陸奥A子『パーシモンの夢』


パーシモンの夢

 つらい。つらすぎる。ひさびさにこれほどつらいマンガを読んだ。
 いや、ラストは希望を感じさせるんですけどね。

 7才の娘をもつ38才の主人公と41才の夫の仲が、ゆっくりと、しかし決定的に壊れていく――癌のように――さまを冒頭でじっくりと描いているせいである。
 といっても、夫が悪いというふうでもなく、妻が悪いというふうでもない。陸奥A子の(少なくとも最近の)作品には「悪人」は登場しない。「こういう気持ちのまろやかな人だったら、自分のすぐそばにいてもすごく快適なパートナーか友人だろうな」と思えるような人たちばかりが登場する。
 この作品では、この夫婦が、子どもをもつ前の「自然体」な2人での過ごし方をくり返し描写し、その比較で現在の「こわれぶり」を浮かび上がらせようとする。「パーシモンの夢」というタイトルも、その時代の思い出にひっかけているのである。
 たとえば、若い会社の後輩に新婚時代を語るシーン。

 「うちはねェ 独身の頃のように『ふたり』の時間を大事にしたかったから
  結婚しても家に居る時はふたりで静かにそれぞれ好きな本を読んだり
  ドライブする時はお気に入りの喫茶店によくいったりしたなぁ なつかしいわ
  “ふたり”の時間が心地良くて――
  とりたてて話すことがなくても楽しかったわよ
  (モノローグ:楽しかった……)」

 あのー、これ、うちの夫婦にかなり似てるんですけど。(スカしやがって、という人、ごめんなさい)
 というわけで、それがぼくの「つらさ」の根源だろうと思っている。
 これほど楽しい時間がすごせる恋人や夫婦でも、その関係に死がおとずれる、というのは、身をつまされるようなつらさがある。陸奥は、この夫婦がこわれるきっかけ(だと主人公が思っているもの)を、主人公が夫に黙って2人目の子どもを堕胎したことに求めている。取り返しのつかない過去、ということを浮き彫りにさせたいせいだろうが、ぼく的にはそのエピソードはなくてもいいと思う。ゆっくりと愛情が死んでいく、ということのほうが普遍的なんだから。ま、それはともかく。

 下の絵をみてほしい。愛情が緩慢な死をとげていく、という姿を、陸奥A子は、おどろくべきことに、真っ白なコマとそこに入るモノローグ、そしてほとんど数パターンしかない人物描写で描き切ってしまうの。驚くべきことだ。
 

 前半のほとんどをしめている主人公のモノローグは、これでもか、というほどにしつこい。

 「本当は訊きたい どこへ行ってるの? 
  やっぱり“あのこと”が原因であなたは変わってしまったの?
  わたしたちはこうなってしまったの? 沙織は?
  沙織は可愛くないの?」

 「本当なら この家にもうひとりの家族も居たはずなのに
  正直言って あの頃は仕事にも まだ小さかった沙織の育児にも 心底疲れていた
  だけど やっぱり わたしは自分のことだけしか考えず勝手に
  出してしまった答えを今でも後悔している
  今でも辛い
  もうわたしたちはどうしようもないの?」

 陸奥が好んで描くカットは、こうしたモノローグをする主人公を、画面の右下からやや見上げるような構図で、それは状況や運命にさからうことができない無力な、呆然とした主人公を十分にとらえている。そしてこのモノローグのくり返しは、悔いてもせんなきことにとらわれその意識にさいなまれつづける、地獄のような息苦しさを見事に活写している。

 陸奥の描く(少なくとも最近の)マンガは、楽しそうにしているシーンが全然楽しそうではない。子どもと戯れているシーン、会社の同僚と談笑しているシーンは、どれもみな虚ろで、そこには内実がないように見える。陸奥の本領は上記のようなモノローグ――苦悩のなかで呆然とつぶやく人間を描くときである。
 この作品の前に描かれた『ダーリンを探して』でもそうである。舞台となる家の年配の母親が、離婚した娘の婿に街で会い食事をするのだが、おしゃべりをしている時間はこのお母さんはちょっと子どももっぽくハシャいでいる。しかし、ふとその婿を見つめ直すモノローグのシーンは圧巻だ。「この人は……あの子にはもったいないくらいいい人だった……」。やはり右下からの構図である。それだけで取り返しのつかなさ、寂寥感がずっしりと伝わってくる。

 陸奥にとって、「現実」とは、仕事や家庭や談笑といった「外側」には存在しない。それは「心」のなかだけ、そしてそれがピュアに発現したときの会話にだけ存在している。

 そうした陸奥的な真実を描くためには、真っ白なコマとモノローグとシンプルな表情のカットだけで十分なのである。むしろ余計な夾雑物を排除することによって、まっすぐに「心のなか」を伝えることができる。それはインターネットというメディアによく似ている、とちょっと思った。

「モニター上に文字の配列として吐露される〈内面〉からは発信者の顔や名前や性別や職業、あるいは声や筆跡といった固有性に関わる要素の一切が剥奪されている。つまり、『書かれたこと』それ自体しか〈私〉を表さないのだ。……言い方を変えれば『不純物のない内面』が発信される。……インターネットは人が人を理解する時に障壁や軋轢となる固有性――外見や年齢や、その人の社会的地位を始めとするさまざまな要素――が存在せず〈内面〉と〈内面〉が直接、対話してしまうのである」(大塚英志「ドクター・キリコと『心』を語ることば」)

 むろん、陸奥のマンガは固有性を描写している。しかし、絵的には極力それが排除されて、ピュアな内面をそのまま表すのに適した絵なのである。


(集英社 クイーンズコミックス、2003年)ISBN4-08-865138-3 C9979
採点82点/100 年配者が読んでも楽しめる度★★★★☆
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