み出したり、価格の調整をはたしたりするうえで、たいへん役立つ存在だというふうに考えています。利潤やモウケということも、活力のある経済活動をうみだすためには、大事な刺激のひとつです。
 問題はそれを万能だとかんがえて、市場にまかせればうまくいく、というような考え方をしてしまうことです。最初にものべたように、それは野放しで使えば、結局お金のないという人たちにとって、たいへんな被害をもたらしてしまします。

 結局、市場や国による介入や、あるいは社会的な規制やルール、こうしたものをどれだけミックスさせて、全体として経済の活力をたもちながら、経済のうごきを社会の理性によってどうコントロールしていくか、ということ、これが共産主義社会のひとつの中心問題だろうとおもいます。
 ある有名な共産主義者は、経済の多様なセクターが自由にうごきながら、そのいちばん大事なところを社会的理性がにぎっている、こういう役割を「瞰制高地」とたとえました。「瞰制高地」とは軍事用語で、戦場でこの高くなった土地をにぎれば、全体をみわたし有利な命令や作戦をくむことができるという、決定的なカナメのことをこういったのです。

(4)上からの改革の力と、下からの社会的な力のミックスで経済に社会的な理性を発揮する

 そのためには、政治、つまり政府がそういう姿勢の先頭にたつ、ということが非常に大きな力をはたします。政府がもっている権力や強制力は、最終的な権威として決定的な力をもつからです。
 しかし、それだけではうまくいきません。
 国家が社会を代表してその役目を一手に引き受け、単一の計画のもとに経済を統制すればうまくいく、とおもった国も世界にはあったわけですが、それは実は社会による経済の掌握ではなく、一部の国家官僚が経済をにぎったことを意味するにすぎなかったという審判がくだり、こうしたシステムは破産しました。
 政府だけでなく自治体や地域コミュニティ、私企業、小さなあつまりなど、社会のあらゆる段階で社会にくらす人々がこのような社会理性の発揮に参加し、それを管理・運営していくといううごきが必要です。そうなってはじめて、「社会が経済そのものをにぎった」といえるようになります。

 いろんなレベルで経済に社会的理性を発揮させようとする動きも、現実の社会のなかですでに芽が育ってきています。

 たとえば、自動車公害をふせぐために、政府は規制する法律をつくります。自治体レベルでは、事業所ごとに自動車の排気ガスを管理するように計画を出させます。私企業もそれにあわせた計画をたてたり、場合によってはそれに都合のいい車を開発したります。またわたしたちは、末端の消費者として、こうした車を買うようにします。
 しかし、これはこの分野にかぎってみても全面的に実行されているとはかぎりません。
 日本では、国の法律はなまぬるく、自治体で企業に計画をもたせようとするところはほとんどなく、自動車会社の主流はあいかわらず排ガスを多く出す車をつくりつづけており、消費者も環境にやさしい車をかならずしも率先して買っているとはいえません。中心は、自動車メーカーのモウケ最優先がこの分野でもつらぬかれています。それがくつがえる瞬間こそ、この分野を、ある意味で、共産主義精神がおおった、ということができると思います。


 さて、こう考えていくと、共産主義にいたる芽は、すでに資本主義の現実のなかに無数に育っており、それを社会全体で実現させるには、ひとつは、政治そのものを変えるということ、つまり上からの改革をほどこすこと、もうひとつは、社会そのものを変えるということ、つまり下からの改革をほどこすということ、このどちらもが必要になってきます。そしてそれは、共産主義実現のためのプロセスであるばかりでなく、共産主義の新しい社会を運営していく足場にもなっていきます。

 とくに、下からの改革を積み重ねていくという運動は大事です。
 これはエネルギー問題にかぎって発言されたことばですが、デンマークが低エネルギー社会への転換をはじめるきっかけになった一冊、『エネルギーと私たちの社会』(ノルゴー&クリステンセン)という本のなかで、社会システムを根本的に改革するという運動と、市民一人ひとりの日常の積み重ねを変えていく運動とどちらを重視すべきか、という問いに対し、つぎのように答えています。

「もしあなたが将来の社会発展のあり方に何らかの方法で影響をおよぼしたいのであれば、日常的な生活習慣と消費のあり方でも自分の目指す方向で振る舞うと共に、様々な政治的活動を通しても同様に振る舞う必要があります。どちらか一つだけに集中して、他方は自分の役目ではないとすれば楽ですが、それでは思ったほどの効果は望めません」(p15)

 環境問題はひとつの典型です。
 リサイクルがきびしいペットボトルのお茶はのまないようにしよう、という消費行動は大事ですが、それでも店屋にいってそれしかなければ何本かは買ってしまいます。生産の大もとを政治の力で規制するようになればかなり事態は変わります。
 逆に、たとえばレジ袋税ですが、住民の意識がリサイクルにむかわないのに上から一方的にはじめたりすると、レジ袋をつけて税金分はおまけしてしまおう、などという大手の店が客を集めてしまったりします。正直者だけが馬鹿をみてしまうのです。

 新しい経済が、そこで社会的理性を発揮しようというとき、上からと下からの改革、どちらも大事ではないでしょうか。