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3. ソ連は共産主義ではなかった

 ここで、ひとつ、別の問題を考えておきたいとおもいます。
 いままで、わたしたちは、「共産主義とは何か」「その社会はどのように実現するか」という問題を考えてきました。そこで考えてきたことにてらしてみて、では旧ソ連のような社会は、はたして共産主義といえるかどうか、という問題です。
 結論からいいますと、わたしは、はっきりそれは共産主義の社会ではなかった、といえるとおもいます。

(1)囚人労働によって支えられる経済や社会が人間共同めざす共産主義であるとはとうていいえない

 まず、共産主義が、人間の分裂と支配、搾取をやめ、おたがいがわかちあって共同する社会であるということにたちかえってみれば、旧ソ連は、国家官僚が恐怖政治によって広汎な国民を支配するという社会でした。その象徴的な例が、何百万人からなる囚人労働によって経済がささえられていたという問題です。
 恐怖政治によって膨大な囚人がうまれ、それがダムや発電所建設などに動員されていたのですが、このような社会が、人間の共同と分かち合いを基本とする共産主義という生き方にまるで反するものだということは、はっきりしています。

(2)生産手段の管理から社会の大多数がしめだされている――国有化はあっても生産手段の社会化はなかった

 もうひとつは、共産主義のもちいる方法として、経済にたいする社会的な理性の発揮だといいましたが、旧ソ連では、経済、とくにそのカナメになっている生産手段を国家官僚がにぎり、社会の多くの人はその決定からしめだされていました。
 このことをとってみても、わたしは、旧ソ連が共産主義だったとはとうていいえないと考えます。


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(3)民主主義が発揮されなければ共産主義のシステムは運営できない

 わたしはさきほど、共産主義というシステムでは、国だけでなく、私企業、自治体、地域、小集団、家庭と、あらゆるレベルで社会的理性を発揮するというお話をしたのですが、このシステムにいちばん適合的なものは、民主主義の制度です。
 「この分野では市場による私企業間の競争にまかせたほうがいい」「この分野では、きっちりと自治体や国が管理した方がいい」――たとえばそんな意見の対立がちゃんと出されて、それが緊張関係のなかで議論されるという制度こそ、この共産主義というシステムをいちばん活性化させます。
 だとすれば、独裁や一党制というしくみは、このシステムからもっとも縁遠いしくみであり、複数政党制のもとで議会制民主主義と直接民主主義のくみあわせのようなしくみこそが、一番共産主義のシステムにふさわしいといえます。とうぜん、言論や思想信仰といった政治的市民的な自由も、それを保障すればするほど、このシステムに似合ってきます。ただ、具体的にどんな民主主義のシステムをとるかということは、たとえばイスラムの国ではイスラム独自のやり方がありますから、いまいったようなことは、少なくとも日本では言えることだろうとおもいます。

(4)生産手段の社会化と所有について――タブーをもうけない

 マルクスは、経済にたいして社会的理性が発揮されるカナメを、土地や工場などといった、生産のためのさまざまな手段(生産手段)を社会がにぎること、すなわち「生産手段の社会化」だと考えました。
 これはソ連流の解釈、あるいはその裏返しである日本の学者の一部の解釈では、「国有化」のことだと思われていました。あるいはせいぜい「協同組合化」のような形態です。
 しかし、問題は、経済にたいして、社会がちゃんと理性的な指示をだし、実行にうつせることです。
 たとえば、「ペットボトルは環境に悪いから生産を制限させよう」というふうにしたとき、生産の現場、つまり生産手段をもっている資本家が「あっかんべー」といったら、社会的理性は発揮できません。
 そのとき、補助金や優遇税制をつかって誘導するやり方もあります。また、消費者の消費行動(ペットボトル製品は買わない)にまかせるときもあります。あるいは、もっと強引に法律でとりしまる場合もあるでしょう。現実にはありえませんが、ペットボトル生産工場は国有にして全面管理してしまう、という選択肢もありえます。どれがいいかは、その時代によって、あるいは国や地域によってさまざまだと思います。
 しかし、共通するのは、「ペットボトルを生産する手段をもっているのは資本家であるオレ様なんだから、いっさい他人は口をだすな」という「生産手段の所有の不可侵」を宣言することはできない、ということです。そこにタブーをもうけない。どういう形であるにせよ、社会の理性の力がおよぶようにする。ここにマルクスがとなえた「生産手段の社会化」、つまり「生産手段を社会のものにする」ということの本当の姿があるとわたしは思います。
 したがって、生産手段の社会化とはよくいわれるような「イコール国有化」ではありえないのです。いまのべたとおり、ソ連はばりばりの国有化がおこなわれましたが、その管理・運営は一部の国家官僚がにぎり、社会の多数の人々はそこからしめだされていました。


(5)市場経済の存在は関係ない――市場経済を大いにいかした共産主義

 またさきほどものべましたが、市場というしくみが存在し、それがどれだけの比重をしめるか、という問題は、共産主義システムとは、直接何も関係のない話です。極端な話でいえば、市場経済がどれだけ存在しようとも、結果的に社会的理性が発揮されればそれでいいわけですから。
 この議論におどろく人は、市場経済という交易様式と、資本主義という生産様式の問題を混同しているのです。
 市場経済はほっておけば資本主義が成長し、社会全体を「もうけ最優先」の原理がおおってしまいます。
 そこにどのように規制やコントロールのしくみを介入させ、活力を失わないようにして経済を舵取りしていけるかということころに、共産主義的な方法の大事な点があります。

5. 共産主義という生き方

 ここまでのところをかんたんにおさらいしておきましょう。
 共産主義とは何か。それは、モウケ最優先の経済をのりこえて、人々が共同し知恵をだしあって、経済や社会を運営していく考えや運動、あるいはそうやって実現された世の中のことをいいます。
 それはどうやって実現するか。青写真をえがいて、それを実現させるのではなく、すでに社会のなかに育っていきている共産主義的な芽を育てていく。そのために政治を変え、同時に社会全体を変えていく――こういうふうにまとめられるとおもいます。

 とりわけ、人間が共同しあい、知恵と力を出し合うという精神は、共産主義にとって、大事な精神だとおもいます。マルクスは、バラバラにおたがいがモウケだけを追求しあう人間観、あるいは、人間が人間を支配し搾取する現実を批判し、人間が共同しあう社会を展望しました。
 こうした「人間共同」の考えというのは、別に共産主義社会になってはじめて実現されるわけではなく、資本主義にくらす今であっても、次の社会を準備していくうえでたいへん大事な姿勢だと思います。

 そう考えたとき、共産主義は、思想と運動をふくむ「生き方」だとわたしは考えます。

 こういうふうにみてくると、共産主義という生き方に反対する人は、あまりいないのではないかと思います。「モウケ優先の世の中でいいのか」みたいな批判は、ある意味で、常識になりつつある考えや生き方だといっていいと思います。
 そしてみんなで知恵や力をだしていこう、というのも別に異論はないでしょう。
 しかし、現実の資本の利害というものはもっと生々しくリアルです。トヨタの会長がいくら口で「環境への企業の責任」とか「働く人への企業の社会的責任」といってみても、現場ではあいかわらずトヨタ車の排ガスが沿道の人々の肺を侵しつづけ、モダンタイムズ顔負けの過密長時間労働を強いているのですから。(に経団連加盟企業「武富士」の営業指導テープのおこしをつけました。ていどの差はあれ、これが「営業」の姿ではないと言い切れる企業がどれくらいあるでしょうか)

 わたしは、この共産主義という生き方をいまこそ、高くかかげ、同時に現実においてド真剣につらぬいていく時代だとおもいます。

 ある政党の党首は、マスコミのインタビューで、「あなたにとって共産主義とは」と聞かれ、「世界観」だと答えました。エンゲルスは、共産主義とはめざすべき青写真ではなく、現実から出発し現実を変革する運動だと答えました。
 これは、この人たちらしい発言だとおもいましたが、わたしがもし聞かれたら「生き方」だと答えたでしょう。支配や敵対ではなく、人間が共同すること、そこで理性を発揮するという精神を根本においていく「生き方」です。そして、いまからのべるように、今日ほどこのような生き方が求められる時代もまたないのです。
 

5. わたしたちはいま何をなすべきか?

 では、最後の第三の問題です。「わたしたちはいま何をなすべきか」「いま私たちは具体的にどんな共産主義的な生き方をすべきか」ということです。
 これは、「人々が共同して、どんな社会的な理性を発揮させるべきか」という問題として言い換えてもいいかもしれません。

(1)国際社会で無法な戦争をやめさせ、国連憲章にもとづく国際管理をうちたてる

 ひとつは、世界でふきあれるアメリカの戦争をやめさせ、国際社会の管理のもとにうつすという課題です。これはまさに共産主義的な精神にもとづいて、社会的理性を発揮させる緊急最大の問題です。
 この問題では、一見するとアメリカがやりたい放題で世界各地で戦争をおこして、石油や天然ガスの利権をあさっているかのようにみえます。
 しかし、現実はそうではありません。
 世界では、ベトナム戦争以来という反戦運動が広がり、ベトナム戦争のときはあまり力を発揮しえなかった国連や非同盟諸国がアメリカの手をしばるためにかなり活発に活動しました。いまでは、イラクの不法な占領支配の根拠がくずれ、アメリカのやり方はますますゆきづまり、むしろ国際社会が共同してこの解決にあたるべきだという流れがどんどん強くなっています。
 いま、多くの国々で「国連憲章を守ろう」ということが合い言葉になっています。国連憲章のもとに、もし国連がきちんと機能する世界になれば、様相はかなりかわってきます。

 ここでも、問題は、政府やえらい人たちにまかせておけばいいという話にはなりません。
 みなさんが草の根で広げている反戦運動、きのう教室で職場で友だちにちょっと話した署名のことが、あるいはきょうメールで反戦集会にさそったことが、その一つひとつが、わたしは、人々が分かち合って共同してくらそうという世界をめざす動きにつながっているだろうと思いますし、はっきりとそのつながりを自覚すれば、それは共産主義的な生き方そのものだろうと思います。
 とりわけ、日本では、憲法をかえてアメリカの戦争に、自衛隊が自由に参加し武力を使えるようにしようという動きがあり、これを食い止めること、逆に憲法の精神で国際社会に働きかけるようにする運動は、急がれる問題です。

(2)わたしたちがくらしつづけられるように環境をまもり、低エネルギー社会に移行する

 ふたつめは、世界を破滅させるかもしれない環境破壊を地球のすみずみでストップさせるしくみを育て上げるということです。とりわけ、エネルギーを化石燃料から再生可能なものに切り替え、低エネルギーの社会に変えて、人間がずっと持続的に発展していけるようにすることはたいへん大事な問題です。
 さきほど、化石燃料の争奪が戦争の原因となり、また地球温暖化の原因となっているといいました。
 それだけではなく、石油を原料としたクルマ依存社会が、日本では無数の人々の肺をおかし、あるいは年間1万人ちかい人々の命を「交通事故」というかたちでうばっています。そしてクルマを通す道路をつくるという名目で莫大な額の資源や予算が公共事業につぎこまれています。
 こうしたエネルギーのしくみを変えていくことが必要です。日本におきかえてみると、持続可能なエネルギー消費にしていくためには、少し古い数字ですが、1990年とくらべ2010年では2割ほどのエネルギーの削減が求められます。(日本共産党『新・日本経済への提言』p403)
 ヨーロッパでは、すでにこのような動きが国レベルではじまっています。デンマークでは、石油や原子力にかわって、再生可能な自然エネルギーである風力をつかった発電がすすめられています。大ダムを必要とする水力発電をのぞいた再生可能エネルギーをつかっている比率は、デンマークでは17.4%(ドイツで3.4%、日本は1.8%)にたっしています(前掲『議会と自治体』p37)。2030年までには電力の半分を風力でまかなう計画です。自然エネルギーの開発以外にも、日本では総エネルギーの6割がムダにすてられており、これを節約したり、効率よく使うということも、大事な方法です(中村太和『自然エネルギー戦略』p24)
 また、欧米各地では、クルマ依存社会をやめるために、クルマの乗り入れ量を規制したり、クルマのかわりになるような小さい鉄道を発達させたりしています。アメリカのポートランドという人口43万人の街では、高速道路をやめ、かわりに、静かで安い、新型の路面電車を導入しました。「トランジットモール」といって、路面電車を商店街のまんなかまでひきれいれることで、商店街を活性化させている例もすくなくありません。(土居靖範『Q&Aひと・まち・交通』p33、p58)
 こうした動きは日本でもおきています。
 日本には使われていない利用可能な自然エネルギーが8474億キロワット時存在し、これは日本の現在の総発電量に匹敵します(しかもここにはダムが要らない小規模水力発電は入っていません)。(前掲『議会と自治体』p21)
 山形県の立川町では、町の電力をすべて風力でまかなおう、という町おこしをはじめ、じっさいにそのような勢いで建設がすすんでいます。現在、町全体で消費される電力の6割を風力発電でになっています
 バイオマスエネルギーをつくろうという町もあります。バイオマスでつかわれる原料には、木の切りくず、なたね油、さとうきびの搾りかす、動物のウンコ(メタンガス)などがあります。滋賀県の愛東町ではなたねを栽培してそこから油をしぼりだしています。わたしの小学校の校歌にはじめ「山並みかすみ、菜種咲き」という一節があったのですが、これが消えました。なたねの輸入自由化によって、国産なたねは壊滅的な打撃をうけたんですね。
 愛東町では、助成金制度をつくり耕すのをやめている畑などで栽培をはじめ、菜の花でハチミツをとり、また野菜としても食べ、種からは油をしぼって、その利用後の廃油をバイオディーゼルにする、というものです。菜の花畑を観光地にもしてしまう。さらに、家畜のふん尿でも発電する。菜種を徹底的に利用しつくそうというユニークな試みです。(前掲『議会と自治体』p49〜50)
 わたしの知り合いで、こういう自治体レベルの自然エネルギー開発をするNGOにかかわっている人がいますが、これも社会的理性を発揮させていく生き方であり、その役目を自覚すれば、それは立派に共産主義的な生き方だというふうに私は考えます。
 むろん、自動車公害を規制するための裁判がおこされ、それを支援しているわたしの友人もいますが、それだって、そうした人間が共同し分かち合い、社会的理性を発揮する社会への大事な一歩だというふうに考えます。
 「冷暖房をなるべく使わないように」「マイカーをもたない、使わない」というライフスタイルをつらぬこう、としている人もいますが、わたしはそれもけっこうなことだろうとおもいます。
 こうした草の根の動きと、政治レベルの動きがどちらも組み合わさって社会理性を発揮させていくことがいまものすごく必要とされています。

(3)南北問題の解決――とりわけ飢餓の解決はいそがれる

 みっつめは、世界が貧しい国と富める国に分裂し、貧しい国はますます抑圧され、富める国はますます奇形的に太っていくというしくみをあらためることです。とくに、世界で8億人の人々が飢えているという報告があるように、飢餓の問題を解決することは待ったなしの問題です。
 この点で、わたしたちのもっている憲法の精神はすばらしい力を秘めています。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」という前文の精神は、戦争や抑圧の原因をとりのぞこうという世界の先頭に立つ決意をうたっています。
 この問題では、政治がなすべきことはさまざまありますが、わたしがいちばん大事だと思うことは、日本の農業を再建することだろうと思います。ちょっと奇妙なふうに聞こえますが、さきほどのべたように、日本は最大の穀物輸入国になっており、家畜のエサもふくめ、世界で生産される穀物をじゃんじゃん買い付けています。
 いま、日本の大企業や財界は、自分たちの製品を世界に売り付けるために、貿易の障壁をなくすことをどんどんすすめています。日本の農業を保護している規制などとりはらってしまえ、というのが彼らの立場です。安い穀物を海外からがばがば買って、労賃を下げた方がトクだというわけです。
 わたしたちは、こうした動きをやめさせて、食糧の自給率をあげていくために日本の農業を再建させていく必要があります。そして、世界の穀物生産と配分を飢える国々にまわすようにすることが、日本がなすべきも大きな貢献になります。
 この分野は、わたしたちが日常的にもできることがたくさんあります。
 「地産地消」といって、地域でとれた食べ物を、地域で消費するという運動です。東京の日野市では革新市政だった時代に学校給食でこの方式をとりいれ、マスコミでも紹介されるほどのおいしく健康的な給食を実現させてきました。

■AERA96年8月12日号
「『……地域で作られた食材を給食に使うことによって、地元の文化や農民の労働に触れることができる。民間委託や一括購入では、給食を通して職について考える教育は難しい』その意味で、理想的な給食の形を採っているのが東京都日野市だ。同市の大半の小中学校では、一昨年から、前日に鶏が生んだばかりの、黄身の盛り上がった卵を扱っている……」


 また、これはもっとダイレクトな方式ですが、飢餓をなくすためにがんばっているNGOに募金をする、という方式もわたしたちが気軽にできるやり方です。ある高校生が「What We Can Do」という、世界のために何ができるかというのを考えているサイトがあるのですが、その結論の一つは募金でした。
 募金はだれでもができ、そこから世界につなげていくことができる大切な通路だとわたしも思います。
 さらに、「フェアトレード」という実践もあります。
 発展途上国の人々がものすごく安い労働コストで働かされ、それによって無理な食糧生産がおこなわれているわけですが、フェアトレードは、それにたいして、正当な賃金を前提にした報酬で食糧を買う、という運動です。そうやって取り引きされているコーヒーもあります。この運動を広げていく、というのも面白い試みです。
 ここからも、世界の分かち合いや人間の共同につうじる生き方、すなわち共産主義的な生き方の通路を見い出すことができます。

(4)過労と失業を解決する――ワークシェアリング

 最後に四つ目です。
 これは先進国、そしてまさに日本でおきている問題ですが、他方で過労死するまで働かされるという長時間労働の現実があり、もう一方で職がなくて自立していきていけない失業者や、一時的な職にしかつけないフリーターが膨大に存在するという奇妙な現象です。

 これはまさに、できるだけ安い労賃で人を雇い、そうやって雇った人をしぼれるだけしぼろうという資本の本性から起きている問題です。しかし、日本はとりわけそれがひどい。ヨーロッパにはこうした長時間労働を規制するしくみや政治の努力がもっと強いのですが、日本はこれまでずっと野放しでした。
 最近になって国民の運動や野党の追求があいまって、これをただす動きがはじまったのですが。
 ここでできることは、長時間労働、サービス残業のような違法な働かせ方をなくし、かわりに人を雇うという「ワークシェアリング」をすすめることです。
 これはすでにヨーロッパなどではじまっています。
 もしサービス残業をなくして、かわりに人を雇ったら、失業率を2.4ポイントひきさげ、160万人を雇用できるといわれています(第一生命経済研究所)。

 以上四点をあげてきましたが、これらを実行したからといって、いや実行自体がかなり力のいる作業ではありますが、それによって世界が「モウケ最優先」という資本主義の原理を克服した社会、すなわち共産主義社会になったとはまだいえません。
 しかし、社会的理性を発揮させ、緊急に解決しなければならない問題であり、それをもし解決への第一歩をふみだせば、わたしたちは共産主義社会へ大きく近づくことになります。

(5)資本主義の枠内での改革にまずはみんなでとりくもう

 社会の理性が経済に全面的に発揮される世の中になるまでは、マルクスは「一世代かかるだろう」という長い見通しをたてました。
 それ以前にも、わたしたちは、資本主義の枠のなかであっても、わたしたちのくらしや権利、地球環境をまもる最小限のルールを積極的につくる政権をつくるということであれば、多くの人が同意できます。
 共産主義にいたる前にも、そのような資本主義の枠内での、改革政権をつくることで多くの人々と力をあわせていきましょう。


(6)みなさんがおこす下からの改革――草の根からの運動が大事

 とくに、いまののべてきた点で、みなさんの草の根の運動ということは、いまの社会での運動というだけでなく、将来の共産主義社会にとっても大事だとわたしは思います。さきほど、デンマークの本からの一節を引用して、上からの改革と下からの改革どちらも大事だといったのですが、みなさんの運動の積み重ねはまさにその下からの改革、下からの社会的理性の発揮そのものです。

 反戦集会に出ること、フェアトレードのコーヒーを買うこと、あるいはコンビニのレジのところで募金をすること、そういうことの一つひとつは誰でもなにかのきっかけがあればやることです。じっさいに多くの人がやっています。
 これまでものべてきましたが、それをめざすべき社会あるいはすでに育ちつつある社会の建設へとつなげていくこと、そこに自覚的であることによって、はじめて、「みんな誰でもする」という行為や考えは、共産主義的な生き方へと変化します。
 共産主義とは世界の外で生まれた生き方や考えではありません。
 すでにわたしたちのなかに育ち、多くの人がねがっている考えをその芽にもち、それを大きく育てたものが共産主義という考えであり生き方でありそして社会なのです。

 講義の最初に述べた問題、共産主義とは何か、それはどうやって現実のものとなるのか、いまわたしたちは何をすべきなのかは明瞭になったでしょうか?

6. おわりに――人間を解放するだけの富はすでにつくられつつある

 産業革命のころ(1751年)は、世界のエネルギーの利用量(消費量)は、石油換算で300万トン、マルクスが資本主義を観察し『資本論』第1巻をだした1867年でも1億4300万トン、それがいま(1997年)では83億3400万トンにふくれあがっています。資本主義は、けた外れに生産力を解放するという歴史的な役割を果たしたのです(前掲『二十一世紀と…』p41)。
 わたしたちは、発展途上国の人々をふくめても、じゅうぶんに豊かなくらしをしていける富を地球上にすでにもっています。

 次は、わたしがコミュニスト人生をはじめるにあたって、大きな役割を果たした本の一節です。いまのべた問題を考えるうえで、示唆深いものがあります。

「定められた時間内に解答がなければ学力はないと判定され、レポートや課題の提出がわずかでも過ぎれば『世の中甘くない』と一喝される。/本当に世の中が甘くないとしたら、そうしたのは人間だ。魔物ではなかろう。ならば皆で甘くしたらいい。みんなで甘く楽しく、ゆとりに満ちたおだやかな生活をしたらいい。生産力はそこまでとうに高まっている。古代ローマ帝国の市民は、年間の休日が二百二十日にも及んでいたのだ。奴隷がいたではないかと言われる。しかし今、機械にコンピュータ、単位面積当たり収穫量の劇的増大があるのだ。/資本の論理の前に、人間の論理は出る幕を失っている」(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』p211)

 資本主義によって解放された生産力と富は、一人当り1日25万キロカロリーのエネルギー利用をあてがっています。召し使い一人当りのカロリー消費量を2500キロカロリーとすると、わたしたち一人ひとりに100人の召し使いをつけていることになります(前掲『縮小文明…』p21)。
 世界を公正なものにしつつ、生産力をわたしたちに奉仕するものに変え、労働時間を短くしていく条件はととのいつつあります。マルクスは「時間は人間発達の場である」とのべ、労働時間の短縮によって自由時間を確保し、そのなかで人間が全面的な発達をとげることを共産主義社会での人間解放の目的としました。
 ギリシアやローマ時代に、人間の考える原型がすべてそこで出そろったといわれるほどの人間精神の開花がおこなわれたように、わたしたちは、その経済力をいかして、労働時間を短縮し、みずからの秘めている能力を全面開花させる時代を一歩一歩つくっていこうではありませんか。

 冒頭にのべたように、資本主義の現実を改革し、次の社会をつくるうえでは、共産主義という生き方なしにはわたしたちはいきていくことができないのです。くり返しになりますが、いまこそ「共産主義」という生き方を高くかかげようではありませんか。

 以上でわたしの話をおわります。

(終わり。嵐のような笑い)

 

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