村上かつら『村上かつら短編集』1・2巻


 かつて。

 そうさなあ、いまから十数年前。深夜のコンビニで買い物をしている若い男女を「フケツ!」などと見下した、うちのつれあいは、今すっかり同じことをしていることよなあ。

 村上かつらの本短編集には、二度こういうシーンが登場する(「天使の噛み傷」「(仮)スマ未満」)。主人公が「はたから見りゃまるで、『これからやります』丸出しだ」とモノローグしているように、その描写をじっとりとおこなうこと自身が、とても欲望的なまなざしを送っているのだとぼくも思う。


 青春が苦いとか痛いとかいうときに、この村上の描く作品のようには苦かったり痛かったりはしないだろう。少なくとも、1巻冒頭の短編「天使の噛み傷」で牛島聡美が床で舐めた精液ほどには、村上の作品は「にがく」ない。
 本当に痛いこととは無縁であろうかと思う。

 逆だ。
 キモチイイ、という種類のものである。とくにオトコには。

 オトコって、すーぐ欲望を叙情に変換したがるよね。ぼくを含めて。
 文学とはオナニーの発展だという筒井康隆の指摘は、実に正しい。

 村上の短編は、欲望に満ちあふれている。

 村上の描く女性が、ヤヴァイ。
 「天使の噛み傷」の牛島聡美にしろ、2巻短編の「いごこちのいい場所」の堀川夕子にしろ、少し上目遣いに淋し気な内実をかかえて、ぼくたちを見ている。
 それだけでもうズキューンとくるだろ。ふつう。
 そして、そこには、ズキズキするような欲望的シチュエーションと、文学的な感傷があればヨイ。村上の短編には、そんなものが溢れている。

 短編「天使の噛み傷」は、主人公・飯田が、「髪の長い」「美人」である牛島聡美と人気のない講義をとり、うだるような暑さの教室で、牛島のうなじに伝う汗と後れ毛に見とれる描写からスタートする。
 牛島は、自分のことを「ちっともおもしろくない」女だと卑下しており、自分の料理の腕一本で渡世をする「包丁無宿」ならぬ、下宿を転々とするかわりにフェラチオをして恩を返す「フェラチオ無宿」だと、淋し気に自己規定する。
 主人公の飯田は牛島聡美との野球観戦のあとで、自分の下宿で飲んだあと、同じ部屋で、しかし別々に寝る。寝ながら、牛島の細い手首に気づく。「測ってみる?」という牛島の誘いにのって、飯田はその細い手首にふれてみるのだ。手首を差し出してから、離れるまでの12コマの、ねっとりとした描き方は、まさに欲望のシズルを滴らせている。


 あるいは、短編「いごこちのいい場所」に出てくる「予備校に咲く一輪の花」である堀川夕子。主人公・耕平と堀川は同じ予備校に勤めているが、堀川夕子は、主人公・耕平の男友だちで予備校講師の春田に心をよせていて、主人公の思いは届かない。堀川夕子は、「キレイ」だけど、自分が「キレイ」だと気づいておらず、「女としてのたくらみがない」存在として描かれている。
 堀川夕子は、春田が他の女を抱くのを見てショックを受ける。
 ショックで打撃をうけたまま、堀川は、耕平をデートに誘う。
 無自覚な分だけ、堀川が耕平をデートに誘うのは実に罪深い。「カンジンなことをごまかしたまま」の「時間かせぎ」、すなわち、堀川の春田への思いを清算もできぬまま、混乱のうちに堀川は耕平を誘うのだ。
 しかし、いくら「カンジンなことをごまかしたまま」の「時間かせぎ」のものだったとしても、後ろに手を組んでのぞきこむように、「よかったら、わたしとデートしてください」なーんて言ってきた日にはどうよ。
 おれが耕平なら、まずデートを受けてしまうね。バカだから。
 耕平はその打撃をよく知っているが、やはり、ぼくよろしく、そのままデートを受けてしまう。
 堀川は、雨の降る夜の公園で、耕平と傘をさしながら座っている。
 堀川は無自覚なまま、自分の傷心を耕平にさらす。
 小さい時言われた「くさい」といういじめにトラウマがあるのだ、と堀川は〈自分語り〉をしたあとで、胸の前をはだけて、「ちかくにきて」と耕平に告げる。耕平はびっくりしながらも、堀川の胸の前に顔を近付け「か、体の奥のほうから、いやなにおいしない?」という堀川の問いかけにこたえるのだ。「むしろ、おんなのひとのからだのいい匂い……」がすると、耕平は頭の中で思うのだった。

 耕平は堀川への不毛な恋心を抱きながら、ずっと雨のベンチで堀川のトラウマ話を熱心に聞いている。耕平は可哀想なやつだ。
 だが、フェラチオ無宿のときの飯田と牛島の寝ながらの会話と同じように、トラウマや内面を語りあう堀川と耕平の間にも、いやというほどに性的な空気が流れている。

 春田のとなりに住む耕平は、自分の押し入れの穴から、となりの春田の部屋をのぞけるようになっていて、その穴から春田とよその女とのセックスを、堀川に見せてしまったことを、その雨のベンチの場で後悔し、泣きながら謝る(女が春田の部屋に行ったのを堀川がみて、堀川のほうから「押し入れで見せてくれ」と耕平に頼んだのであるが)。

 「泣かないで耕平くん

 と、堀川夕子は、耕平にむかっていう。
 ぼくは、内気な堀川のキャラからは、このセリフは出てきにくいと思う。しかし、この短編が、オトコにとってここちよいものであるためには、堀川にはこの癒しの言葉はどうしても必要だったに違いない。
 もう一度書いてみよう。

 「泣かないで耕平くん」

 耕平の謝り方も、独り善がりで自己満足的な気がするし、それを救う堀川のこの言葉もまたあまりにここちよすぎる。「泣かないで○○くん」って、大いなるものにあやされるような、ヤヴァイ癒しを感じるのは、ぼくだけであろうか(誰かぼくに言って!)。

 内面を語りあい、癒しをしあう。

 まるでネットやメールでのやりとりのように、極限までむきだしになった「内面」が「ピュア」にオトコの主人公の前にさらけだされる
 読んでいるオトコ読者は、ここで村上がくり出す性的な触手に、からめとられてしまうのである。十二分に性的な空気や装置を配置したあとで、村上は性的関係の核心に「言葉」によるやりとりをもってくる。
 男たちの恋心やスケベ心が成就しようがしまいが、女が男をふりむいてくれようがくれるまいが、なんだか妖し気なムードのなかで、トラウマ語りをしたり、内面をさらけだしあったりすることは、とりもなおさず、最高に性的な瞬間である。その二人は言葉でセックスをしている


 「ピュア」な内面をからませあうことが、ある場合には、もっとも性的な行為であるということを、村上は知悉しているのだ。コンプレックスやトラウマは、ピュアに関係しあうための、いわば材料でしかない。

 したがって、村上かつらの作品は、1ミリも胸にはつきささりません。
 ずっと絶頂のような、キモチイイ物質を垂れ流しているばかりなのです。